第七十七話 咲いた、と言う前に息をする
翌朝、リクは走らなかった。
それは大きな進歩だった。
目が覚めた瞬間、金木犀のことを思った。ふくらみの先に見えた淡い色。花っぽい何か。まだ花と決めていないもの。
昨日の夕方から、胸の奥で小さな火が灯り続けている。
けれど彼は布団を跳ねのけて飛び出す代わりに、まず座った。
息を吸う。
吐く。
もう一度、吸う。
「咲いたかも」
小さく言った。
それから、すぐに付け加える。
「でも、まだ見る」
台所へ行くと、リュミナがすでに鍋の前にいた。
「走らないのか」
「走らない」
「病か」
「違う」
「では成長か」
リクは少し考えた。
「たぶん」
セリカが白盾を肩に掛けながら言った。
「成長なら粥だな」
リュミナが力強く頷く。
「成長には粥と肉」
「朝から肉を足すな」
「少しだ」
「少しならいい」
ミナが笑いながら椀を差し出した。
リクは粥を半分食べてから、金木犀を見に行った。
全員がついて来ようとしたので、彼は振り返った。
「ぞろぞろ来るなよ」
リュミナが不満そうに言う。
「歴史的瞬間かもしれない」
「だからって竜が圧かけるな」
セリカが頷いた。
「少し離れて見る」
レインも、ノアも、リオも、ミナも、皆が少し離れた。
リクは金木犀の前に立った。
朝の光が、葉の先にまだ残る露を照らしていた。
若木は支柱に寄り添いながらも、以前よりまっすぐ立っている。
そして、あのふくらみは――。
先が開いていた。
ほんの少し。
淡い橙にも、白にも見える小さな色が、葉の影で息をしていた。
花、と言えるのかもしれない。
でも、満開ではない。
香りもまだほとんどない。
ただ、開き始めていた。
リクは長く息をした。
「……咲いた」
言葉は、驚くほど静かに出た。
誰もすぐには歓声を上げなかった。
リクがもう一度、今度は少し確かめるように言う。
「咲いた、と思う」
ミナがそっと近づき、枝を見た。
そして微笑んだ。
「はい。咲き始めました」
咲き始めた。
その言い方がよかった。
咲いた、と決め切るのでもなく、まだと否定するのでもない。
花の途中の名。
リクは肩の力を抜いた。
「咲き始めた」
リュミナが両手を上げかけ、セリカに目で止められた。
「静かに喜べ」
「静かな喜びとは難しい」
「やってみろ」
リュミナは口をきゅっと結び、両拳だけを胸の前で握った。
リクはそれを見て吹き出した。
「変な竜」
「私は静かに喜んでいる」
「すごくうるさい顔してる」
その笑いで、空気がようやくほどけた。
ノアが弦を鳴らした。
ほんの短い音。
咲いたことを告げる歌ではない。
咲き始めたものの邪魔をしない、朝露ほどの音だった。
レインは金木犀を見て、静かに言った。
「咲き始める時間も、奪われずにありましたね」
リクはその言葉を聞いて、少し黙った。
そして頷いた。
「うん」
咲き始める時間。
それは花そのものよりも、もっと細く、もっと壊れやすい時間だった。
誰かが急かせば、壊れる。
誰かが諦めれば、見逃す。
水をやり、支柱を立て、縄を緩め、虫を見て、見ない日を作り、また夕方に見て、ようやくここまで来た。
リクは小さな札を書いた。
“咲き始めた。”
日々の棚に置こうとして、手を止めた。
「どこ?」
リオは答えなかった。
リク自身が決めるのを待った。
リクは少し考え、日々の棚と間の棚の境目、さらに未送信の手紙箱からも見える場所へ置いた。
「ここ」
「はい」
「咲いたって嬉しいけど、まだ途中だから」
「はい」
「姉さんにも見せたいし、スープの人にも……いや、まあ、報告はする」
リュミナが真剣に言う。
「王国にも知らせるべきだ」
「知らせすぎるな」
セリカが即座に言った。
「金木犀は王国政策ではない」
リクは頷いた。
「葉っぱは葉っぱ。花も花」
ミナが微笑む。
「でも風は来ます」
「うん。だから、気をつける」
その日の午前、リクはアリアンヌへ手紙を書いた。
――姉さんへ。
――金木犀が咲き始めた。
――まだ少し。
――香りもほとんどない。
――でも、咲き始めた。
――見ない日にも消えなかった。
――急がせなくても、ちょっと開いた。
――今日はリク。
少し迷ってから、最後に書いた。
――見に来るなら、急がなくていい。
その一行を書いた時、リクは自分で少し驚いた。
本当は、すぐ来てほしい。
アリアンヌに見せたい。
一緒に、咲き始めた枝を見たい。
けれど、王女には王都の仕事がある。未送信の手紙箱がある。鍵を持たない日もある。
急がなくていい。
それは、相手を待つというより、相手の道を空けておく言葉だった。
王妃エレオノーラの手紙の一文を、リクは思い出した。
待つことは、相手が自分の足で来られるように、場所を空けておくことです。
リクは封をして、胸に少し当てた。
「急がなくていいって、難しいな」
リオは頷いた。
「はい」
「でも、書いた」
「はい」
午後、王都の“スープを飲んだ人”へも手紙を書いた。
――スープを飲んだ人へ。
――金木犀が咲き始めた。
――花って言い切るにはまだ小さいけど、咲き始めた。
――見える肉が増えたのはよかった。
――楽になってはいけないって書いてあったけど、スープを飲む時間は楽になってもいいと思う。
――人を時間にしないなら、自分の回復の時間も削るな。
――今日はリク。
セリカがそれを読んで頷いた。
「王に言うことか?」
「言うことだ」
リクは前にセリカが言った時のように答えた。
セリカは笑った。
「そうだな」
リュミナが追記しようとした。
“肉は増やせ。”
リクが止めた。
「それは俺がもう書いた」
「見える肉が増えたのはよかった、だけでは弱い」
「弱くていい」
ミナが笑った。
「今日は弱い言葉でいい日ですね」
夕方、レムリア商市からも手紙が来た。
“今日は待ちたくない者”だった男性が、次の日にはこう名乗ったという。
“今日は、兄が好きだった煮込みを食べる者。”
サラ・ベルテは書いていた。
――彼は兄を待つとも、待たないとも言いませんでした。
――ただ、兄が好きだったヤギ乳の煮込みを食べたいと言いました。
――料理長は慎重に作りました。
――彼は全部は食べませんでした。
――でも、兄の分として一匙、空の椀に入れました。
リュミナが目を閉じた。
「空の椀に一匙」
誰も茶化さなかった。
来なかった未来にも、本人の椀を置く。
その実践が、遠い商市で形を持った。
空の椀。
兄の分の一匙。
待つでも、待たないでもない今日。
リオはその香りを想像した。
ヤギ乳の甘さ。
麦の湯気。
空の椀に落ちる一匙の音。
食べられない誰かのためではなく、食べる者が今日を越えるために置いた一匙。
ミナが札を書いた。
“兄の分として、一匙。”
それは日々の棚と間の棚の境目に置かれた。
リクはその札を見て、金木犀の方を見た。
「今日、いろいろ咲き始めたな」
リオは頷いた。
「はい」
夜、戻り香の家では静かな祝いの鍋が作られた。
祝いと言っても、派手ではない。
少しだけ肉が多い。
ヤギ乳の煮込みも小鍋で作る。
焦がさない。
リュミナは何度も鍋底を確認した。
セリカが言う。
「今日は焦がすなよ」
「咲き始めの祝いに焦げは強すぎる」
「わかっているならいい」
皆が椀を持った。
リクは金木犀の枝が見える窓の近くに座った。
外は暗い。
花は見えない。
でも、そこにある。
朝、咲き始めたものは、夜に見えなくても消えない。
リオはその夜、新しい小瓶を作った。
咲き始めた金木犀。
静かに喜ぶ竜のうるさい顔。
アリアンヌへ書いた“急がなくていい”。
スープを飲む時間は楽になってもいいという手紙。
兄の分の一匙。
空の椀。
咲き始める時間が奪われずにあったこと。
ラベルは、
“咲いた、と言う前に息をする。”
リクは瓶を見て、少し首を傾げた。
「咲いたって言ったけど」
「はい。でも、その前に息をしました」
「そうだっけ」
「しました」
リクは少し照れたように笑った。
「なら、いい」
その瓶は、日々の棚と間の棚の境目に置かれた。
“咲き始めた。”
“兄の分として、一匙。”
“見ない日にも、朝は来る。”
それらの近くに。
香りは残る。
咲き始めの朝にも。
急がなくていいと書いた手紙にも。
そして、花と呼ぶ前にひとつ息をして、相手の速度と自分の喜びのあいだに小さな余白を作った、その春の光にも。




