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追放された宮廷調香師は、辺境の村で竜の眠りを解く――香りだけで呪いも戦争も終わらせます  作者: たむ


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第六十六話 見えない肉でも、噛む日は来る

リクの手紙は、未送信の手紙箱の前で三日間過ごした。


箱の中ではない。


箱の上でもない。


前。


それは、まだ旅立つつもりはないけれど、玄関までは出てきた手紙のようだった。


“スープを飲んだ人へ。”


“肉が少ないのは、たぶん今は仕方ない。”


“二杯目は残してもいい。”


“でも、一杯目は飲め。”


“見えない肉でも肉は肉。”


“今日はリク。”


リクは朝ごとにそれを見た。


書き足す日もあれば、何もせず戻す日もあった。


一日目、彼は一行足した。


“葉っぱは増えてる。”


二日目、


“虫はいない。”


三日目、


“支柱はまだいる。”


そこまで書いて、リクは紙を睨んだ。


「これ、金木犀の報告なのか、スープの話なのか、わかんなくなってきた」


リオは答えた。


「どちらもリクさんの言葉です」


「便利な言い方だな」


「でも、本当です」


リクは紙を持ち上げた。


「送るには変じゃない?」


ミナが覗き込んだ。


「変ですが、温かいです」


「変なのは否定しないんだ」


「戻り香の家では、変なのは悪いことではありません」


リュミナが深く頷いた。


「鍋も材料が多い方がよい」


セリカが言った。


「多すぎると味がぼやける」


「火加減だ」


「万能の言葉にするな」


リクは少し笑った。


しかし、まだ送らなかった。


その日、王都からアリアンヌの手紙が届いた。


――父上は、今日は少しだけ肉を噛みました。


――細かく刻まれたものではなく、小さな肉片です。


――メリッサが「噛む練習です」と言いました。


――父上は「私は子どもではない」と言いました。


――メリッサは「では大人らしく噛んでください」と言いました。


――父上は黙って噛みました。


――今日はアリアンヌ。

――王女の服は、今日は肩に乗っています。


リクは手紙を読んで、思わず笑った。


「メリッサ、強すぎる」


セリカも口元を緩めた。


「王の回復に最も必要なのは、医師よりメリッサかもしれないな」


リュミナが真剣に言った。


「噛むのは重要だ。肉は飲むものではない」


「お前は時々飲むみたいに食うだろ」


リクが突っ込むと、リュミナは少し考えた。


「竜の咀嚼は人とは違う」


「都合いいな」


リクは自分の未完成の手紙に、一行足した。


“噛めたならよかった。”


その一行を書いた時、紙の匂いが変わった。


リオには、それがわかった。


今までの手紙は、報告に近かった。


金木犀のこと、スープのこと、肉のこと。


けれど“よかった”という一言が入った瞬間、手紙は相手へ向かい始めた。


リクもそれに気づいたのか、筆を置いたまま固まった。


「今の、ちょっと変わった」


「はい」


リオは頷いた。


「相手のことを思った言葉ですね」


「今までも思ってた」


「はい。でも、今は少し近くなりました」


リクは耳を赤くした。


「消す?」


ミナが静かに聞いた。


リクは首を横に振った。


「消さない」


手紙はこうなった。


“スープを飲んだ人へ。”


“肉が少ないのは、たぶん今は仕方ない。”


“二杯目は残してもいい。”


“でも、一杯目は飲め。”


“見えない肉でも肉は肉。”


“葉っぱは増えてる。”


“虫はいない。”


“支柱はまだいる。”


“噛めたならよかった。”


“今日はリク。”


リクは長く見つめた。


「……送るか」


誰も驚かなかった。


でも、誰も急かさなかった。


セリカが確認する。


「本当に送るか」


「うん」


「写しを残すか」


リクは少し考えた。


「残す。箱の前に置いてた日もあったから」


ミナが写しを作った。


原本は封筒へ。


宛名はそのままにするか、王都で困らないように書き換えるかで少し揉めた。


“スープを飲んだ人へ。”


ハルトが届けるなら意味は通じる。


だが王城の正式便としては、少し奇妙すぎる。


リクは迷ったあと、封筒の表にこう書いた。


“王都の、スープを飲んだ人へ。”


その下に小さく、


“国王陛下へ届けてください。”


リュミナが満足そうに言った。


「よい折衷だ」


「難しい言葉知ってるな」


「私は長生きだ」


手紙は王都へ送られた。


リクは早馬が村を出るのを見送った。


その後、戻り香の家へ戻り、未送信の手紙箱の前に残った写しを見た。


「送ったのに、ここにもある」


「はい」


リオは言った。


「送った言葉にも、戻る場所があっていいと思います」


リクは頷いた。


その日の小瓶は、


“噛めたならよかった。”


と名づけられた。


ラベルを書いたのはミナだった。


リクが書くと照れるから、と言ったのだ。


リクは文句を言ったが、瓶は日々の棚へ置かれた。


三日後、王都から返事が来た。


封筒には、国王の硬い字があった。


リクは受け取ると、今回は金木犀の前ではなく、台所で開けた。


椀を持ってから。


リュミナが満足そうに頷いた。


「正しい」


中には短い紙が入っていた。


――リクへ。


――手紙を受け取った。


――一杯目は飲む。


――二杯目は、その日の体調で考える。


――肉は、少し噛んだ。


――見えない肉も肉だが、見える肉の方がよい。


リクはそこで笑った。


続き。


――金木犀の葉が増えていること、聞いている。


――支柱がまだいることも、わかる。


――私にも、まだ支柱がいる。


――父として書くには、まだ手が震える。


――だが、スープを飲んだ人としてなら書ける。


――今日は、スープを飲んだ人。


リクは手紙を何度も読んだ。


“今日は、スープを飲んだ人。”


王でもない。


父でもない。


でも、逃げてはいない。


リクが置いた宛名に、向こうも乗ってきた。


それが、ひどく不思議で、少しおかしくて、少し温かかった。


「スープを飲んだ人だって」


リュミナが深く頷いた。


「よい名だ」


セリカも言った。


「今日の名としては悪くない」


ミナは微笑んだ。


「リクの言葉に、返事が来ましたね」


リクは頷いた。


「うん」


レインが静かに言う。


「今日の名は、時々人を救います」


リクは少し照れながら、手紙を棚の前へ持っていった。


この手紙はどこへ置くか。


日々の棚。


間の棚。


箱の横。


少し迷った後、リクは日々の棚に札を書いた。


“今日は、スープを飲んだ人。”


そして、未送信の手紙箱の横に、自分の手紙の写しと並べて国王の返事を置いた。


「これは、手紙の道だから」


リオは頷いた。


「はい」


その夜、ノアが来た。


彼女は手紙の話を聞き、炉の前で弦を鳴らした。


――王でも父でもない名で、椀の向こうから返事が来る。

――肉は少なく、手は震え、葉はまだ花ではない。

――けれど、噛む日は来る。

――見えない肉でも、噛む日は来る。


リュミナは感動したように言った。


「肉の歌だ」


ノアは笑った。


「半分は違います」


「半分は肉だ」


「それは認めます」


リクは笑いながらも、少しだけ目を潤ませていた。


その後、彼は金木犀の前に出た。


葉は夜風に揺れている。


花はまだない。


枝は支柱に結ばれている。


でも、前より少しだけ、自分で立っているように見えた。


「スープを飲んだ人、だって」


リクは木に向かって言った。


「変な名だよな」


葉が揺れた。


リクは続けた。


「でも、今日の名なら、それでいいか」


その夜、リオは新しい香りを作った。


リクの手紙。


王の返事。


見えない肉。


噛む練習。


支柱がまだ必要な王。


金木犀の葉。


椀の向こうから戻ってきた“今日の名”。


ラベルには、ノアの歌から取った。


“見えない肉でも、噛む日は来る。”


日々の棚に置くには少し重い。


間の棚に置くには少し温かい。


だからリオは、日々の棚と間の棚の境目に置いた。


棚はまた少し、育った。


香りは残る。


見えない肉にも。


震える手で書かれた返事にも。


そして、王でも父でもない今日の名から、いつか別の名へ少しずつ噛みしめて進む、椀の向こうの道にも。

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