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追放された宮廷調香師は、辺境の村で竜の眠りを解く――香りだけで呪いも戦争も終わらせます  作者: たむ


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第七十話 鍋の横の紙は、国境を越える

“人を時間にしない王国。”


その瓶の名は、戻り香の家の棚に置くには少し大きすぎた。


リオ自身も、ラベルを書いた後で一度迷った。


王国はまだ、人を時間にしない国になったわけではない。


灰鷹平原は戻らない。


第三歩兵隊は帰ってこない。


ヴォルクはまだ裁きの途中で、王都には英雄神話を失いたくない者たちがいる。白盾記録院の記録を「国を弱くする」と言う新聞もある。兵舎では、笑っている兵の顔を覚えることに怯える若い隊長がいる。


それでも、瓶は置かれた。


完成した国ではなく、向かおうとしている匂いとして。


リクはラベルを見て、しばらく黙っていた。


「でかい名前だな」


「はい」


「王国、まだそんな立派じゃないよな」


「はい」


「でも、目印ならいいか」


リオは頷いた。


「目印です」


リュミナが鍋を混ぜながら言った。


「鍋も完成前に名前を持つ」


「今日は何の鍋?」


リクが聞く。


「春野菜と肉」


「普通だな」


「名前は普通でも味は深い」


セリカが白盾を壁に掛けながら言った。


「王国もそうなればいいがな」


その日の昼、王都からではない手紙が届いた。


封蝋には見慣れない紋章。


山羊と麦穂。


ハルトが説明した。


「南境の自治都市、レムリア商市からです。王国と交易関係にありますが、法は独立しています」


リクは少し身構えた。


「また王都が変なふうに広めた?」


ハルトは咳払いした。


「白盾記録院の公開記録が、交易路を通じて読まれているようです」


セリカが眉をひそめる。


「公開範囲は?」


「灰鷹平原の個人名を伏せた制度部分です。“今日の名”、“間の棚”、“人を時間にしない”に関する概要が商市の記録官へ届いたようで」


リクは額を押さえた。


「鍋の横の紙も?」


ハルトは目を逸らした。


「……写しとして」


リュミナは胸を張った。


「国境を越えた鍋」


「嬉しそうにするな」


封を開けると、丁寧だが少し硬い文体の手紙が入っていた。


差出人は、レムリア商市の“待合記録所”の所長、サラ・ベルテ。


――戻り香の家へ。


――貴家および白盾記録院で行われている“人を時間にしない”という実践について伺いたく、書簡を送ります。


――当市には、交易路で家族を失った者、債務のため遠方へ売られた親族を待つ者、帰還予定日だけを数え続ける者が多くいます。


――私たちは彼らを“待機者”として記録してきました。


――しかし、記録の多くは、いつから待っているか、いつまで待つべきか、どの補償がいつ支払われるか、という時間の欄で埋まっています。


――その者が何を食べるか、どの名で待ちたいか、待たない日があるかを、ほとんど記録していません。


――待つ人を時間にしていたのかもしれません。


台所は静かになった。


リクはゆっくり手紙を読む。


――可能であれば、“鍋の横で考えた紙”について詳しく教えてください。


――特に、“返事を待つ人に、返事の期限だけを見ない”という一文について。


――また、食事時間を削らない、という点についても。


リュミナが強く頷いた。


「ここは重要だ」


リクは続きを読んだ。


――追伸。

――当市ではヤギ乳の煮込みが一般的です。鍋と呼ぶかは不明ですが、湯気はあります。


リュミナは立ち上がった。


「返事を書く」


セリカが止める。


「座れ」


「ヤギ乳の煮込みだぞ」


「外交文書だ」


「なおさら食事が大事だ」


リオは手紙を受け取り、もう一度読み返した。


国境を越えた。


戻り香の家の小さな実践が、王国の外へ向かっている。


それは誇らしさよりも、怖さを伴った。


広がるものは、変わる。


変わるものは、誤用される。


“人を時間にしない”という言葉が、どこかで新しい命令になってしまうこともある。


“待つ人を時間にしないために、あなたの食事や日々を報告しなさい”と強いる道具になるかもしれない。


ミナが最初に言った。


「返事には、まず“強制しない”を書いた方がいいと思います」


セリカが頷く。


「待つことを記録する制度が、待ち方を命じたら終わりだ」


レインが言った。


「待たない日を認めることも必要ですね」


リクは小さな紙を出した。


「じゃあ、鍋の横で考える?」


リュミナが即座に鍋を中央へ寄せた。


「準備はできている」


「本当に鍋の横でやるのか」


「相手が望んでいる」


「望んでるのは紙だろ」


「紙には湯気が必要だ」


こうして、戻り香の家では“鍋の横の紙・国境版”が作られた。


リオが書く。


“待つ人を、待った日数だけで呼ばない。”


ミナが続ける。


“待たない日を責めない。”


セリカが書く。


“補償や裁きの期限は必要。ただし、それが人の全体ではない。”


レインはしばらく迷ってから書いた。


“帰らない者を待つ人にも、今日の食事がある。”


リクが書いた。


“返事が来ない日にも、葉を見ることがある。”


リュミナは大きく書く。


“ヤギ乳の煮込みの作り方を詳しく教えよ。”


セリカが無言で線を引こうとした。


リュミナは紙を押さえた。


「これは重要な文化交流だ」


「別紙にしろ」


リュミナは渋々、別紙にした。


ノアはその場にいて、弦を小さく鳴らした。


「待つ人の歌も、国境を越えるかもしれませんね」


リクは少し心配そうに言った。


「変なふうに歌われない?」


ノアは頷く。


「その可能性はあります。だから、休符も一緒に渡します」


「休符?」


「歌わない権利です」


ミナが微笑んだ。


「証言しない日にも声はある、ですね」


ノアは頷いた。


その一文も、返事に加えられた。


“語らない日にも、その人は待っているかもしれない。あるいは待っていないかもしれない。そのどちらも、記録者が決めない。”


リクはそれを読んで、少し頷いた。


「いいと思う」


返事は、丁寧な書簡と、鍋の横の紙の写しと、リュミナのヤギ乳煮込み質問票の三つに分けられた。


ハルトは三つ目を見て、少し困った顔をした。


「これも送るのですか」


リュミナは当然のように言った。


「送る」


セリカはため息をついた。


「送れ。だが、正式文書とは別だ」


リクが小さく書き足した。


“これは竜の食文化調査です。答えなくてもいい。”


リュミナは不満そうだった。


「答えてほしい」


「強制しないって言ったばっかだろ」


リュミナは黙った。


翌日、レムリア商市への返書は出発した。


その朝、金木犀の枝に小さな蕾のようなものが見えた。


リクが最初に気づいた。


「これ、葉?」


ミナが近づき、慎重に見た。


「……まだ、わかりません」


リクの目が大きくなる。


「花?」


「決めるには早いです」


「でも、葉じゃない?」


「まだ、わかりません」


リュミナが覗き込む。


「食べられるか?」


「絶対食べるな」


セリカが即座に言った。


リクは枝をじっと見つめた。


小さな、小さなふくらみ。


花かもしれない。


ただの新芽かもしれない。


どちらでも、今すぐ名前を決めるには早い。


リクは小さな札を書いた。


“花かどうか、まだ決めない。”


それを日々の棚と間の棚の境目に置いた。


リオはその札を見て、胸の奥が温かくなった。


今日の名が明日の名を急がせない。


花も同じだ。


蕾かもしれないものを、急いで花と呼ばない。


でも、見なかったことにもしない。


その日の小瓶は、春の湿った土、金木犀の小さなふくらみ、レムリア商市への返書、ヤギ乳の煮込みへの興味、国境を越えた鍋の湯気を含んでいた。


ラベルには、


“鍋の横の紙は、国境を越える。”


リクはそれを見て言った。


「大きくなりすぎない?」


リオは頷いた。


「気をつけます」


「花かどうかも、まだ決めないし」


「はい」


「王国も、まだ決めない」


「はい」


「でも、紙は出した」


「はい」


外では春風が吹いた。


金木犀の小さなふくらみが、葉の影で揺れている。


香りは残る。


国境を越える紙にも。


強制しないための休符にも。


そして、花かどうかまだ決めない小さなふくらみを、急がず、見失わず、今日の風の中に置く手にも。

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