第六十七話 今日の名が、明日の名を急がせない
“スープを飲んだ人。”
その名は、戻り香の家でしばらく大切に扱われた。
大切に、というより、雑に扱わないようにした。
リクは国王からの返事を何度も読み返したが、誰かが「父さんから手紙が来たね」と言うと、たぶん怒っただろう。だから皆、そうは言わなかった。
リュミナだけが一度、
「スープの人は肉を増やすべきだ」
と言った。
リクは少し考え、
「それならいい」
と答えた。
セリカはそれを聞いて、白盾を磨く手を止めた。
「基準が難しいな」
ミナが微笑む。
「今日の名ですから」
今日の名。
それは戻り香の家で育ってきた考えだった。
今日はリク。
今日はアリアンヌ。
今日はレイン。
今日は雪。
今日はスープを飲んだ人。
明日、同じ名でいられるかはわからない。
でも、今日そう名乗れたなら、それは小さな足場になる。
リクは金木犀の前で、王都へ短い返事を書いた。
――スープを飲んだ人へ。
――返事読んだ。
――見える肉の方がいいのはわかる。
――でも、急に増やすとメリッサに怒られると思う。
――支柱がいるなら、使えばいい。
――今日はリク。
最後に少し迷い、
――葉はまた増えた。
と足した。
手紙は送られた。
今度は前ほど震えなかった。
もちろん、何も感じないわけではない。封をする時、リクの指先は少し強張った。けれど、彼はその強張りを隠さなかった。
「怖いけど、送る」
それだけ言って、ハルトへ渡した。
ハルトは深く頷いた。
「確かに届けます」
「読み上げるなよ」
「もちろんです」
「王都の会議で使うなよ」
ハルトは一瞬迷った。
「……必要がない限り」
リクは目を細めた。
「使う気だな」
セリカが横から言った。
「今回の手紙は私信だ。使うな」
ハルトは姿勢を正した。
「承知しました」
リクは安心したように息を吐いた。
葉っぱは葉っぱ。
私信は私信。
今日の名は、会議の材料ではない。
それを守ることも、白盾記録院が学ばなければならない火加減だった。
その日の午後、戻り香の家にエルヴィンから書簡が届いた。
今回は珍しく短かった。
――リクへ。
――スープを飲んだ人、という名を聞いた。
――会議では使わない。
――ただ、法的には極めて興味深い。
リクはそこで紙をくしゃりと握りかけた。
リオがそっと止める。
「続きを」
リクは渋々読む。
――人は公的名称、血統上の名称、本人が望む名称、その日だけの名称を持ちうる。
――制度は、公的名称だけで人を扱おうとする。
――しかし、公的名称だけでは近づけない関係がある。
――私はそれを、遅く学んでいる。
――もし不快でなければ、戻り香の家の“今日の名”の扱いについて、いつか意見を聞きたい。
――ただし、急がない。
――エルヴィン。
追伸。
――リュミナへ。スープは法的主体ではない。
リュミナが不満そうに言った。
「なぜ先回りする」
リクは笑った。
「絶対お前が何か言うと思われてる」
「スープにも名はある」
「法的主体じゃないって」
「名と法は違う」
セリカが少し驚いてリュミナを見る。
「本当に今日は冴えているな」
「私はいつも」
「それは違う」
リクはエルヴィンの手紙をもう一度見た。
「会議では使わないって書いてある」
「はい」
ミナが頷く。
「守ってくれていますね」
「……ちょっとだけ、まとも」
「かなりまともだと思います」
リオが言うと、リクは顔をそらした。
「まだ聞かないけど」
「はい」
その言葉も、少し前より柔らかかった。
まだ聞かない。
拒絶ではなく、猶予。
リクの中で、エルヴィンへの距離もまた少しだけ支柱を得ているのかもしれない。
その夜、リオは新しい札を作った。
“今日の名は、会議の材料ではない。”
日々の棚でも、間の棚でもなく、戻り香の家の木札の裏に小さく掛けた。
利用しないための札。
守るための札。
ノアがそれを見て言った。
「これは歌ではなく、休符ですね」
「休符?」
リクが聞く。
「音を出さない記号です。でも、音楽には必要です」
リクは少し考えた。
「じゃあ、手紙を会議で読まないのも休符?」
「ええ」
リュミナが頷いた。
「食事にも休みが必要だ」
「お前は休まないだろ」
「私は竜だ」
「都合いいな」
翌日、王都から国王の返事は来なかった。
それでよかった。
今日の名は、毎日返事を求めるものではない。
リクは金木犀の葉を見て、手紙を書かず、日々の棚に札だけ置いた。
“今日は返事を求めない。”
ミナがそれを見て、静かに言った。
「いい葉っぱです」
「葉っぱかな」
「はい。落ち着いた葉っぱです」
レインも札を置いた。
“リディアさんへ送らない日。”
彼はリディアへの未送信の手紙をまだ箱に入れたままにしている。最近、時々取り出して封の上から触れるが、開けない。送らない。けれど、なくさない。
「今日の名と似ていますね」
レインは言った。
「今日送らない、という日があります」
ミナも頷いた。
「今日読まない、という日もあります」
セリカは白盾の裏を見ていた。
「今日読まない名もある」
白盾の裏には、まだ未読の名が残っている。
アールヴェが刻んだ名。
灰鷹平原で拾いきれなかった名。
カシア村の名。
白盾は重い。
だが、今日すべてを読まなくてもいい。
今日の名が、明日の名を急がせない。
それは白盾にも必要な考えだった。
数日後、白盾記録院から報告が来た。
“今日の名”の考え方が、記録院の対応方針に試験的に導入されたという。
ただし、リクの手紙は引用されなかった。
代わりに、戻り香の家から送った一般的な説明が使われた。
“本人がその日に用いたい呼称を尊重すること。
その呼称を翌日以降も強制しないこと。
一時的な呼称を、政治的・法的結論として扱わないこと。
ただし、本人が望む場合は記録できること。”
リクはそれを読んで、ほっとした。
「今回はちゃんとしてる」
セリカが頷く。
「学んだな」
リュミナが言う。
「スープの人も役立った」
「会議では使ってないだろ」
「香りは伝わった」
「まあ、それなら」
白盾記録院で最初に“今日の名”を使ったのは、意外にもヴォルクだった。
審理記録に、こうあった。
記録官が名を確認した。
“ヴォルク・ゼーゲンでよろしいですか。”
彼は長く黙り、こう答えた。
“今日は、ヴォルクでよい。ゼーゲン家の名は、重い。”
戻り香の家でその一文が読まれた時、レインは顔を強張らせた。
怒り。
困惑。
少しの理解。
それらが混じった匂いがした。
「彼にも、今日の名を使う権利があるのですね」
レインは言った。
セリカが答える。
「ある」
「罪人でも」
「ある」
「命令を変えた者でも」
「ある」
レインは目を閉じた。
「それは、難しいです」
「難しいから記録する」
ミナが静かに言った。
「名前を尊重することは、罪を軽くすることではありません」
リオは頷いた。
「むしろ、名を持ったまま裁くためです」
レインは深く息をした。
そして間の棚に札を書いた。
“ヴォルクにも今日の名があるのが苦しい。”
その下に、少し迷ってもう一枚。
“でも、名を消したら、また同じことになる。”
リクはそれを見て、小さく言った。
「レイン、すごいな」
レインは苦笑した。
「すごくはありません。苦しいだけです」
「でも、書けた」
「はい」
リュミナが椀を差し出した。
「書いた後は食べる」
レインは受け取った。
「はい」
その日の香りは強かった。
ヴォルクの今日の名。
レインの苦しさ。
名を消さずに裁くという白盾の重さ。
スープを飲んだ人という柔らかい今日の名と、ヴォルクという重い今日の名。
同じ考えが、温かい場面にも、苦しい場面にも使われる。
それこそが制度になるということなのだろう。
リオは小瓶にラベルを書いた。
“今日の名は、罪を消さない。”
その瓶は間の棚の中央に置かれた。
夜、リクは金木犀の前に座っていた。
葉はもう、春の光をしっかり受けている。
花はまだない。
けれど木は、確かに木になりつつある。
リオが隣へ行くと、リクは言った。
「スープを飲んだ人って、いつか父さんになるのかな」
「わかりません」
「王様に戻るかも」
「はい」
「ずっとスープを飲んだ人かも」
「それでもいいかもしれません」
リクは少し笑った。
「変だけどな」
「はい」
「でも、今日の名だから」
「はい」
リクは葉を見た。
「明日を急がせない」
「いい言葉ですね」
「瓶にする?」
「してもいいですか」
リクは少し考え、頷いた。
「いい。これは、使えそう」
その夜、日々の棚と間の棚の境目に新しい瓶が置かれた。
“今日の名が、明日の名を急がせない。”
香りは、金木犀の葉と、少し濃いスープと、白盾の石と、未送信の手紙箱の木の匂いを含んでいた。
温かいだけではない。
難しいだけでもない。
今日の名を今日のまま置くための香り。
香りは残る。
スープを飲んだ人にも。
今日はヴォルクでよいと言った罪人にも。
そして、明日の名を急がず、今日の葉をただ風に揺らす金木犀にも。




