第八十二話 摘まなかった花は、王都で香る
アリアンヌが王都へ戻った翌日、王城の温室に小さな椀が置かれた。
戻り香の家から持ち帰った椀ではない。
王城にあった白磁の椀でもない。
古い木の椀だった。
王妃エレオノーラが、夜に薬湯を飲む時に使っていたものだという。
アリアンヌはそれを温室の片隅に置いた。
何も盛らなかった。
花も、水も、手紙も。
ただ、リューネ村から持ち帰った朝露を含ませた布片を、椀の隣に置いた。
摘まなかった花の代わりに。
母上へ書いた咲き始めた手紙は、王妃の机ではなく、温室の椅子の上に置いた。
箱ではない。
霊廟でもない。
王城の記録棚でもない。
温室の、少し湿った空気の中。
アリアンヌはその日のうちに、リクへ手紙を書いた。
――リクへ。
――帰りました。
――少し急ぎました。
――でも、花は摘みませんでした。
――持ってきた朝露の布を、母上の椀の横に置きました。
――母上への咲き始めた手紙も、温室に置きました。
――王城には金木犀はありません。
――でも、不思議なことに、少し香る気がします。
――今日はアリアンヌ。
――王女の服は、温室の椅子に少しだけ掛かっています。
リクはその手紙を読んで、金木犀の前で長く黙っていた。
花は昨日より少し開いている。
香りも強くなった。
それなのに、摘まなかった花が王都で香るという。
「変なの」
彼は言った。
でも、嫌そうではなかった。
リオは頷いた。
「香りは、物だけで運ばれるわけではありませんから」
「朝露の布で?」
「それもあります。でも、アリアンヌさんの中に残った香りもあると思います」
リクは花を見た。
「摘まない方が、届くこともあるのか」
ミナが静かに言った。
「あると思います」
リュミナが鍋を混ぜながら頷く。
「鍋を全部持っていかず、味を覚えて帰ることがある」
セリカが言う。
「今回は本当にいい例えだな」
「私はいつも」
「それは違う」
リクは今日だけの棚に札を置いた。
“摘まなかった花が、王都で香った。”
それは大きすぎる気もした。
でも、今日の札ならよかった。
昼、王都からもう一通届いた。
国王からだった。
――リクへ。
――アリアンヌが温室に椀を置いた。
――何も盛っていない。
――私はその椀を見た。
――朝露の布も見た。
――金木犀はない。
――だが、確かに少し香る気がした。
――王は、花を手に入れたくなる。
――庭に移せ、枝を持ってこい、種を集めろ、と命じたくなる。
――今日は命じなかった。
――今日は、スープを飲んだ人。
――追伸。肉は噛める。だが急に増やすなとメリッサに言われた。
リクは最後を読んで笑った。
「ちゃんと止められてる」
リュミナは少し不満そうだった。
「回復には肉がいる」
ミナが優しく言う。
「急に増やしてはいけません」
「火加減か」
「はい」
リクは国王の手紙の中ほどを読み返した。
――今日は命じなかった。
彼はその一文を、間の棚に置いた。
“今日は命じなかった。”
セリカがそれを見て、深く頷いた。
「王にとって、しなかった命令は重要だ」
リオも同意した。
命令しないこと。
移せと言わないこと。
摘めと言わないこと。
手に入れないこと。
それもまた、空の椀の一種だった。
午後、白盾記録院から報告が来た。
王城の温室に椀が置かれたことを聞いた一部の役人が、“記念植樹計画”を提案したという。
王都の広場に金木犀を植え、リューネ村との和解の象徴にする。
リクは報告を読んだ瞬間、顔をしかめた。
「早い」
セリカも同じ顔をした。
「早すぎる」
ハルトは苦い顔で続けた。
「提案は保留されました。アリアンヌ様が、“まだ花を見に来ていない人たちの速度を、広場に植えて急がせないでください”と述べられました」
リクは少し驚いた。
「姉さんが?」
「はい」
「強いな」
ミナが微笑む。
「花のそばで少し休めたからかもしれません」
報告には、エルヴィンの意見書も添えられていた。
薄い。
皆が驚いた。
――記念植樹は、本人たちの同意と時期の成熟を要する。
――象徴化は、回復の結果として起こることはあるが、回復の手段として強制してはならない。
――特に、花を見ていない者、花を見たくない者、花を失った者の存在を無視してはならない。
――今は保留。
追伸。
――リュミナへ。苗木は食用ではない。
リュミナは不満そうに眉を寄せた。
「誰が食べると言った」
リクが即答した。
「お前」
「まだ言っていない」
「言う前に止められたんだよ」
セリカは今日だけの棚のそばに新しい札を掛けた。
“象徴にするには早い。”
リクが下に書く。
“花を見たくない人もいる。”
ミナがさらに足した。
“植えるなら、植えていいか聞く。”
リュミナはしばらく考え、
“苗木は食べない。”
と足した。
セリカは今回は消した。
夕方、レムリア商市からも便が届いた。
サラ・ベルテは、王都の温室の話を聞いたわけではないだろう。
しかし、不思議と似た報告だった。
――戻り香の家へ。
――“今日は名前を言わない者”は、今日も来ませんでした。
――料理長は鍋を作りませんでした。
――しかし、別の女性が記録所へ来て、空の椀を見て尋ねました。
――“これは誰の椀ですか。”
――私たちは答えました。
――“今は、まだ決めていない椀です。”
――彼女は少し笑い、“なら、私の怒りを入れないでください”と言いました。
――私たちは、何も入れませんでした。
リクは読み終え、ゆっくり息を吐いた。
「怒りを入れないでください」
ミナが頷いた。
「とても大事な言葉です」
セリカが言った。
「空の椀は、何でも受け止めるためのものではない」
リュミナも真剣に頷く。
「空だからといって、勝手に盛るな」
今日だけの棚に札が増えた。
“まだ決めていない椀。”
“私の怒りを入れないでください。”
リオはその二枚を見て、空の椀の難しさを思った。
空であることは、歓迎ではない。
空だから何でも入れていいわけではない。
空の椀は、本人が置いたものを待つ場所であって、記録者や周囲の人間が都合よく感情を注ぎ込む器ではない。
夜、リクはアリアンヌへ返事を書いた。
――姉さんへ。
――摘まなかった花が王都で香ったなら、よかった。
――でも、広場に植えるのは早いと思う。
――姉さんが止めたって聞いた。すごい。
――こっちの花は少し増えた。
――香りも少し増えた。
――でも、今日は瓶にしてない。
――今日は風。
――今日はリク。
少し迷って、最後に書く。
――空の椀は、何でも入れていいわけじゃないらしい。
それは、アリアンヌにも、王にも、白盾記録院にも必要な言葉だった。
その夜、リオは花の香りをまだ瓶にしなかった。
ただし、花の周りで起きたことの香りを小瓶にした。
王城の温室。
母上の椀。
朝露を含んだ布。
金木犀のない場所で香った気配。
命じなかった王。
止められた記念植樹。
まだ決めていない椀。
怒りを入れないでくださいという女性の声。
ラベルは、
“摘まなかった花は、王都で香る。”
リクは瓶を見て、少しだけ誇らしそうにした。
「摘まなくてよかったな」
「はい」
「でも、広がりすぎないようにしないと」
「はい」
「花も、棚も、椀も」
「はい」
外では金木犀が咲き進んでいる。
香りは少しずつ濃くなっている。
でも、まだ風の中に置かれている。
香りは残る。
摘まなかった花にも。
今日は命じなかった王の手にも。
そして、空だからといって何でも注ぎ込まれるわけではないと、静かに拒んだ椀の白い底にも。




