第七十一話 蕾と呼ぶには早いもの
金木犀の小さなふくらみは、翌日になってもふくらみのままだった。
花ではない。
少なくとも、まだ花ではない。
リクは朝から三度も見に行き、そのたびに同じ顔をした。
期待している。
でも、期待していると認めたくない。
ミナはそのたびに付き合い、枝を傷つけないように少し離れたところから観察した。
「どう?」
「昨日より、ほんの少し丸い気がします」
「花?」
「まだ決めません」
「だよな」
リクは頷きながら、少し残念そうだった。
それから自分で木札を見た。
“花かどうか、まだ決めない。”
「自分で書いたのにな」
「自分で書いた言葉ほど、守るのが難しいことがあります」
ミナがそう言うと、リクはため息をついた。
「ある」
戻り香の家の中では、レムリア商市への返書の写しが棚の近くに置かれていた。
“待つ人を、待った日数だけで呼ばない。”
“待たない日を責めない。”
“語らない日にも、その人は待っているかもしれない。あるいは待っていないかもしれない。そのどちらも、記録者が決めない。”
その横に、リュミナの別紙。
“ヤギ乳の煮込みの作り方を詳しく教えよ。”
リクはそれを見るたびに笑ってしまう。
「これ、向こう困ってるだろうな」
リュミナは堂々としていた。
「困ったら、待たない日を選べばよい」
「自分に都合よく使うな」
セリカが白盾の裏を磨きながら言った。
「だが、答えない権利をこちらが認めたのはよい。食文化調査にも同意がいる」
「真面目に言うと余計おかしいな」
昼過ぎ、白盾記録院から報告が届いた。
“人を時間にしない”の試験運用について、王都内の待合室で問題が起きたらしい。
補償を待つ遺族たちに対して、若い記録官が善意でこう声をかけた。
“お待ちのあいだ、今日の食事や日々のことを記録しましょう。”
その言葉を聞いた一人の女性が、強く怒った。
“夫の死の補償を待たされているのに、食事の話をしろと言うのか。”
記録官は謝ったが、女性は席を立ち、記録を中断した。
報告書には、記録官自身の反省が添えられていた。
――私は“人を時間にしない”ことを、“待っている時間に別の記録を足すこと”だと誤解していました。
――しかし、彼女はまず補償の返事を必要としていました。
――椀を置く前に、椀を置いていいか聞くべきでした。
台所でそれを読んだ時、戻り香の家は静かになった。
リクが言った。
「やっぱり変に使われるんだ」
セリカは頷いた。
「使われる。だから直す」
ミナは報告書を見つめた。
「善意でも、急かすことがあります」
リオは胸が痛んだ。
戻り香の家で生まれた言葉が、遠くで誰かを傷つける。
それは避けられないことかもしれない。
けれど、避けられないから仕方ないとは言えない。
リュミナが鍋を止めた。
「椀は、置けばよいわけではない」
誰も笑わなかった。
彼女は続けた。
「空腹の者に椀を置く。怒っている者には、まず場所を空ける。投げたい者には、溶ける雪玉を渡す。食べるかどうかは、その後だ」
セリカが深く頷いた。
「その通りだ」
ミナは新しい札を書いた。
“椀を置いていいか聞く。”
それは入口の木札の下に掛けられた。
既にそこには、
“食事はあります。”
と書かれている。
その隣に、小さく。
“食べるかどうかは、本人が決めます。”
リクはその札を見て言った。
「前からそうだったけど、書くと違うな」
「はい」
リオは答えた。
「書かないと、遠くでは抜け落ちることがあります」
すぐに白盾記録院へ返書が作られた。
今回も鍋の横で。
リオが書いた。
“日々の記録を提案する前に、相手が今必要としている返事、手続き、休息を確認する。”
ミナが書いた。
“食事や葉っぱの記録は、痛みを薄めるために差し出すものではない。”
セリカが書いた。
“制度が遅れている時、記録で慰めて遅れを正当化してはならない。”
リクが太く書いた。
“椀を言い訳にするな。”
リュミナは大きく頷き、その下に書いた。
“鍋も同じ。”
「それいる?」
リクが聞くと、リュミナは真剣に言った。
「いる」
セリカも言った。
「今回はいる」
返書はすぐ送られた。
その日の夕方、リクは金木犀のふくらみを見に行った。
朝より、わずかに丸い。
気がする。
花かどうかは、まだ決めない。
けれど、見守られている。
リクはそこに立って、小さく言った。
「花じゃなくても、怒らないからな」
ミナが隣で微笑んだ。
「いい言葉です」
「花だったら嬉しいけど」
「はい」
「でも、花じゃないなら葉でいい」
「はい」
リクは少し照れたように枝を見た。
「急がないって、こういうことか」
リオはその言葉を静かに受け取った。
急がない。
それは何もしないことではない。
水をやる。
支柱を見る。
縄を緩める。
虫を見る。
花かどうか決めずに、毎朝見る。
返事を待つ。
返事が必要なら催促する。
食事を出す前に、出していいか聞く。
急がないとは、手を抜くことではない。
急がないとは、相手をよく見ることだった。
その夜、レムリア商市から早くも短い返事が届いた。
サラ・ベルテからだった。
――戻り香の家へ。
――返書を受け取りました。
――“待たない日を責めない”という一文を、待合記録所の入口に掲げました。
――ただし、今日、一人の男性がそれを見て泣きました。
――彼は十年、兄の帰還を待っていました。
――今日は待ちたくない、と言いました。
――私たちは初めて、彼を“十年待つ者”ではなく、“今日は待ちたくない者”として記録しました。
――本人は、記録後にヤギ乳の煮込みを食べました。
リュミナの目が光った。
「作り方は?」
リクが続きを読む。
――追伸。
――ヤギ乳の煮込みの作り方は、別紙にて送ります。強制ではないとの注記に感謝します。料理長が喜んでいます。
リュミナは両手を上げた。
「文化交流だ!」
セリカは笑いをこらえきれなかった。
だが、手紙の中心はそこではない。
“今日は待ちたくない者。”
リオはその言葉を何度も読んだ。
十年待った人が、今日は待たないと名乗った。
待つことをやめたのではないかもしれない。
明日はまた待つかもしれない。
それでも今日、彼は待ちたくなかった。
そして、その名が記録された。
ミナはそっと札を書いた。
“今日は待ちたくない者。”
それは日々の棚と間の棚の境目に置かれた。
リクはその札を見て言った。
「今日の名だ」
「はい」
「待たない日も、名になるんだな」
「はい」
リュミナが鍋を見て言った。
「待たない日にも食べる」
「ヤギ乳の煮込みだな」
「そうだ」
その夜、戻り香の家では試作のヤギ乳風煮込みが作られた。
本物のレシピはまだ届いていないので、リュミナの想像である。
味は、少し不思議だった。
セリカは一口食べて言った。
「悪くはないが、正解ではない気がする」
リュミナは真剣に頷いた。
「待つ」
リクが笑った。
「料理は待てるんだな」
「正しい煮込みのためなら」
その日の小瓶は、二つ作られた。
一つは白盾記録院へ送るためのもの。
“椀を言い訳にするな。”
もう一つは、レムリア商市の手紙から。
“今日は待ちたくない者。”
リオは二つの瓶を並べて置いた。
片方は戒め。
片方は新しい名。
どちらも、広がる言葉が人を傷つけないために必要だった。
夜更け、リクは金木犀の前に立った。
小さなふくらみは、暗がりではほとんど見えない。
でも、そこにある。
花と呼ぶには早い。
葉と決めるにも早い。
だから、今日の札はそのままだ。
“花かどうか、まだ決めない。”
リクはその札を見て、小さく言った。
「でも、見てる」
春風が、枝をかすかに揺らした。
香りは残る。
椀を言い訳にしない戒めにも。
今日は待ちたくないという名にも。
そして、蕾と呼ぶには早いものを、急がず、忘れず、毎朝ちゃんと見るまなざしにも。




