第八十六話 花に聞くつもりで待つ
金木犀の香りをまだ瓶にしない、とリオが決めてから、リクは毎朝、花に向かって少し妙な顔をするようになった。
聞いている顔だ。
「今日、瓶にしていい?」
もちろん、花は答えない。
小さな橙の粒が、葉の影で風に揺れるだけだ。
けれどリクは、返事を待つように少し黙り、それから頷く。
「まだっぽい」
ミナは隣で微笑んだ。
「どうしてそう思うのですか」
「なんか、まだ風にいたそう」
「そうですね」
「瓶にしたら、ちょっと早い気がする」
リオはそのやり取りを聞きながら、調香道具を棚に戻した。
香りを残す者として、瓶にしないことを選ぶのは難しい。
香りは消える。
風に流れる。
昨日の濃さは今日には戻らない。
だから、つい閉じ込めたくなる。
けれど、閉じ込める前に聞く。
それが、戻り香の家がここまで学んできたことだった。
リュミナは鍋を混ぜながら言った。
「香りにも椅子がいる」
リクが振り返る。
「どういうこと?」
「すぐ瓶に入れず、休む場所を作る」
セリカが腕を組んだ。
「今日も正しいな」
「私は成長する竜だ」
「本当に否定しづらくなってきた」
その日、リオは今日だけの棚に新しい札を置いた。
“花に聞くつもりで待つ。”
リクがそれを見て、少し照れたように言った。
「俺の変な顔も記録?」
「顔ではなく、待ち方です」
「ならいい」
午前、王都から白盾記録院の報告が届いた。
“座ることも、仕事になる”という札が入口に掲げられてから、記録官たちの休憩が少し変わったという。
これまで、記録官は証言者や遺族の前で疲れを見せてはいけないと考えていた。
立ち続け、書き続け、頷き続けることが誠実だと思われていた。
しかし、ある年長の記録官が初めて、証言の途中でこう言った。
“私は少し座って聞きます。聞くことをやめるわけではありません。”
証言者の男性はしばらく黙り、それから答えた。
“座ってください。倒れられると、こちらが困る。”
その場にいた全員が少し笑ったという。
報告書には、その時の記録官の言葉が添えられていた。
――座ったら、聞く力が戻りました。
ミナはその一文を読んで、深く頷いた。
「聞く力にも、休みが必要です」
セリカが言う。
「倒れないことも職務だな」
リュミナが真剣に頷く。
「鍋番と同じだ」
リクは札を書いた。
“座ったら、聞く力が戻った。”
それは台所と今日だけの棚の間、“座ることも、仕事になる”の隣に置かれた。
午後、レムリア商市から手紙が来た。
サラ・ベルテの報告には、料理長の話が続いていた。
――戻り香の家へ。
――作らない料理人は、今日、椅子に座って火口を見ていました。
――すると、別の子どもが来て、空の椀を指差しました。
――“これはごはんを待っているの?”と聞きました。
――料理長はしばらく考えて答えました。
――“今日は、ごはんを待っていない椀だよ。”
――子どもは納得せず、“じゃあ何をしているの?”と聞きました。
――料理長は答えました。
――“空でいる練習。”
リクは読みながら少し笑った。
「子ども、鋭いな」
リュミナは腕を組んだ。
「椀がごはんを待っていない日は、難しい」
「お前には特にな」
「しかし練習は必要だ」
ミナが札を書いた。
“今日は、ごはんを待っていない椀。”
リオがもう一枚。
“空でいる練習。”
それらは今日だけの棚に置かれた。
今日だけの棚は、棚というより、花のそばの小さな広場のようになりつつあった。
重い言葉も、笑える言葉も、未送信の紙も、空の椀も、椅子の影も、風の香りも、みなそこに少しずつ集まっている。
リクはそれを見て、少し不安そうに言った。
「増えすぎ?」
セリカは棚を見た。
「そろそろ、誰が片づけたいか聞く必要はあるな」
アリアンヌは王都にいる。
国王の手紙もある。
リディアの名も、レムリアの記録もある。
今日だけの棚に置かれたものは、もうリクだけのものではなくなっていた。
リオは頷いた。
「片づけるのではなく、まず聞きましょう」
「誰に?」
「関わっている人に。今はここに置いてよいか、写しを取るか、動かすか、動かさないか」
リクは少し顔をしかめた。
「大変だな」
「はい」
「でも、勝手に公的棚へ移さないって書いたしな」
「はい」
その日の夕方、リクはアリアンヌへ手紙を書いた。
――姉さんへ。
――今日だけの棚が増えてきた。
――片づけるかどうかじゃなくて、まず聞こうって話になった。
――母上への咲き始めた手紙は、まだ花のそばでいい?
――空の椀の札も、まだ置いていい?
――こっちの花は、まだ瓶にしてない。
――花に聞くつもりで待ってる。
――今日はリク。
同じように、王都の“スープを飲んだ人”にも書いた。
――スープを飲んだ人へ。
――今日だけの棚が増えた。
――あなたの“見たかったと思う”も置いてある。
――まだ花のそばでいいか、聞く。
――嫌なら動かす。
――王様の言葉だからって勝手に置きっぱなしにしない。
――今日はリク。
リュミナが横から覗いて言った。
「丁寧だ」
「だろ」
「私にも聞くべきだ」
「何を?」
「香りは食べられない、の札を置き続けるか」
リクは少し考えた。
「置くの?」
リュミナは真剣に頷いた。
「置く。重要だから」
「じゃあ置く」
セリカが小さく笑った。
「本人確認が済んだな」
夜、王都からの返事はまだ来ない。
当然だ。
今日送ったばかりなのだから。
それでもリクは、今日だけの棚を見て少し落ち着かなかった。
誰かの言葉を置いている。
それは守っているようで、預かっているようで、時には握ってしまっているのかもしれない。
ミナがそっと言った。
「預かる手も、時々開く必要があります」
リクは自分の手を見た。
「握ってた?」
「少し」
「そっか」
「でも、開こうとしています」
リクは頷いた。
そして今日だけの棚に小さな札を足した。
“預かる手を、時々開く。”
その札は、風に揺れて少し斜めになった。
リオはその夜、新しい香りを作った。
瓶にしない金木犀。
花に聞くつもりで待つリク。
座ったら聞く力が戻った記録官。
ごはんを待っていない椀。
空でいる練習。
増えすぎた今日だけの棚。
関わる人に聞くための手紙。
預かる手を開く木札。
ラベルは、
“花に聞くつもりで待つ。”
花そのものの香りは入れなかった。
代わりに、花の周りで待つ人たちの香りを入れた。
それは不思議な瓶だった。
中心にあるべき金木犀の香りが、ほとんどない。
なのに、確かに花の周りにいる気配がする。
香りは残る。
瓶にしない花にも。
ごはんを待っていない椀にも。
そして、預かった言葉を握りしめたまま守るのではなく、時々手を開いて、まだここでいいかと風に聞く、その春の夜の指先にも。




