第七十八話 急がなくていい、と言われた人は少し急ぐ
アリアンヌは、急がなかった。
少なくとも、手紙の返事にはそう書いてあった。
――リクへ。
――金木犀が咲き始めたこと、読みました。
――おめでとう、と書こうとして、少し止まりました。
――これは祝っていいことだと思います。
――でも、あなたが“咲き始めた”と書いたので、私も“咲き始めたこと、よかった”と書きます。
――見に行きたいです。
――でも、急がなくていいと言われたので、急ぎません。
――たぶん。
リクは“たぶん”のところで笑った。
「急ぐ気あるな」
ミナが微笑んだ。
「少し」
手紙は続いていた。
――王女の仕事を片づけてから行きます。
――ただし、片づける速度は少し上がりました。
――母上なら、“急がなくていいと言われた時ほど、自分の足で急ぎたくなることがあります”と書いたかもしれません。
――今日はアリアンヌ。
――王女の服は、走らない程度に軽いです。
リクは読み終えて、少し困った顔で笑った。
「走らない程度って、走る一歩前じゃん」
セリカが頷いた。
「王都からリューネ村までは走る距離ではない。馬車で来るだろう」
リュミナが真剣に言う。
「馬車にも食料がいる」
「姉さんの心配より食料かよ」
「空腹の王女は危険だ」
「それはちょっとわかる」
リクは手紙を日々の棚へ持って行き、札を書いた。
“急がなくていい、と言われた人は少し急ぐ。”
それは日々の棚に置かれた。
ただし、少しだけ間の棚の方へ傾いていた。
急がないことと、急ぎたいこと。
そのあいだにある、明るいそわそわした気持ち。
それは悪いものではなかった。
同じ日の午後、王都の“スープを飲んだ人”からも返事が来た。
――リクへ。
――金木犀が咲き始めたこと、聞いた。
――咲き始めたものを、咲き切ったものとして扱わないことは難しい。
――王は、咲き始めた改革をすぐ成果として発表したがる。
――気をつける。
――スープを飲む時間は、少し楽になってもよい、という言葉を読んだ。
――今日、スープを飲む時、少しだけ肩の力を抜いた。
――見える肉は、さらに少し増えた。
――今日は、スープを飲んだ人。
追伸。
――王女が少し急いでいる。
リクは最後の一文を読んで吹き出した。
「ばれてる」
セリカも笑った。
「王城中にわかる急ぎ方なのだろうな」
ミナは国王の文を見ていた。
「“咲き始めた改革をすぐ成果として発表したがる”」
「やりそう」
リクは即座に言った。
ハルトは苦笑しながら頷いた。
「すでに一部の役人が、“人を時間にしない王国”という標語を広報に使おうとしました」
リクの顔が険しくなる。
「瓶の名前を勝手に?」
「未遂です。止まりました」
セリカの声が低くなった。
「誰が止めた」
「アリアンヌ様とエルヴィン様です。国王陛下も同意しました」
リクは少し黙った。
「……ならいい」
ハルトは続けた。
「代わりに、白盾記録院の入口にこう掲げることになりました」
彼は別紙を広げた。
“私たちは、人を時間にしないことを学んでいます。
まだ、できていません。
できていないことも、記録します。”
戻り香の家の台所に、静かな息が流れた。
リュミナが鍋を混ぜながら言った。
「よい。完成を名乗らない鍋だ」
「鍋ではない」
セリカが言いながらも、否定の力は弱かった。
リクはその文を読んで、頷いた。
「これなら、まだいい」
「はい」
リオも頷いた。
完成を名乗らないこと。
それは、咲き始めた花を満開と呼ばないことに似ている。
白盾記録院も、王国も、戻り香の家でさえ、まだ途中にいる。
途中であることを隠さないなら、歩く余地が残る。
夕方、金木犀の花はさらに少し開いていた。
香りはまだ弱い。
でも、リクが近づくと、ほんのかすかに甘い気配がした。
「今、香った?」
彼は目を大きくした。
ミナが慎重に息を吸う。
「ほんの少し」
リクは嬉しそうに口を開きかけ、すぐ閉じた。
「まだ大騒ぎしない」
リュミナが離れたところで両拳を握っている。
「静かな喜び、第二段階だ」
セリカが呆れた。
「段階制なのか」
「第一段階は拳。第二段階は鼻息を抑える」
「今、抑えきれていない」
リクは笑いながら、小さな札を書いた。
“ほんの少し香った。”
それは日々の棚に置かれた。
花の香りは、戻り香の家にとって特別だった。
記録の香りではない。
証言の香りでもない。
過去へ戻る香りでも、罪を照らす香りでもない。
ただ、今ここで咲き始めている花の香り。
リオはその香りを瓶にしようとして、手を止めた。
「今日は、瓶にしなくてもいいかもしれません」
リクが驚く。
「しないの?」
「はい。咲き始めた花は、まだ瓶より風の方がいい気がします」
リクは少し考え、頷いた。
「じゃあ、今日は風」
ミナが微笑んだ。
「いいですね」
リュミナは少し残念そうに言う。
「瓶にしない香りもあるのか」
「あります」
リオは答えた。
「瓶にすると、安心できます。でも、閉じ込めすぎることもあります」
セリカが頷く。
「記録しない勇気もいるな」
「記録しないんじゃなくて、札だけ置く」
リクが言った。
「今日は風って」
彼は日々の棚にもう一枚札を書いた。
“今日は風。”
ノアがそれを見て、弦を鳴らした。
「いい休符です」
その夜、アリアンヌの到着予定が届いた。
三日後。
急いでいないにしては早い。
リクはその知らせを見て、ずっとそわそわしていた。
「急いでるじゃん」
「少しでしょう」
ミナが言う。
「少しって便利だな」
「はい」
「俺も、ちょっと嬉しい」
「はい」
「でも、花が散ったらどうしよう」
リオは金木犀を見た。
「散るほどは、まだ咲いていません」
「それもそうか」
リュミナが言った。
「来るまで香りを保つには、木に頼むしかない」
セリカが頷く。
「人がどうこうできる範囲ではないな」
リクは若木を見た。
「じゃあ、頼む」
その言葉は祈りではなく、お願いだった。
金木犀は返事をしない。
けれど、夜風の中で小さく揺れた。
翌日、白盾記録院から新しい報告が来た。
入口に掲げられた、
“まだ、できていません。
できていないことも、記録します。”
その札を見て、先日の怒った女性が足を止めたという。
彼女は記録官へ言った。
“できていないなら、できていないところから話して。”
記録官は、補償手続きの遅れを説明した。
責任の所在、確認中の書類、次に必要な署名。
女性は最後まで聞き、こう言った。
“今日は怒る。次も怒るかもしれない。でも、次も来る。”
ミナがその報告を読んで、静かに札を書いた。
“今日は怒る。次も来る。”
間の棚に置く。
セリカは頷いた。
「よい」
リクも頷いた。
「怒っても、来る道は消えないんだな」
「はい」
リオは答えた。
「怒ることと、道を閉じることは同じではありません」
リュミナが言う。
「怒る者にも椀を置ける。ただし、置いていいか聞く」
「学んだな」
「私は成長する竜だ」
「ほんとに成長してるな」
リュミナは誇らしげだった。
三日後の朝、アリアンヌの馬車が村に着いた。
彼女は本当に、走らない程度に軽い服を着ていた。
王女の礼装ではない。
けれど旅装より少し整っている。
急いでいない顔をしようとしているが、息が少し弾んでいた。
リクは村の入口で待っていた。
「急いでない?」
アリアンヌは真剣に答えた。
「急いでいません」
「息切れてるけど」
「道が少し上りでした」
「馬車だろ」
「降りて少し歩きました」
「急いでるじゃん」
アリアンヌは少し笑った。
「少し」
リクも笑った。
「少しならいい」
二人は並んで金木犀の前へ行った。
アリアンヌは、花を見た瞬間、言葉を失った。
咲き始めた小さな花。
まだ弱い香り。
支柱に寄り添う若木。
縄はきつすぎず、緩みすぎず。
葉は風を受けている。
アリアンヌはゆっくり息を吸った。
「咲き始めてる」
「うん」
リクが答える。
「まだ少し」
「うん」
「香りも、ほんの少し」
「うん」
アリアンヌの目に涙が浮かんだ。
「急がなくてよかった」
リクは少し笑う。
「少し急いだけどな」
「少し」
「うん。少しならいい」
二人はしばらく、黙って花を見た。
咲き切っていない花。
でも、確かに咲き始めた花。
その前で、アリアンヌは小さく言った。
「母上にも見せたかった」
リクは頷いた。
「うん」
それは来なかった未来だった。
でも、勝手に盛らない。
リクは戻り香の家へ走り、空の小さな椀を持ってきた。
アリアンヌはそれを見て、少し泣き笑いの顔になった。
「母上の分?」
「置く?」
「……うん。今日は、置きたい」
二人は金木犀の根元から少し離れた場所に、空の椀を置いた。
何も入れない。
花も入れない。
水も入れない。
空のまま。
けれど、そこにある。
アリアンヌは言った。
「母上が見たかもしれない時間」
リクは小さく頷いた。
「勝手に盛らない椀」
花の香りが、ほんの少しだけ風に乗った。
その日の小瓶は、結局、作られなかった。
リオは作ろうとして、やめた。
今日は風だった。
ただ、木札は増えた。
“ほんの少し香った。”
“今日は風。”
“急がなくていい、と言われた人は少し急ぐ。”
“母上が見たかもしれない時間。”
“空のまま置いた椀。”
それらは棚ではなく、金木犀の近くの小さな板に並べられた。
花のそばの、今日だけの棚。
夜、戻り香の家では静かな食事があった。
アリアンヌも椀を持った。
リクも隣で食べた。
リュミナはいつもより静かに鍋をよそった。
セリカは白盾を壁に立て、ミナは声守草茶を淹れ、レインは灰星の棚に小さく頭を下げた。
外では、金木犀が咲き始めている。
香りは残る。
瓶にしなかった風にも。
急がないと言いながら少し急いだ足音にも。
そして、母上が見たかもしれない時間のために、何も盛らず、ただそこに置かれた空の椀にも。




