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追放された宮廷調香師は、辺境の村で竜の眠りを解く――香りだけで呪いも戦争も終わらせます  作者: たむ


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第七十五話 奪われた時間に、名前を戻す

ヴォルクが“奪った時間”と言った記録は、翌日になっても戻り香の家の空気を重くしていた。


雨上がりの光は明るい。


金木犀の小さなふくらみも落ちていない。


リュミナの鍋は朝から温かい。


それでも、棚の中央に置かれた新しい札は、部屋の温度を少し下げていた。


“奪われた時間は、戻らない。”


“でも、奪ったと言った。”


“苦しい。”


レインの字だった。


その下には、セリカの字。


“免罪ではない。”


リクはその札の前に立ち、少し眉を寄せた。


「奪われた時間って、どうやって記録するんだろ」


誰もすぐには答えなかった。


時間は瓶に入らない。


少なくとも、時間そのものは。


でも、戻り香の家はずっと、時間の匂いを拾ってきた。


焦げ豆。


灰星の額飾り。


薄いスープ。


未送信の手紙。


金木犀の葉。


それらはすべて、過ぎた時間の端に触れるものだった。


リオは静かに言った。


「奪われた時間を、そのまま戻すことはできません」


「うん」


「でも、その人が持っていたはずの時間に、名前を戻すことはできるかもしれません」


レインが顔を上げた。


「名前を戻す」


「はい。オーウェンさんが娘さんに灰星を見せる時間。ユーロさんが焦げ豆を焦がしすぎたと笑われる時間。兵たちが撤退して、足を引きずりながらでも帰る時間。眠る時間。怒る時間。手紙を書く時間」


ミナが続けた。


「泣き直す時間も」


セリカが言った。


「英雄にされずに、疲れた兵として帰る時間もだ」


リュミナは鍋を見つめながら低く言った。


「二杯目を断る時間もある」


リクはその言葉に少し驚いた。


二杯目を断る時間。


食べる時間だけではなく、食べないと決める時間も、人にはある。


レインは長く黙っていた。


やがて、彼は木札を取った。


“灰星が干し林檎を食べる時間。”


それを書いて、人ではない名の棚の前に置いた。


次に、


“オーウェン隊長がリディアさんに灰星を見せる時間。”


間の棚へ。


さらに、


“ユーロさんが焦げ豆を言い訳する時間。”


日々の棚へ。


書き終えると、レインの手は震えていた。


「こんなことをしても、戻らない」


彼は言った。


リオは頷いた。


「はい」


「でも、何も書かないより、息ができます」


「はい」


リュミナが椀を持って近づいた。


そして、昨日のように止まった。


「椀を置いてよいか」


レインは少しだけ笑った。


「はい。今日は、すぐ食べます」


「よい」


粥は置かれ、レインはそれを食べた。


日々の棚には、


“今日は、すぐ食べた。”


という札が増えた。


その昼、王都からリディア・マルクの手紙が届いた。


レイン宛てではなく、戻り香の家宛てだった。


封筒には、丁寧な字でこうあった。


“灰星の棚へ。”


皆で読む許可が添えられていた。


リオが開く。


――戻り香の家の皆様へ。


――父が灰星を私に見せたかったと知ってから、私はその場面ばかり想像しています。


――最初は、それが苦しかった。


――見られなかったものを思い描くたびに、奪われたものの形が大きくなるからです。


――でも、最近は少し違います。


――父が私に灰星を見せびらかす時、きっと少し得意そうだっただろうと思います。


――灰星は、たぶん迷惑そうにしたでしょう。


――私は怖がったかもしれません。


――父は笑ったかもしれません。


――そういう時間が、私にはなかった。


――だから、その時間に名前をつけてください。


リクは息を止めた。


レインは目を閉じた。


手紙は続いた。


――名前は、“見せびらかされるはずだった灰星”がいいです。


――まだ笑って言えるわけではありません。


――でも、父はきっと見せびらかしたと思うので。


――リディア・マルク。


戻り香の家は、しばらく静かだった。


泣く声はなかった。


でも、台所の空気は確かに震えていた。


リュミナが低く言った。


「見せびらかすのは、大事だ」


セリカは頷いた。


「そうだな」


レインは立ち上がり、人ではない名の棚へ歩いた。


灰星の額飾りの前で、深く頭を下げる。


「リディアさんが名をつけました」


彼は言った。


声が震えていた。


「“見せびらかされるはずだった灰星”」


リオはその名をラベルに書いた。


灰星の額飾りの隣に、新しい小瓶が置かれた。


香りは、干し林檎、馬の汗、幼い子どもの少し怖がる匂い、父親の得意げな笑い、そして存在しなかった日の光。


存在しなかった日の光にも、香りはあるのだと、リオは思った。


それは記憶ではない。


願望でもない。


奪われた時間に戻された、名前だった。


午後、カイルからも手紙が届いた。


兵舎で“奪われた時間に名前を戻す”という話をしたところ、ユアンが珍しく真面目な顔でこう言ったという。


――死んだ兵の時間だけではなく、生きている兵の時間も名前にしておかないと、また奪われるのではないか。


カイルは続けて書いていた。


――自分は、その言葉に答えられませんでした。

――なので、今日から兵舎の日々の記録を始めました。

――ただし、強制ではありません。

――最初の札は、ユアンが書きました。

――“豆を避ける時間。”

――食事係は怒りました。

――でも、記録しました。


リクは笑いながら、少し涙ぐんだ。


「ユアン、やっぱり豆嫌いなんだ」


リュミナは厳粛に頷く。


「豆を避ける時間も、本人の時間だ」


セリカが言う。


「食えとは思うが、記録はしていい」


日々の棚に写しが置かれた。


“豆を避ける時間。”


その隣に、リュミナが書いた。


“いつか食べる時間。”


リクが言った。


「急がせるなよ」


リュミナは少し考え、札の下に小さく足した。


“来なくてもよい。”


「よし」


その日の夕方、リクは金木犀を見に行った。


今日は朝から何度も見た。


昨日の“見ない日”のおかげか、見ても、少し落ち着いていられた。


ふくらみは、まだ花ではない。


だが、もう葉だけとも言いにくい。


リクはその前で、王都へ手紙を書いた。


――スープを飲んだ人へ。

――ヴォルクが奪った時間って言った。

――リディアさんが、“見せびらかされるはずだった灰星”って名をつけた。

――ユアンは“豆を避ける時間”を記録した。

――人を時間にしないって、時間に名前を戻すことでもあるのかもしれない。

――金木犀は、まだ花かどうか決めない。

――今日はリク。


手紙を書き終えた後、リクは少し迷い、最後に一行足した。


――父として書く手が震えるなら、スープを飲む時間からでいいと思う。


リオはそれを見て、静かに微笑んだ。


「送りますか」


リクは頷いた。


「送る」


その夜、リオは新しい香りを作った。


ヴォルクの“奪った時間”。


レインの三つの札。


リディアの手紙。


見せびらかされるはずだった灰星。


ユアンの豆を避ける時間。


まだ花と決めない金木犀。


リクの王への手紙。


ラベルは、


“奪われた時間に、名前を戻す。”


それは重い瓶だった。


けれど、不思議と暗いだけではなかった。


干し林檎の甘さがある。


豆を避ける少し滑稽な時間がある。


父が娘に馬を見せびらかす、叶わなかった得意げな笑いがある。


奪われたものを取り戻すことはできない。


でも、奪われたものが何だったのかを、ただ“時間”という冷たい言葉で終わらせないことはできる。


香りは残る。


奪われた時間にも。


戻された名前にも。


そして、来なかった未来を来なかったまま抱えながら、それでも誰かが「きっと見せびらかした」と少しだけ笑えるようになる、その震える春の夕方にも。

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