第七十四話 見ない日にも、朝は来る
翌朝、雨は上がっていた。
空はまだ低く雲を引きずっていたが、山の端には薄い光が差していた。濡れた草が銀色に光り、戻り香の家の軒先では、夜のあいだ桶に溜まった雨水が静かに揺れていた。
リクは目を覚ましてすぐ、金木犀を見に行こうとして、足を止めた。
昨日、自分で言ったのだ。
見ない日にも花は消えない。
その言葉が、寝起きの頭の中で小さく転がっていた。
彼は布団の上でしばらく座っていた。
見たい。
ものすごく見たい。
でも、見ない日があってもいいと、言ったばかりだ。
「……今日、見ない」
誰にともなく言った。
その声は、少し震えていた。
台所へ行くと、リュミナが朝の粥をよそっていた。
「金木犀は?」
「見ない」
リュミナの手が止まった。
「体調が悪いのか」
「悪くない」
「腹か」
「腹でもない」
「では何だ」
リクは椀を受け取りながら言った。
「見ない日」
ミナが顔を上げた。
「今日ですか」
「うん。見たいけど、見ない」
セリカが白盾を立てかけながら頷いた。
「いい訓練だな」
「訓練なの?」
「待つ力を休ませる訓練だ」
リクは少し考えた。
「じゃあ、今日は訓練」
リュミナは深刻な顔で粥を一匙増やした。
「訓練には栄養がいる」
「何でも増やすな」
「粥だ」
「まあ、粥ならいい」
リクは金木犀を見ないまま朝食を食べた。
そのこと自体が、妙に大きな出来事のように感じられた。
窓の外を見れば、少し首を伸ばすだけで若木が見える。けれど彼は見ないようにした。見ないようにしすぎて、逆に頭の中は金木犀でいっぱいになった。
「見ないって、見るより疲れるな」
リオが笑った。
「最初はそうかもしれません」
「意味ある?」
ミナが答える。
「あります。見ない日にも、相手が消えないと少しずつ体が覚えます」
リクは粥を飲み込んだ。
「体が覚えるのか」
「はい。声も、待つことも、休むことも」
午前中、王都からアリアンヌの返事が届いた。
――リクへ。
――手紙をありがとう。
――王女の服は乾かしました。
――メリッサにも乾かされました。
――今日は、箱の鍵を持たない日にしました。
――でも、鍵置き場があると聞いて安心しました。
――父上への未送信の手紙は、まだ箱の中です。
――今日は読まない日。
――でも、読まない日にも、父上は朝食を食べました。
――今日はアリアンヌ。
――王女の服は乾いています。
リクは手紙を読んで、安心したように笑った。
「服、乾いたって」
リュミナが頷く。
「重要だ」
セリカが言う。
「メリッサに乾かされた、という表現が強いな」
「姉さん、怒られたのかな」
「たぶん」
リクは手紙の中ほどをもう一度読んだ。
――読まない日にも、父上は朝食を食べました。
「読まない日にも、食べるんだな」
ミナが頷く。
「はい」
「見ない日にも、朝は来る?」
リオは静かに答えた。
「はい」
リクはそこで、日々の棚に小さな札を書いた。
“見ない日にも、朝は来る。”
それは今日の札だった。
外では、金木犀が光を受けているはずだった。
でもリクはまだ見なかった。
昼近く、白盾記録院からヴォルク審理の続報が届いた。
今回の報告は短かった。
ヴォルクは“人を時間にするな”の札について質問されたという。
審理官が問うた。
“あなたは、第三歩兵隊を時間として扱ったと述べました。では今、彼らの時間をどう記録すべきだと思いますか。”
ヴォルクは長く沈黙した後、答えた。
“私が奪った時間として。”
その一文を読んだ瞬間、レインが息を止めた。
リオも、ミナも、セリカも、言葉を失った。
リュミナの手元で鍋の火が少し弱まる。
奪った時間。
帰る時間。
眠る時間。
食べる時間。
娘に灰星を見せる時間。
焦げ豆を笑う時間。
馬を撫でる時間。
撤退する時間。
助かるかもしれなかった時間。
ヴォルクは、そのすべてを初めて“奪った”と呼んだ。
それでも免罪ではない。
遅すぎる。
足りない。
だが、記録は変化を残す。
レインは震える手で木札を取った。
“奪われた時間は、戻らない。”
書いた後、彼はもう一枚取った。
“でも、奪ったと言った。”
そして、しばらく迷ってから、三枚目を書いた。
“苦しい。”
三枚とも、間の棚に置かれた。
セリカがその下に一枚足す。
“免罪ではない。”
ミナはレインの隣に座った。
「食べられますか」
レインは少し首を横に振った。
「今は、無理です」
リュミナが椀を置こうとして、手を止めた。
そして尋ねた。
「椀を置いてよいか」
レインはその問いに、少しだけ目を見開いた。
それから頷いた。
「はい。置いてください。でも、すぐには食べません」
リュミナは椀を置いた。
「よい」
それだけ言って、下がった。
誰もレインに食べろとは言わなかった。
粥は湯気を立て、少しずつ冷めていった。
冷めても、そこにあった。
午後になって、レインはその粥を半分食べた。
日々の棚には、
“すぐには食べなかったが、半分食べた。”
と書かれた。
リクはそれを見て、静かに頷いた。
「椀を置いていいか聞くの、大事だな」
「はい」
リオは答えた。
「置く前の問いも、記録になります」
夕方、リクはまだ金木犀を見ていなかった。
正直に言えば、限界だった。
気になって仕方がない。
蕾かもしれないふくらみが、雨の後どうなったのか。
落ちていないか。
大きくなっていないか。
花になっていないか。
リクは台所の椅子でそわそわしていた。
セリカが呆れたように言う。
「見てもいいんだぞ」
「見ない日って決めた」
「一日中見ないと決めたのか」
リクは固まった。
「……決めてない」
ミナが微笑む。
「朝は見ない日、でもいいと思います」
リクは目を瞬かせた。
「一日じゃなくていいの?」
「はい。見ない時間にも意味があります」
リクは少し考え、立ち上がった。
「じゃあ、夕方は見る」
「はい」
彼は外へ出た。
春の雨上がりの匂いがした。
土、草、濡れた木、遠くの山。
金木犀の若木は、昨日と同じ場所に立っていた。
消えていなかった。
枝の小さなふくらみも、落ちていなかった。
むしろ、ほんのわずかに、開きかけているように見えた。
花。
そう呼びそうになって、リクは口を閉じた。
まだ決めない。
でも、見た。
そして、消えていなかった。
彼は深く息を吐いた。
「いた」
リオが隣で頷く。
「はい」
「朝、見なかったのに」
「はい」
「いた」
「はい」
リクは少し笑った。
「じゃあ、見ない日って言っても、消えないんだな」
「はい」
「朝は見ない日。夕方は見た日」
「いい日ですね」
その夜、日々の棚に二枚の札が並んだ。
“朝は見ない日。”
“夕方は見た日。”
その間に、リクが小さく書いた。
“消えていなかった。”
リオはその三枚を見て、新しい小瓶を作った。
雨上がりの朝。
見ないと決めた粥の湯気。
アリアンヌの乾いた王女の服。
読まない日にも食べた国王の朝食。
ヴォルクの“奪った時間”。
レインの冷めた粥。
夕方に見た金木犀。
消えていなかった小さなふくらみ。
ラベルは、
“見ない日にも、朝は来る。”
リクは瓶を見て言った。
「朝だけじゃなくて、夕方も来た」
リオは笑った。
「では、裏に書きます」
瓶の裏には、小さく、
“夕方は見た。”
と書かれた。
夜、戻り香の家では静かに鍋が煮えていた。
食べる者も、すぐには食べない者もいる。
読む者も、今日は読まない者もいる。
待つ者も、待たない者もいる。
見る者も、朝は見ない者もいる。
それでも、朝は来る。
夕方も来る。
そして、消えないものは、見つめ続けなくても消えないことがある。
香りは残る。
見ない朝にも。
冷めた椀にも。
そして、夕方になってようやく見に行った先で、ちゃんとそこにいてくれた小さなふくらみにも。




