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追放された宮廷調香師は、辺境の村で竜の眠りを解く――香りだけで呪いも戦争も終わらせます  作者: たむ


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第八十三話 空の椀は、底まで空でいい

「空の椀は、何でも入れていいわけじゃないらしい。」


リクの手紙を受け取ったアリアンヌは、その一文を王城の温室で何度も読んだ。


母上の古い木椀は、昨日と同じ場所にあった。


朝露を含ませた布片は、少し乾き始めている。


金木犀はない。


けれど、温室の湿った土と薬草の匂いの中に、確かにリューネ村の風が少し残っている気がした。


アリアンヌは木椀を見つめ、王城の侍従がそっと花を入れようとした時、静かに止めた。


「入れなくていいです」


侍従は戸惑った。


「ですが、空のままでは寂しく見えます」


「寂しく見えても、今日は空のままにします」


「水も?」


「水も」


「香草も?」


「香草も」


侍従は深く頭を下げた。


アリアンヌは少し迷い、それから付け加えた。


「空の椀は、底まで空でいい日があります」


その言葉は、その日のうちに手紙となってリューネ村へ届いた。


――リクへ。


――空の椀に、侍従が花を入れようとしました。


――悪意ではありません。


――寂しく見えたのだと思います。


――でも、今日は止めました。


――空の椀は、底まで空でいい日があります。


――母上への咲き始めた手紙は、まだ温室にあります。


――今日はアリアンヌ。


――王女の服は、温室の椅子に掛けたままです。


リクはその一文を読んで、しばらく黙っていた。


「底まで空でいい」


彼は呟いた。


ミナが頷く。


「とても大切な言葉ですね」


リュミナは椀を覗き込むような顔で言った。


「底まで空は、難しい」


「お前には特にな」


セリカが言う。


「空を見ると何か入れたくなるからな」


リュミナは真剣に反論した。


「入れるべき椀と、入れぬべき椀がある」


「学んだな」


「私は成長する竜だ」


リクは今日だけの棚に札を書いた。


“空の椀は、底まで空でいい。”


それは、金木犀のそばの棚に置かれた。


椀のそばに。


椀は今、空だった。


朝露も乾き、底には何もない。


だが、空であることが、昨日より少し強く見えた。


昼前、白盾記録院から報告が届いた。


王都の待合室で、また新しい出来事があったという。


例の補償を待つ女性が、三度目に訪れた。


彼女は入口の札を見て、


“できていないなら、できていないところから話して。”


と前回言った人だ。


今回は、記録官が彼女に尋ねた。


“今日は何を聞きたいですか。”


彼女は答えた。


“今日は、何も聞きたくない。でも来たことだけ記録して。”


記録官は、手続きの進行を説明しようとして、止まった。


そして確認した。


“本当に、来たことだけでよいですか。”


女性は頷いた。


“今日は、それだけ。”


記録にはこう残された。


“来た。何も聞きたくない日。”


リオが読み上げると、戻り香の家は静かになった。


セリカが言った。


「手続きは進めなければならない。だが、本人が今日は聞かないと言ったなら、聞かせないことも必要だ」


ミナが頷いた。


「“知る権利”と、“今日は聞かない権利”は両方あります」


リクは札を書いた。


“来た。何も聞きたくない日。”


それは間の棚に置かれた。


その下に、リュミナが慎重な字で書いた。


“椀を見せるだけの日もある。”


セリカはそれを見て、消さなかった。


午後、王都の“スープを飲んだ人”からも手紙が届いた。


――リクへ。アリアンヌへ。


――空の椀を底まで空にしたと聞いた。


――私は、その空を見て落ち着かなかった。


――何かを入れたくなった。


――花ではなくとも、言葉を。


――謝罪を。


――説明を。


――王としての反省を。


――父としての何かを。


――しかし、それもまた勝手に盛ることなのだと思い、今日は何も書かなかった。


リクはそこで一度、顔を上げた。


「書いてるじゃん」


セリカが少し笑った。


「何も書かなかったことを書いているな」


リュミナが頷く。


「空腹を報告するようなものだ」


「それは違うようで、ちょっと合ってる」


手紙は続く。


――今日は、スープを飲んだ人。


――追伸。肉は噛める。二杯目は残した。


リクは最後を見て笑った。


「残した」


ミナが微笑む。


「残す権利ですね」


リュミナは一瞬悔しそうにしたが、すぐ頷いた。


「二杯目なら仕方ない」


国王の一文は、今日だけの棚ではなく未送信の手紙箱の横へ置かれた。


“何かを入れたくなったが、今日は何も書かなかった。”


リクはそれを見て、少し考えた。


「スープの人も、鍵置き場を使ってるみたいだな」


「そうですね」


リオは答えた。


「見えない鍵を、今日は置いたのかもしれません」


夕方、レムリア商市からも便が届いた。


サラ・ベルテの報告は短かった。


――戻り香の家へ。


――“私の怒りを入れないでください”と言った女性が、今日も記録所へ来ました。


――彼女は空の椀を見て言いました。


――“今日は、底まで空でいてください。”


――私たちは何も入れませんでした。


――料理長も鍋を作りませんでした。


――ただ、椀を洗って乾かしました。


リュミナは深く頷いた。


「洗って乾かす。非常に重要だ」


リクは聞いた。


「空なのに洗うの?」


「空でも埃は入る」


セリカが答える。


「空を保つにも手入れがいる」


ミナが札を書いた。


“底まで空でいてください。”


リクがその下に書く。


“空を保つにも手入れがいる。”


それらは今日だけの棚に置かれた。


金木犀の香りは、夕方になると少し強くなった。


風がやわらかく、花の香りを家の入口まで運んでくる。


リオはまだ瓶にしなかった。


今日も風。


けれどリクは、花の前に置かれた空の椀を見ていた。


「空って、何もしないことじゃないんだな」


「はい」


リオは頷いた。


「空にしておくために、誰かが入れないように見ていることがあります。洗って乾かすこともあります。勝手に意味を盛らないこともあります」


リクは椀の底を見た。


「空のままでいてほしい日もある」


「はい」


「でも、朝露が入る日もある」


「はい」


「本人が入れる日もある」


「はい」


「むずい」


「はい」


リュミナが横から言う。


「椀は深い」


「物理的にもな」


セリカが言うと、リクは笑った。


その夜、リオは新しい小瓶を作った。


王城の温室。


底まで空でいい日。


花を入れようとした侍従の善意。


それを止めたアリアンヌ。


何も聞きたくない日に来た女性。


何かを入れたくなったが、今日は何も書かなかった王。


底まで空でいてくださいと言ったレムリアの女性。


洗って乾かされた椀。


香り続ける金木犀。


ラベルは、


“空の椀は、底まで空でいい。”


その瓶は今日だけの棚に置かれた。


今日だけの棚は、もう明らかに今日だけではなかった。


だが、まだ誰も名前を変えなかった。


名前を変える時も、急がなくていい。


香りは残る。


底まで空の椀にも。


何も聞きたくない日に来た足音にも。


そして、寂しく見えるからといって花を入れず、空の底まで空のまま守った、善意の手前の小さな勇気にも。

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