第八十話 今日だけの棚が、明日も残るなら
金木犀のそばに作られた“今日だけの棚”は、翌日になっても片づけられなかった。
誰かが片づけ忘れたわけではない。
リオも、ミナも、セリカも、リクも、アリアンヌも、その存在に気づいていた。
ただ、誰も「もう今日ではない」と言わなかった。
小さな板の上には、木札と小瓶が並んでいる。
“ほんの少し香った。”
“今日は風。”
“急がなくていい、と言われた人は少し急ぐ。”
“母上が見たかもしれない時間。”
“空のまま置いた椀。”
“空の椀にも、朝露は入る。”
“見たかったと思う。”
“母上への、咲き始めた手紙。”
そして、昨夜作られた小瓶。
“空の椀にも、朝露は入る。”
同じ言葉が札と瓶にある。
リクはそれを見て、少し首を傾げた。
「今日だけって言ったのに」
アリアンヌは隣で金木犀を見上げていた。
「片づけますか」
「うーん」
リクは考えた。
花は、昨日より少しだけ開いている。
香りも、昨日より少しだけわかる。
今日も今日なのだ。
でも、昨日の今日とは違う。
「今日だけの棚って、毎日今日なら、ずっとあるのかな」
リュミナが朝の鍋を抱えるようにして言った。
「鍋も毎日今日の鍋だ」
セリカが即座に答えた。
「お前は黙っていると話が進む」
「重要な比喩だ」
「少し重要だから困る」
ミナは板の前にしゃがみ、木札を一枚ずつ見た。
「“今日だけ”という名前のまま、しばらく残してもいいのではないでしょうか」
「名前と役目がずれてない?」
リクが尋ねる。
リオは微笑んだ。
「ずれも記録になります」
アリアンヌが静かに言った。
「今日だけと思って置いたものが、明日も残ることがあります」
彼女の声には、箱の中の未送信の手紙の重さがあった。
母への手紙。
リオンへの手紙。
リクへの手紙。
父への手紙。
今日だけ預けるつもりだった言葉が、次の日も、また次の日も残る。
けれど、それは失敗ではない。
残ることで、少しずつ呼吸するものもある。
リクは木札を一枚足した。
“今日だけの棚が、明日も残っている。”
それを板の端に置いた。
「とりあえず、これ」
「はい」
リオは頷いた。
朝食の後、アリアンヌは母への咲き始めた手紙を箱の前から取り上げた。
読む。
少しだけ筆を入れる。
また読む。
それから、手紙を二つに折った。
リクは隣で見ていた。
「箱?」
アリアンヌは首を横に振った。
「まだ箱じゃない」
「じゃあ送る?」
「送れないでしょう」
「まあ、母上へだしな」
「でも、置く場所を変えたい」
二人は金木犀のそばへ行った。
アリアンヌは今日だけの棚の上に、その手紙を置いた。
母上へ。
金木犀が咲き始めました。
空の椀に朝露が入りました。
父上も見たかったと思うそうです。
その手紙は、箱の中ではなく、花のそばに置かれた。
リオが尋ねた。
「ここでよいのですか」
アリアンヌは頷いた。
「はい。今日は、母上への手紙を箱ではなく、花のそばに置きたい」
「はい」
「明日は変えるかもしれません」
「はい」
リクは木札を書いた。
“今日は、箱ではなく花のそば。”
アリアンヌはそれを見て、少し笑った。
「ありがとう」
「うん」
昼前、王都から国王の手紙が届いた。
今度は短い。
――リクへ。アリアンヌへ。
――朝露のことを聞いた。
――空の椀に入ったものを、誰かが盛ったものとして扱わないこと。
――それも大事なのだと思った。
――王は、偶然や自然に入ったものまで、自分の成果として語りたがる。
――気をつける。
――今日は、スープを飲んだ人。
――追伸。肉は見える。噛める。
リュミナは最後の一文で深く頷いた。
「完全な進歩だ」
「完全って言うな」
リクが言った。
「咲き始めた改革をすぐ成果にするなって言ってたばっかだろ」
リュミナは真剣に考えた。
「では、噛み始めた進歩」
セリカが笑った。
「それならいい」
アリアンヌは父の手紙を見て、少し柔らかく笑っていた。
「父上、最近、追伸の方が自由ですね」
リクは頷く。
「本文よりスープの人っぽい」
「スープの人っぽい」
アリアンヌがその言葉を繰り返し、少し笑った。
国王の一文は、間の棚に置かれた。
“偶然や自然に入ったものを、自分の成果として語らない。”
リクがその下に足した。
“朝露は朝露。”
リュミナがさらに足した。
“肉は見える。噛める。”
セリカはそれを見て、消さなかった。
「今日は許す」
午後、レムリア商市からも報告が届いた。
サラ・ベルテの字は、前より少しやわらかくなっていた。
――戻り香の家へ。
――“今日は、兄が好きだった煮込みを食べる者”は、翌日、“今日は名前を言わない者”になりました。
――私たちは名前を聞きませんでした。
――記録欄には、本人の許可を得て“今日は名前を言わない者”とだけ書きました。
――彼は何も食べずに帰りました。
――料理長は鍋を火から下ろしました。
――焦げませんでした。
リュミナが小さく息を吐いた。
「料理長、成長している」
リクは頷いた。
「食べない日もあるしな」
ミナは札を書いた。
“今日は名前を言わない者。”
そしてもう一枚。
“鍋を火から下ろした料理長。”
日々の棚と間の棚の境目に置かれた。
リオは、その二枚の札の間にある静けさを感じた。
名前を言わない者。
鍋を火から下ろした者。
どちらも、何かをしなかった記録だ。
言わなかった。
食べなかった。
焦がさなかった。
差し出し続けなかった。
その“不在”にも香りがある。
ノアはその日の夕方、短い歌を作った。
――名を言わない人のために、鍋は火を弱める。
――食べない日にも、台所は消えない。
――今日だけの棚が、明日もあるなら、
――明日だけの沈黙も、置いておける。
アリアンヌはその歌を聞いて、目を閉じた。
「母上への手紙も、明日だけの沈黙になれるでしょうか」
ノアは頷いた。
「なれます」
「読まれなくても?」
「読まれなくても」
リクが言った。
「花のそばにあるし」
アリアンヌは微笑んだ。
「そうですね」
夕方、金木犀の香りは昨日より少し強くなった。
それでも、まだ満ちるほどではない。
近づくとわかる。
離れると風に溶ける。
リクは深く吸い込みすぎて、少しむせた。
アリアンヌが笑う。
「急いで嗅がなくても」
「わかってる」
「少し急ぎましたね」
「少し」
二人は顔を見合わせて笑った。
今日だけの棚に、新しい札が増えた。
“少し急いで嗅いだ。”
リュミナが隣に書いた。
“香りは食べられない。”
リクが言う。
「当たり前だろ」
リュミナは真剣に答えた。
「だが腹が減る」
セリカが諦めたように言った。
「それはもう、お前だけの真理だ」
夜、リオは花の香りをまだ瓶にしなかった。
今日も風。
けれど、今日だけの棚そのものの香りを小瓶にした。
木の板。
朝露。
箱ではなく花のそばに置かれた手紙。
国王の“朝露は成果ではない”。
名前を言わない者。
鍋を火から下ろした料理長。
少し急いで嗅いだリク。
静かに笑うアリアンヌ。
ラベルは、
“今日だけの棚が、明日も残るなら。”
リクは瓶を見て言った。
「続きみたいな名前だな」
リオは頷いた。
「はい。まだ続きます」
「どう続くの?」
「明日にならないと、わかりません」
リクは満足そうに頷いた。
「じゃあ、明日でいい」
その瓶は今日だけの棚に置かれた。
今日だけの棚は、明日も残るかもしれない。
残らないかもしれない。
それを今、決めなくてもいい。
香りは残る。
明日も残った今日だけの棚にも。
名前を言わない人のために火を下ろした鍋にも。
そして、空のまま置いた椀に朝露が入ったからといって、それを誰かの成果にせず、ただ朝露として光らせておく、花のそばの小さな知恵にも。




