↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
追放された宮廷調香師は、辺境の村で竜の眠りを解く――香りだけで呪いも戦争も終わらせます  作者: たむ


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

PR
78/122

第七十八話 急がなくていい、と言われた人は少し急ぐ

アリアンヌは、急がなかった。


少なくとも、手紙の返事にはそう書いてあった。


――リクへ。


――金木犀が咲き始めたこと、読みました。


――おめでとう、と書こうとして、少し止まりました。


――これは祝っていいことだと思います。


――でも、あなたが“咲き始めた”と書いたので、私も“咲き始めたこと、よかった”と書きます。


――見に行きたいです。


――でも、急がなくていいと言われたので、急ぎません。


――たぶん。


リクは“たぶん”のところで笑った。


「急ぐ気あるな」


ミナが微笑んだ。


「少し」


手紙は続いていた。


――王女の仕事を片づけてから行きます。


――ただし、片づける速度は少し上がりました。


――母上なら、“急がなくていいと言われた時ほど、自分の足で急ぎたくなることがあります”と書いたかもしれません。


――今日はアリアンヌ。


――王女の服は、走らない程度に軽いです。


リクは読み終えて、少し困った顔で笑った。


「走らない程度って、走る一歩前じゃん」


セリカが頷いた。


「王都からリューネ村までは走る距離ではない。馬車で来るだろう」


リュミナが真剣に言う。


「馬車にも食料がいる」


「姉さんの心配より食料かよ」


「空腹の王女は危険だ」


「それはちょっとわかる」


リクは手紙を日々の棚へ持って行き、札を書いた。


“急がなくていい、と言われた人は少し急ぐ。”


それは日々の棚に置かれた。


ただし、少しだけ間の棚の方へ傾いていた。


急がないことと、急ぎたいこと。


そのあいだにある、明るいそわそわした気持ち。


それは悪いものではなかった。


同じ日の午後、王都の“スープを飲んだ人”からも返事が来た。


――リクへ。


――金木犀が咲き始めたこと、聞いた。


――咲き始めたものを、咲き切ったものとして扱わないことは難しい。


――王は、咲き始めた改革をすぐ成果として発表したがる。


――気をつける。


――スープを飲む時間は、少し楽になってもよい、という言葉を読んだ。


――今日、スープを飲む時、少しだけ肩の力を抜いた。


――見える肉は、さらに少し増えた。


――今日は、スープを飲んだ人。


追伸。


――王女が少し急いでいる。


リクは最後の一文を読んで吹き出した。


「ばれてる」


セリカも笑った。


「王城中にわかる急ぎ方なのだろうな」


ミナは国王の文を見ていた。


「“咲き始めた改革をすぐ成果として発表したがる”」


「やりそう」


リクは即座に言った。


ハルトは苦笑しながら頷いた。


「すでに一部の役人が、“人を時間にしない王国”という標語を広報に使おうとしました」


リクの顔が険しくなる。


「瓶の名前を勝手に?」


「未遂です。止まりました」


セリカの声が低くなった。


「誰が止めた」


「アリアンヌ様とエルヴィン様です。国王陛下も同意しました」


リクは少し黙った。


「……ならいい」


ハルトは続けた。


「代わりに、白盾記録院の入口にこう掲げることになりました」


彼は別紙を広げた。


“私たちは、人を時間にしないことを学んでいます。

まだ、できていません。

できていないことも、記録します。”


戻り香の家の台所に、静かな息が流れた。


リュミナが鍋を混ぜながら言った。


「よい。完成を名乗らない鍋だ」


「鍋ではない」


セリカが言いながらも、否定の力は弱かった。


リクはその文を読んで、頷いた。


「これなら、まだいい」


「はい」


リオも頷いた。


完成を名乗らないこと。


それは、咲き始めた花を満開と呼ばないことに似ている。


白盾記録院も、王国も、戻り香の家でさえ、まだ途中にいる。


途中であることを隠さないなら、歩く余地が残る。


夕方、金木犀の花はさらに少し開いていた。


香りはまだ弱い。


でも、リクが近づくと、ほんのかすかに甘い気配がした。


「今、香った?」


彼は目を大きくした。


ミナが慎重に息を吸う。


「ほんの少し」


リクは嬉しそうに口を開きかけ、すぐ閉じた。


「まだ大騒ぎしない」


リュミナが離れたところで両拳を握っている。


「静かな喜び、第二段階だ」


セリカが呆れた。


「段階制なのか」


「第一段階は拳。第二段階は鼻息を抑える」


「今、抑えきれていない」


リクは笑いながら、小さな札を書いた。


“ほんの少し香った。”


それは日々の棚に置かれた。


花の香りは、戻り香の家にとって特別だった。


記録の香りではない。


証言の香りでもない。


過去へ戻る香りでも、罪を照らす香りでもない。


ただ、今ここで咲き始めている花の香り。


リオはその香りを瓶にしようとして、手を止めた。


「今日は、瓶にしなくてもいいかもしれません」


リクが驚く。


「しないの?」


「はい。咲き始めた花は、まだ瓶より風の方がいい気がします」


リクは少し考え、頷いた。


「じゃあ、今日は風」


ミナが微笑んだ。


「いいですね」


リュミナは少し残念そうに言う。


「瓶にしない香りもあるのか」


「あります」


リオは答えた。


「瓶にすると、安心できます。でも、閉じ込めすぎることもあります」


セリカが頷く。


「記録しない勇気もいるな」


「記録しないんじゃなくて、札だけ置く」


リクが言った。


「今日は風って」


彼は日々の棚にもう一枚札を書いた。


“今日は風。”


ノアがそれを見て、弦を鳴らした。


「いい休符です」


その夜、アリアンヌの到着予定が届いた。


三日後。


急いでいないにしては早い。


リクはその知らせを見て、ずっとそわそわしていた。


「急いでるじゃん」


「少しでしょう」


ミナが言う。


「少しって便利だな」


「はい」


「俺も、ちょっと嬉しい」


「はい」


「でも、花が散ったらどうしよう」


リオは金木犀を見た。


「散るほどは、まだ咲いていません」


「それもそうか」


リュミナが言った。


「来るまで香りを保つには、木に頼むしかない」


セリカが頷く。


「人がどうこうできる範囲ではないな」


リクは若木を見た。


「じゃあ、頼む」


その言葉は祈りではなく、お願いだった。


金木犀は返事をしない。


けれど、夜風の中で小さく揺れた。


翌日、白盾記録院から新しい報告が来た。


入口に掲げられた、


“まだ、できていません。

できていないことも、記録します。”


その札を見て、先日の怒った女性が足を止めたという。


彼女は記録官へ言った。


“できていないなら、できていないところから話して。”


記録官は、補償手続きの遅れを説明した。


責任の所在、確認中の書類、次に必要な署名。


女性は最後まで聞き、こう言った。


“今日は怒る。次も怒るかもしれない。でも、次も来る。”


ミナがその報告を読んで、静かに札を書いた。


“今日は怒る。次も来る。”


間の棚に置く。


セリカは頷いた。


「よい」


リクも頷いた。


「怒っても、来る道は消えないんだな」


「はい」


リオは答えた。


「怒ることと、道を閉じることは同じではありません」


リュミナが言う。


「怒る者にも椀を置ける。ただし、置いていいか聞く」


「学んだな」


「私は成長する竜だ」


「ほんとに成長してるな」


リュミナは誇らしげだった。


三日後の朝、アリアンヌの馬車が村に着いた。


彼女は本当に、走らない程度に軽い服を着ていた。


王女の礼装ではない。


けれど旅装より少し整っている。


急いでいない顔をしようとしているが、息が少し弾んでいた。


リクは村の入口で待っていた。


「急いでない?」


アリアンヌは真剣に答えた。


「急いでいません」


「息切れてるけど」


「道が少し上りでした」


「馬車だろ」


「降りて少し歩きました」


「急いでるじゃん」


アリアンヌは少し笑った。


「少し」


リクも笑った。


「少しならいい」


二人は並んで金木犀の前へ行った。


アリアンヌは、花を見た瞬間、言葉を失った。


咲き始めた小さな花。


まだ弱い香り。


支柱に寄り添う若木。


縄はきつすぎず、緩みすぎず。


葉は風を受けている。


アリアンヌはゆっくり息を吸った。


「咲き始めてる」


「うん」


リクが答える。


「まだ少し」


「うん」


「香りも、ほんの少し」


「うん」


アリアンヌの目に涙が浮かんだ。


「急がなくてよかった」


リクは少し笑う。


「少し急いだけどな」


「少し」


「うん。少しならいい」


二人はしばらく、黙って花を見た。


咲き切っていない花。


でも、確かに咲き始めた花。


その前で、アリアンヌは小さく言った。


「母上にも見せたかった」


リクは頷いた。


「うん」


それは来なかった未来だった。


でも、勝手に盛らない。


リクは戻り香の家へ走り、空の小さな椀を持ってきた。


アリアンヌはそれを見て、少し泣き笑いの顔になった。


「母上の分?」


「置く?」


「……うん。今日は、置きたい」


二人は金木犀の根元から少し離れた場所に、空の椀を置いた。


何も入れない。


花も入れない。


水も入れない。


空のまま。


けれど、そこにある。


アリアンヌは言った。


「母上が見たかもしれない時間」


リクは小さく頷いた。


「勝手に盛らない椀」


花の香りが、ほんの少しだけ風に乗った。


その日の小瓶は、結局、作られなかった。


リオは作ろうとして、やめた。


今日は風だった。


ただ、木札は増えた。


“ほんの少し香った。”


“今日は風。”


“急がなくていい、と言われた人は少し急ぐ。”


“母上が見たかもしれない時間。”


“空のまま置いた椀。”


それらは棚ではなく、金木犀の近くの小さな板に並べられた。


花のそばの、今日だけの棚。


夜、戻り香の家では静かな食事があった。


アリアンヌも椀を持った。


リクも隣で食べた。


リュミナはいつもより静かに鍋をよそった。


セリカは白盾を壁に立て、ミナは声守草茶を淹れ、レインは灰星の棚に小さく頭を下げた。


外では、金木犀が咲き始めている。


香りは残る。


瓶にしなかった風にも。


急がないと言いながら少し急いだ足音にも。


そして、母上が見たかもしれない時間のために、何も盛らず、ただそこに置かれた空の椀にも。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。