第七十二話 待たない日にも、道は消えない
レムリア商市から届いた“今日は待ちたくない者”という札は、戻り香の家にしばらく静かな波を残した。
十年待った人。
兄の帰還を待ち続けた人。
その人が、ある朝、待ちたくないと言った。
ただそれだけのことを、記録所が初めて名として受け取った。
リクはその札を見るたびに、少し考え込んだ。
「待たないって、やめるってこと?」
ミナは声守草の根を洗いながら答えた。
「そうとは限りません」
「じゃあ何?」
「今日は、待つ力を使わないということかもしれません」
リクは首を傾げた。
「力なの?」
「はい。待つことには力が要ります」
リュミナが鍋の蓋を持ち上げながら言った。
「待つには腹が要る」
「またそこか」
「真理は何度でも戻る」
セリカが白盾の革紐を直しながら頷いた。
「待つ力が尽きる日もある。そういう日に“もっと待て”と言えば、折れる」
リクは“今日は待ちたくない者”の札を見た。
「じゃあ、待たない日にも、道は消えない?」
リオはその言葉をゆっくり受け取った。
「はい。消えないと思います」
「でも、待ってる人が待たなかったら、帰ってくる人が困るかもって思うんじゃないかな」
レインが静かに言った。
「帰る側は、待っている人に自分の帰り道を背負わせてはいけないのだと思います」
その言葉は、灰星の額飾りの方から来たように聞こえた。
灰星は帰り道を知っていた。
だが、その道を誰かに背負わせたわけではない。
道はある。
待つ日にも。
待たない日にも。
その日の昼、王都から国王の短い返事が届いた。
――リクへ。
――手紙を受け取った。
――見える肉は、見える。
――支柱は飾りではない。
――食事時間を削るな、については王宮内でも検討する。
――エルヴィンの手紙を読んだこと、聞いた。
――まだ聞かないけど今日は読んだ、という距離を、私も覚えたい。
――王はしばしば、返事を急がせる。
――今日は、スープを飲んだ人。
リクは最後まで読み、少し笑った。
「見える肉は、見えるって返してきた」
リュミナが満足げに頷く。
「理解が深い」
セリカは手紙の中ほどを見ていた。
「王宮内でも食事時間を検討する、か」
「会議になるの?」
リクが嫌そうに聞く。
ハルトが答えた。
「すでに、侍従、近衛、記録官の休息時間が点検され始めています」
リュミナは胸を張った。
「勝利だ」
「まだ勝つな」
ミナは国王の一文を指でなぞった。
――まだ聞かないけど今日は読んだ、という距離を、私も覚えたい。
「距離を覚える」
彼女は呟いた。
「とても大切ですね」
リクは少し照れた。
「俺、そんな立派なこと言ったつもりない」
「立派に使われすぎないようにしましょう」
リオがそう言うと、リクは頷いた。
「葉っぱは葉っぱ」
「はい」
「でも風は来る」
「はい」
午後、レムリア商市から別便でヤギ乳の煮込みの作り方が届いた。
リュミナは封を開ける前から真剣だった。
紙には、材料、火加減、塩の入れ方、麦粉でとろみをつけるタイミングが細かく書かれていた。
追伸にはこうあった。
――竜の方へ。
――焦がす場合は鍋底を厚くしてください。
――ただし、焦がす料理ではありません。
リュミナは長く沈黙した。
「焦がす料理ではない」
「書かれてるな」
リクが言う。
「だが、焦げには記録がある」
「今回は従え」
セリカが言った。
「文化交流の第一歩は、相手の料理を勝手に変えないことだ」
リュミナは重々しく頷いた。
「今日は焦がさない」
「今日は、か」
その夜、戻り香の家では本物に近いヤギ乳の煮込みが作られた。
乳の甘い匂いと、麦の香ばしさ。
春野菜の柔らかさ。
肉は少なめだが、細かく刻まれている。
リクは一口食べ、目を丸くした。
「変わってる。でもうまい」
ミナも微笑む。
「優しい味ですね」
レインは椀を見つめていた。
「遠い町の待合記録所にも、こういう湯気があるんですね」
リオは頷いた。
「はい」
“今日は待ちたくない者”が、この煮込みを食べた。
十年待つ者ではなく。
今日は待ちたくない者として。
それは、待つ道を消すためではない。
今日、道端に座って休むためだったのかもしれない。
リクは日々の棚に札を書いた。
“待たない日にも、煮込みは温かい。”
リュミナがすぐ隣に書いた。
“焦がさなかった。”
セリカは驚いて言った。
「偉い」
リュミナは誇らしげに胸を張った。
「文化交流だ」
その頃、金木犀の小さなふくらみは、少しだけ形を変えていた。
まだ花とは決められない。
けれど、葉の芽とは違う気がする。
リクは夕食の後、灯りを持って見に行った。
アリアンヌにも手紙を書く。
――姉さんへ。
――金木犀のふくらみは、まだ花って決めない。
――でも少し丸い。
――レムリアのヤギ乳の煮込みを食べた。
――焦がさなかった。
――今日は待ちたくない者、という名が来た。
――待たない日にも道は消えないらしい。
――今日はリク。
彼は最後の一文を見て、しばらく考えた。
待たない日にも道は消えない。
それは、アリアンヌにも必要な言葉かもしれない。
父への未送信の手紙を箱に預けた彼女。
母への手紙も、リオンへの手紙も、リクへの手紙も。
読みたい日もあれば、読みたくない日もある。
待つ日もあれば、待たない日もある。
リクは一行足した。
――箱の鍵を、今日は持たなくてもいいと思う。
手紙は翌朝、王都へ送られた。
夜更け、リオは新しい香りを作った。
レムリアのヤギ乳の煮込み。
十年待った人の“今日は待ちたくない”。
国王の距離を覚えたいという言葉。
焦がさなかったリュミナ。
金木犀のまだ名づけないふくらみ。
リクの“待たない日にも道は消えない”。
ラベルは、そのまま。
“待たない日にも、道は消えない。”
その瓶は、日々の棚と間の棚の境目に置かれた。
近くには、
“今日の名が、明日の名を急がせない。”
“花かどうか、まだ決めない。”
そして、
“今日は待ちたくない者。”
が並んでいる。
棚はもう、まっすぐな分類ではなくなっていた。
けれど、それでよかった。
人の心は、棚の線に合わせて折り畳まれるものではない。
棚の方が、人の揺れに少しずつ合わせて育つ。
香りは残る。
待たない日にも。
焦がさなかった煮込みにも。
そして、帰り道を消さずに、今日だけ道端へ腰を下ろす人のために空けられた、小さな春の余白にも。




