第八十一話 明日だけの沈黙を置く
今日だけの棚は、三日目にも残っていた。
もう誰も「今日だけなのに」とは言わなかった。
金木犀の花は、少しずつ開いている。満開ではない。けれど、朝の光が葉のあいだを抜けると、小さな花たちは昨日より確かに数を増していた。
香りも、ほんの少し強くなった。
近づけばわかる。
風がこちらへ向くと、台所の入口でも一瞬だけわかる。
リュミナはその一瞬を捕まえるたびに、鍋から顔を上げた。
「来た」
「何が」
リクが尋ねる。
「香りだ」
「食べ物じゃないぞ」
「わかっている。だが腹が減る」
「もうそれは体質だな」
アリアンヌは今日だけの棚の前に座り、母上への咲き始めた手紙を読まないで眺めていた。
箱ではなく、花のそば。
昨日はそれでよかった。
今日も、まだそれでよい気がした。
けれど、彼女は新しい紙を一枚取り出した。
何も書かない。
ただ、手紙の横に置く。
リクが見た。
「白紙?」
「うん」
「書くの?」
「今日は、書かない紙」
リクは少し考えた。
「明日書くかもしれない?」
「書かないかもしれない」
「じゃあ、明日だけの沈黙?」
アリアンヌは目を丸くした。
ノアの歌の一節。
――明日だけの沈黙も、置いておける。
リクは少し照れたように頭をかいた。
「なんか、そんな感じ」
アリアンヌは微笑んだ。
「はい。明日だけの沈黙です」
木札が増えた。
“明日だけの沈黙。”
それは今日だけの棚に置かれた。
ミナがその札を見て、静かに言った。
「今日の棚に、明日の沈黙を置くんですね」
「変?」
リクが聞くと、ミナは首を横に振った。
「とても自然です」
セリカが白盾を磨きながら言った。
「人は今日だけでできていない。昨日と明日が混じっている」
リュミナが言う。
「鍋も昨日の出汁と今日の具と明日の残りでできる」
セリカは一瞬黙った。
「……悔しいが、合っている」
昼前、王都からエルヴィンの手紙が届いた。
封筒は厚くなかった。
リクはそれだけで少し警戒を緩めた。
「薄い」
アリアンヌが微笑む。
「兄上も学んでいるのかもしれません」
「学んでるならいいけど」
手紙は、珍しく余白が多かった。
――リクへ。アリアンヌへ。
――“今日だけの棚が明日も残る”という報告を読んだ。
――制度において、“仮置き”されたものが恒久化することは危険である。
――しかし、人の心において、仮置きの場所がしばらく必要となることはある。
――問題は、誰が片づける権利を持つかである。
――私は以前、他人の仮置きを勝手に恒久化し、また勝手に撤去してきた。
――継承、封印、保護、必要性という名で。
――だから、今日だけの棚については、片づける者を決めすぎない方がよいと思う。
――ただし、本人の同意なしに公的棚へ移してはならない。
リクは読みながら、眉を寄せた。
「まともだ」
セリカが頷く。
「まともだな」
アリアンヌは少し寂しそうに笑った。
「兄上は、まともなことを書くほど、自分の罪に近づきますね」
ミナが静かに言った。
「近づける日と、近づけない日があると思います」
リクは手紙の続きを読んだ。
――追伸。
――リュミナへ。仮置きの食材は腐敗する前に処理する必要がある。これは法ではなく衛生である。
リュミナが厳かに頷いた。
「完全に同意する」
「お前への追伸だけ妙に平和だな」
リクが言うと、アリアンヌは少し笑った。
エルヴィンの手紙から、新しい札が作られた。
“仮置きの場所が、しばらく必要なことがある。”
“本人の同意なしに、公的棚へ移さない。”
これは今日だけの棚ではなく、戻り香の家の入口近くに掛けられた。
人が見てわかる場所に。
今日だけの棚が育つほど、勝手に制度へ持っていかれないように。
午後、レムリア商市から短い伝言が届いた。
“今日は名前を言わない者”は、さらに翌日、記録所に来なかったという。
サラ・ベルテはこう書いていた。
――来なかった日を、どう扱うか迷いました。
――以前なら“欠席”とだけ記録しました。
――今日は、“来なかった。理由を記録者が決めない。”と書きました。
――料理長は鍋を作りませんでした。
――ただし、火口の灰を整えて帰りました。
リュミナがその文を読んで、深く頷いた。
「火を起こさない日にも、灰を整える」
セリカが言う。
「待つ準備だけ残す、ということか」
「そうだ。焦がさないためにも」
リクは札を書いた。
“来なかった。理由を記録者が決めない。”
ミナがもう一枚。
“火を起こさない日にも、灰を整える。”
それらは日々の棚と間の棚の境目に置かれた。
アリアンヌはその札を長く見ていた。
「王城にも、来なかった理由を勝手に決めた記録がたくさんあります」
リクは彼女を見た。
「リオンの?」
「うん。私のも。母上のも、父上のも」
「直す?」
アリアンヌは少し考えた。
「一度に全部は直せません」
「じゃあ、今日だけ?」
「はい。今日だけ、一つ」
その日の夕方、アリアンヌは王城へ戻る前に、一枚の小さな紙を書いた。
宛名はない。
――リオンが来なかった理由を、私は長いあいだ勝手に決めていました。
――憎んでいるから。
――忘れたから。
――私を捨てたから。
――本当は、知らなかった。
――今日は、理由を決めない日にします。
彼女はそれをリクに見せた。
リクは読んで、しばらく黙っていた。
「怒ってた?」
アリアンヌは頷いた。
「怒っていました」
「今も?」
「少し」
リクは頷いた。
「それは、いい」
アリアンヌの目が少し潤んだ。
「ありがとう」
リクは木札を書いた。
“今日は、理由を決めない日。”
それは今日だけの棚に置かれた。
アリアンヌはその札を見て、深く息を吐いた。
「箱ではなく、ここに置きたいです」
「うん」
「花のそばに」
「うん」
「明日、王都で同じことができるかわかりません」
「今日だけでいいんじゃない?」
アリアンヌは微笑んだ。
「はい」
王都へ帰る馬車の前で、リクはアリアンヌに小さな包みを渡した。
中には、金木犀の花ではなく、今日だけの棚に置いてあった空の椀に入った朝露を染み込ませた布片があった。
花を摘まなかった。
露を全部取ったわけでもない。
椀の底に残っていたほんの少しを、布に含ませただけ。
「これ、何?」
アリアンヌが尋ねる。
リクは少し照れた。
「空の椀に入ったやつ。持って帰るなら、これくらい」
「花は?」
「摘まない」
「うん」
アリアンヌは包みを胸に抱いた。
「ありがとう」
「急がなくていいけど」
「少し急いで帰ります」
「帰るのも?」
「はい。母上への手紙を、王都でも花のそばの気持ちで置けるか試したいので」
「そっか」
リクは頷いた。
「少しならいい」
馬車が出る。
アリアンヌは窓から手を振った。
リクは大きく振り返した。
金木犀の香りが、風に乗って少しだけ届いた。
その夜、リオは新しい香りを作った。
明日だけの沈黙。
エルヴィンの仮置きの忠告。
レムリアの来なかった理由を決めない記録。
火を起こさず灰を整えた料理長。
アリアンヌの“今日は理由を決めない日”。
摘まなかった花。
朝露を含ませた布。
少し急いで帰った馬車。
ラベルは、
“明日だけの沈黙を置く。”
その瓶は今日だけの棚に置かれた。
今日だけの棚は、明日も残るだろうか。
たぶん、残る。
でも、誰かが片づけたい日が来たら、その時に聞けばいい。
本人に。
棚に。
花に。
香りは残る。
明日だけの沈黙にも。
来なかった理由を勝手に決めない紙にも。
そして、摘まずに残した花の代わりに、空の椀の朝露だけをそっと持ち帰る、少し急いだ帰り道にも。




