第七十六話 来なかった未来にも、椀を置く
王都からの返事は、二日後に届いた。
封筒には、国王の硬い字があった。
もう“スープを飲んだ人”の字だ、とリクは思った。
王の字でも、父の字でもなく、少し濃いスープを飲み、肉の量に文句を言い、支柱がまだ必要だと認めた人の字。
リクは金木犀の前で封を開けた。
ふくらみは、まだ花とは決めない。
けれど、雨の前より丸い。
風が吹くと、落ちそうで落ちない。
リクは少し離れて手紙を読んだ。
――リクへ。
――手紙を受け取った。
――“奪われた時間に、名前を戻す”という言葉を読んだ。
――王は、国のために失われた時間を、しばしば“犠牲”と呼ぶ。
――その言葉で、細かい時間をまとめてしまう。
――娘に馬を見せる時間。
――豆を避ける時間。
――二杯目を断る時間。
――眠る時間。
――怒る時間。
――父として書くために、手を震わせる時間。
――それらをまとめてしまえば、王は楽になる。
――楽になってはいけないのだと思う。
リクはそこで一度、息を止めた。
手紙は続く。
――スープを飲む時間から始める。
――今日は、スープを飲んだ人。
――追伸。見える肉は少し増えた。
リクは最後の一文を見て、小さく笑った。
「肉、増えたって」
リュミナが背後で真剣に頷いた。
「回復の兆しだ」
セリカは国王の文を見ていた。
「“楽になってはいけない”か」
ミナが静かに言った。
「重さを持つ言葉ですね」
レインは“娘に馬を見せる時間”の一文を見て、目を伏せた。
「陛下が、それを書いたのですね」
「はい」
リオは頷いた。
「読んだのだと思います。リディアさんの名を」
レインはゆっくり息を吐いた。
「なら、よかった……と言っていいのか、まだわかりません」
セリカが答える。
「わからないままでいい」
リクは手紙をたたみ、日々の棚に札を書いた。
“見える肉が少し増えた。”
リュミナが即座にその下へ書く。
“重要。”
「それはわかる」
リクは笑った。
だが、もう一枚の札は間の棚に置いた。
“楽になってはいけないのだと思う。”
それは王の言葉だった。
罪を負う者の言葉ではない。
だが、責任を持つ者の言葉だった。
昼、レムリア商市から新しい記録が届いた。
サラ・ベルテが、待合記録所で始めた新しい試みの報告だった。
――戻り香の家へ。
――“待たない日にも、道は消えない”という考えを、記録所で慎重に扱っています。
――今日は待ちたくない者、と名乗った男性は、翌日、こう言いました。
――“今日は、兄が帰ってきたら怒る日。”
――私たちは驚きました。
――十年待った人は、再会したら泣くものだと勝手に思っていたからです。
――彼は言いました。
――“怒る時間も、待っていた。”
リオは、その一文を声に出して読めなかった。
リクが代わりに読んだ。
「怒る時間も、待っていた」
台所に沈黙が降りた。
待っていたのは、再会だけではない。
泣く時間。
抱きしめる時間。
問い詰める時間。
怒る時間。
なぜ帰らなかったのかと叫ぶ時間。
帰れなかったなら、その話を聞く時間。
そういう未来も、帰らない人と一緒に止まってしまう。
ミナが札を書いた。
“怒る時間も、待っていた。”
間の棚へ。
セリカが頷く。
「怒りを不作法として片づけるな、ということだな」
リュミナが言った。
「怒る前にも食べる者はいる。怒った後に食べる者もいる。怒っている最中は食べない者もいる」
リクは少し笑った。
「ちゃんと分けるな」
「火加減だ」
手紙は続いていた。
――彼はその後、ヤギ乳の煮込みを半分食べました。
――半分残した理由は、“怒る日だから全部は食べない”とのことでした。
――料理長は少し傷ついていましたが、残す権利について説明すると納得しました。
リュミナは神妙な顔で頷いた。
「料理長も学んだ」
「お前なら傷つく?」
「傷つく。だが、残す権利はある」
セリカが感心する。
「立派だ」
「ただし、理由は聞きたい」
「聞いていいか聞け」
「む」
その日の戻り香の家では、“来なかった未来”という言葉が何度も出た。
来なかった未来。
灰星を見せびらかす日。
兄が帰ってきたら怒る日。
王が父として手紙を書く日。
リオンへの手紙をリクが読む日。
金木犀が花になる日。
そのすべては、まだ来ていない。
いくつかは、もう来ない。
けれど、来なかったから無名でいいわけではない。
リオは香りの棚の前で考えた。
「来なかった未来に名前をつける時、気をつけることがあります」
皆が彼を見る。
「決めつけないことです。“きっとこうだった”と強く言いすぎると、生きている人をまた縛ります」
ミナが頷く。
「リディアさんは、自分で“見せびらかされるはずだった灰星”と名づけました」
「はい。本人がつけた名だから置けました」
セリカが言った。
「記録官が勝手に“幸せな再会”などと名づけたら、暴力になる」
リクは小さく呟く。
「兄が帰ったら怒るかもしれないしな」
「そうです」
リュミナが鍋を見て言った。
「来なかった未来には、本人の椀を置く」
リクが聞いた。
「どういう意味?」
「他人が勝手に盛るな」
セリカが静かに頷いた。
「今日も正しい」
その言葉から、新しい木札が作られた。
“来なかった未来には、本人の椀を置く。”
その下にミナが足す。
“勝手に盛らない。”
リクがさらに小さく書いた。
“空でもいい。”
その札は間の棚の横に掛けられた。
夕方、金木犀のふくらみを見に行くと、リクは少し驚いた。
ふくらみの先が、ほんのわずかに割れていた。
中に、淡い色が見える。
花、と言いそうになった。
でも、まだ言わない。
言わなくても、胸は高鳴った。
「リオ」
「はい」
「これ、言わないけど」
「はい」
「ちょっと、花っぽい」
「はい」
「でも、まだ決めない」
「はい」
リクは嬉しそうに困った顔をした。
「決めないの、難しいな」
「はい」
「でも、勝手に盛らないんだろ」
リオは微笑んだ。
「そうですね」
花にも、本人の椀があるのかもしれない。
こちらが勝手に盛ってはいけない。
咲くなら、咲く時に。
咲かないなら、咲かないまま。
見守る側の期待で、ふくらみを急がせてはいけない。
その夜、リオは新しい小瓶を作った。
国王の“楽になってはいけない”。
レムリアの“怒る時間も、待っていた”。
半分残されたヤギ乳の煮込み。
料理長の学び。
来なかった未来に本人の椀を置くという札。
金木犀の花っぽいふくらみ。
リクの言わない喜び。
ラベルは、
“来なかった未来にも、椀を置く。”
それは間の棚に置かれた。
ただし、少しだけ日々の棚の方へ傾けて。
なぜなら、来なかった未来は重いだけではない。
そこには、半分残した煮込みも、見える肉が増えた日も、花っぽいふくらみを見て黙って笑う夕方も含まれているからだ。
香りは残る。
来なかった未来にも。
勝手に盛らない空の椀にも。
そして、まだ花と呼ばないふくらみが、誰かの期待ではなく自分の速度で、春の夜にほんの少しだけ開きかける、その淡い気配にも。




