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追放された宮廷調香師は、辺境の村で竜の眠りを解く――香りだけで呪いも戦争も終わらせます  作者: たむ


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第七十三話 鍵を持たない手で、花を待つ

アリアンヌから返事が来たのは、雨の日だった。


春の雨は冷たくはないが、土を深く濡らす。戻り香の家の軒先から落ちる雫は、ひとつひとつが小さな鐘のように木桶を鳴らしていた。


金木犀のふくらみは、雨を受けてさらに丸く見えた。


まだ花とは決めない。


リクは朝から何度もそう自分に言い聞かせていた。


「花じゃないかも」


「はい」


ミナが隣で頷く。


「でも、花かも」


「はい」


「決めない」


「はい」


「でも、見る」


「はい」


そのやり取りを三度繰り返した頃、王都からの早馬が着いた。


封筒は少し湿っていた。


リクは布で丁寧に拭き、台所の火の近くで乾かしてから開いた。


――リクへ。


――手紙をありがとう。


――“箱の鍵を、今日は持たなくてもいい”という言葉を読んで、少し泣きました。


――泣いたのは悲しいからだけではありません。


――手を空けてもいい、と言われた気がしたからです。


リクはそこで一度、読むのを止めた。


アリアンヌの字は少し揺れている。


けれど崩れてはいない。


――父上への未送信の手紙は、まだ箱に預けたままにします。


――母上への手紙も。


――リオンへの手紙も。


――リクへの手紙も。


――今日は、どれも読まない日です。


――でも、読まないことを怖がりすぎない日にします。


――今日はアリアンヌ。


――王女の服は、雨で少し重いです。


リクは手紙を胸に当てた。


「読まないことを怖がりすぎない日、だって」


ミナが静かに微笑んだ。


「よい今日の名ですね」


リクは頷いた。


「姉さん、ちょっと休めたのかな」


「きっと少し」


リュミナが鍋を混ぜながら言った。


「雨の日は重い服を脱ぎ、温かいものを食べるべきだ」


セリカが頷く。


「それは王女にも必要だ」


リクはすぐに返事を書いた。


――姉さんへ。

――読まない日でいいと思う。

――鍵は箱の横に置いても、椅子に置いても、鍋の近くに置いてもいい。

――なくさなければ。

――金木犀のふくらみは、まだ花って決めない。

――雨で丸く見える。

――今日はリク。


そこまで書いて、少し考える。


――王女の服は、乾かせ。


それを見たセリカが笑った。


「命令形だな」


「濡れた服は体に悪いだろ」


リュミナは真剣に頷いた。


「正しい。濡れた服と冷めた鍋はよくない」


「冷めた鍋は関係ない」


「ある」


手紙は王都へ送られた。


雨は一日降り続いた。


その間、戻り香の家には訪問者が少なかった。道がぬかるみ、村人たちは家の中で道具の手入れや繕い物をしていた。


戻り香の家でも、それぞれが静かな作業をした。


ミナは声守草の乾燥棚を整えた。


レインは灰星の額飾りの横に、雨の日用の布を敷いた。


セリカは白盾の革紐を交換した。


リュミナはヤギ乳の煮込みを焦がさず作る練習をした。


リクは未送信の手紙箱の前に座り、箱の横に小さな木片を置いた。


「何ですか」


リオが尋ねると、リクは木片に文字を書いた。


“鍵置き場。”


「箱に鍵はないですけど」


「見えない鍵の置き場」


リオは頷いた。


「なるほど」


リクはさらに小さく書いた。


“今日は持たない。”


それを木片の下に添える。


ミナが見て、少し目を細めた。


「とても必要な場所です」


レインも静かに言った。


「持てない日があります」


「あるよな」


リクは頷く。


「持てないのに、持ってないと失くした気になるから」


リオはその言葉を香りとして受け取った。


持てない日。


失くしたわけではない日。


鍵を置いて、手を休ませる日。


それは未送信の手紙箱に必要なものだった。


夕方、白盾記録院から急ぎではない報告が届いた。


“椀を言い訳にするな”という返書を受け、王都の待合室では新しい札が掲げられたという。


“食事や日々の記録を望まない方は、断れます。

手続きの遅れを、記録で慰めることはしません。

必要な返事を、まず確認します。”


報告には、例の怒った女性が再び記録所へ来たことも書かれていた。


彼女は、若い記録官にこう言った。


“今日は食事の話はしない。補償の進み具合だけ聞きたい。”


記録官はそれに答えた。


手続きは遅れていた。


理由もあった。


だが、謝罪と具体的な次の日付が示された。


女性は帰り際に、こう言ったという。


“次に来た時、食事の話をするかもしれない。しないかもしれない。”


リクはそれを読んで、深く頷いた。


「いい」


セリカも頷く。


「ようやく椀を置く前に聞いたな」


ミナは札を書いた。


“今日は補償の進み具合だけ聞きたい。”


日々の棚と間の棚の境目。


そこに置かれた。


リュミナが少し寂しそうに言う。


「食事の話はしない日」


「ある」


リクが言った。


「でも、次はするかも」


「しないかも」


「そう」


リュミナは頷いた。


「ならば、鍋は煮えるだけにしておく」


セリカが感心した。


「お前がそれを言えるようになるとは」


「私は成長する竜だ」


雨は夜になっても止まなかった。


金木犀のふくらみは、灯りの下で水滴をまとっていた。


花かどうか、まだ決めない。


けれど、リクはそこに手を伸ばさず、ただ見た。


「触ったら落ちるかな」


「かもしれません」


ミナが答える。


「じゃあ触らない」


「はい」


「見るだけ」


「はい」


「でも、見ない日もあっていい?」


ミナは少し驚き、それから微笑んだ。


「もちろんです」


リクは雨の中の若木を見つめた。


「毎日見ないと、花じゃなくなる気がしてた」


「そんなことはありません」


「待たない日にも道は消えないし、見ない日にも花は消えない?」


「はい」


リクはゆっくり息を吐いた。


「そっか」


その夜、リオは新しい香りを作った。


雨。


濡れた王女の服。


読まないことを怖がりすぎない日。


鍵置き場。


今日は持たないという小さな札。


補償の進み具合だけ聞きたい女性。


鍋は煮えるだけにしておく竜。


そして、見ない日にも消えないかもしれない花。


ラベルは、


“鍵を持たない手で、花を待つ。”


その瓶は未送信の手紙箱の横、鍵置き場の近くに置かれた。


リクはそれを見て、少し照れたように言った。


「花って決めてないのに」


リオは頷いた。


「はい。だから“待つ”にしました」


「じゃあいい」


雨の音が、夜の戻り香の家を包んでいた。


棚には重い記録も、小さな葉っぱも、国境を越えた紙も、まだ読まない手紙もある。


そのどれもが、今日ぜんぶ持たれなくてもいい。


置き場がある。


置いたまま、なくさずにいられる場所がある。


香りは残る。


持たない鍵にも。


見ない日にも消えない花にも。


そして、手を空けることを許された人が、雨の夜にようやく温かい椀を両手で持てるようになる、その静かな余白にも。

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