↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
追放された宮廷調香師は、辺境の村で竜の眠りを解く――香りだけで呪いも戦争も終わらせます  作者: たむ


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

PR
74/123

第七十四話 見ない日にも、朝は来る

翌朝、雨は上がっていた。


空はまだ低く雲を引きずっていたが、山の端には薄い光が差していた。濡れた草が銀色に光り、戻り香の家の軒先では、夜のあいだ桶に溜まった雨水が静かに揺れていた。


リクは目を覚ましてすぐ、金木犀を見に行こうとして、足を止めた。


昨日、自分で言ったのだ。


見ない日にも花は消えない。


その言葉が、寝起きの頭の中で小さく転がっていた。


彼は布団の上でしばらく座っていた。


見たい。


ものすごく見たい。


でも、見ない日があってもいいと、言ったばかりだ。


「……今日、見ない」


誰にともなく言った。


その声は、少し震えていた。


台所へ行くと、リュミナが朝の粥をよそっていた。


「金木犀は?」


「見ない」


リュミナの手が止まった。


「体調が悪いのか」


「悪くない」


「腹か」


「腹でもない」


「では何だ」


リクは椀を受け取りながら言った。


「見ない日」


ミナが顔を上げた。


「今日ですか」


「うん。見たいけど、見ない」


セリカが白盾を立てかけながら頷いた。


「いい訓練だな」


「訓練なの?」


「待つ力を休ませる訓練だ」


リクは少し考えた。


「じゃあ、今日は訓練」


リュミナは深刻な顔で粥を一匙増やした。


「訓練には栄養がいる」


「何でも増やすな」


「粥だ」


「まあ、粥ならいい」


リクは金木犀を見ないまま朝食を食べた。


そのこと自体が、妙に大きな出来事のように感じられた。


窓の外を見れば、少し首を伸ばすだけで若木が見える。けれど彼は見ないようにした。見ないようにしすぎて、逆に頭の中は金木犀でいっぱいになった。


「見ないって、見るより疲れるな」


リオが笑った。


「最初はそうかもしれません」


「意味ある?」


ミナが答える。


「あります。見ない日にも、相手が消えないと少しずつ体が覚えます」


リクは粥を飲み込んだ。


「体が覚えるのか」


「はい。声も、待つことも、休むことも」


午前中、王都からアリアンヌの返事が届いた。


――リクへ。


――手紙をありがとう。


――王女の服は乾かしました。


――メリッサにも乾かされました。


――今日は、箱の鍵を持たない日にしました。


――でも、鍵置き場があると聞いて安心しました。


――父上への未送信の手紙は、まだ箱の中です。


――今日は読まない日。


――でも、読まない日にも、父上は朝食を食べました。


――今日はアリアンヌ。


――王女の服は乾いています。


リクは手紙を読んで、安心したように笑った。


「服、乾いたって」


リュミナが頷く。


「重要だ」


セリカが言う。


「メリッサに乾かされた、という表現が強いな」


「姉さん、怒られたのかな」


「たぶん」


リクは手紙の中ほどをもう一度読んだ。


――読まない日にも、父上は朝食を食べました。


「読まない日にも、食べるんだな」


ミナが頷く。


「はい」


「見ない日にも、朝は来る?」


リオは静かに答えた。


「はい」


リクはそこで、日々の棚に小さな札を書いた。


“見ない日にも、朝は来る。”


それは今日の札だった。


外では、金木犀が光を受けているはずだった。


でもリクはまだ見なかった。


昼近く、白盾記録院からヴォルク審理の続報が届いた。


今回の報告は短かった。


ヴォルクは“人を時間にするな”の札について質問されたという。


審理官が問うた。


“あなたは、第三歩兵隊を時間として扱ったと述べました。では今、彼らの時間をどう記録すべきだと思いますか。”


ヴォルクは長く沈黙した後、答えた。


“私が奪った時間として。”


その一文を読んだ瞬間、レインが息を止めた。


リオも、ミナも、セリカも、言葉を失った。


リュミナの手元で鍋の火が少し弱まる。


奪った時間。


帰る時間。


眠る時間。


食べる時間。


娘に灰星を見せる時間。


焦げ豆を笑う時間。


馬を撫でる時間。


撤退する時間。


助かるかもしれなかった時間。


ヴォルクは、そのすべてを初めて“奪った”と呼んだ。


それでも免罪ではない。


遅すぎる。


足りない。


だが、記録は変化を残す。


レインは震える手で木札を取った。


“奪われた時間は、戻らない。”


書いた後、彼はもう一枚取った。


“でも、奪ったと言った。”


そして、しばらく迷ってから、三枚目を書いた。


“苦しい。”


三枚とも、間の棚に置かれた。


セリカがその下に一枚足す。


“免罪ではない。”


ミナはレインの隣に座った。


「食べられますか」


レインは少し首を横に振った。


「今は、無理です」


リュミナが椀を置こうとして、手を止めた。


そして尋ねた。


「椀を置いてよいか」


レインはその問いに、少しだけ目を見開いた。


それから頷いた。


「はい。置いてください。でも、すぐには食べません」


リュミナは椀を置いた。


「よい」


それだけ言って、下がった。


誰もレインに食べろとは言わなかった。


粥は湯気を立て、少しずつ冷めていった。


冷めても、そこにあった。


午後になって、レインはその粥を半分食べた。


日々の棚には、


“すぐには食べなかったが、半分食べた。”


と書かれた。


リクはそれを見て、静かに頷いた。


「椀を置いていいか聞くの、大事だな」


「はい」


リオは答えた。


「置く前の問いも、記録になります」


夕方、リクはまだ金木犀を見ていなかった。


正直に言えば、限界だった。


気になって仕方がない。


蕾かもしれないふくらみが、雨の後どうなったのか。


落ちていないか。


大きくなっていないか。


花になっていないか。


リクは台所の椅子でそわそわしていた。


セリカが呆れたように言う。


「見てもいいんだぞ」


「見ない日って決めた」


「一日中見ないと決めたのか」


リクは固まった。


「……決めてない」


ミナが微笑む。


「朝は見ない日、でもいいと思います」


リクは目を瞬かせた。


「一日じゃなくていいの?」


「はい。見ない時間にも意味があります」


リクは少し考え、立ち上がった。


「じゃあ、夕方は見る」


「はい」


彼は外へ出た。


春の雨上がりの匂いがした。


土、草、濡れた木、遠くの山。


金木犀の若木は、昨日と同じ場所に立っていた。


消えていなかった。


枝の小さなふくらみも、落ちていなかった。


むしろ、ほんのわずかに、開きかけているように見えた。


花。


そう呼びそうになって、リクは口を閉じた。


まだ決めない。


でも、見た。


そして、消えていなかった。


彼は深く息を吐いた。


「いた」


リオが隣で頷く。


「はい」


「朝、見なかったのに」


「はい」


「いた」


「はい」


リクは少し笑った。


「じゃあ、見ない日って言っても、消えないんだな」


「はい」


「朝は見ない日。夕方は見た日」


「いい日ですね」


その夜、日々の棚に二枚の札が並んだ。


“朝は見ない日。”


“夕方は見た日。”


その間に、リクが小さく書いた。


“消えていなかった。”


リオはその三枚を見て、新しい小瓶を作った。


雨上がりの朝。


見ないと決めた粥の湯気。


アリアンヌの乾いた王女の服。


読まない日にも食べた国王の朝食。


ヴォルクの“奪った時間”。


レインの冷めた粥。


夕方に見た金木犀。


消えていなかった小さなふくらみ。


ラベルは、


“見ない日にも、朝は来る。”


リクは瓶を見て言った。


「朝だけじゃなくて、夕方も来た」


リオは笑った。


「では、裏に書きます」


瓶の裏には、小さく、


“夕方は見た。”


と書かれた。


夜、戻り香の家では静かに鍋が煮えていた。


食べる者も、すぐには食べない者もいる。


読む者も、今日は読まない者もいる。


待つ者も、待たない者もいる。


見る者も、朝は見ない者もいる。


それでも、朝は来る。


夕方も来る。


そして、消えないものは、見つめ続けなくても消えないことがある。


香りは残る。


見ない朝にも。


冷めた椀にも。


そして、夕方になってようやく見に行った先で、ちゃんとそこにいてくれた小さなふくらみにも。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。