第六十五話 宛名だけの手紙
リクは、翌朝になっても本文を書かなかった。
けれど、宛名は書いた。
戻り香の家の台所には、朝の光と薬草茶の湯気があった。ミナが声守草の若葉を選り分け、リュミナが鍋に豆を入れすぎようとしてセリカに止められ、レインが灰星の額飾りを磨かずに見る練習をしていた。
リクはその端で、白い紙の前に座っていた。
筆を持つ。
止まる。
置く。
また持つ。
それを何度か繰り返したあと、彼はようやく一行だけ書いた。
“スープを飲んだ人へ。”
それだけだった。
リオは隣で見ていたが、何も言わなかった。
リクは筆を置き、紙を睨んだ。
「変かな」
「いい宛名だと思います」
「王様でもないし、父さんでもない」
「はい」
「でも、誰かはわかる」
「はい」
リクは少し安心したように息を吐いた。
「今日はここまで」
「はい」
紙は、未送信の手紙箱の前に戻された。
昨日までの札は、
“まだ宛名も決まらない紙。”
だった。
リクはそれを外し、新しい札を書いた。
“宛名だけ決まった。”
日々の棚に置くには少し重い。
間の棚に置くには少し進んでいる。
だから、また箱の前。
リュミナがそれを見て頷いた。
「宛名は椀の位置だ」
リクが眉をひそめる。
「どういう意味だよ」
「誰の前に置くか決める」
セリカが少し感心したように言った。
「今日も冴えているな」
「私はいつも」
「言うと思った」
ミナは紙を見て、静かに微笑んだ。
「宛名だけでも、手紙は少し息を始めますね」
レインが頷く。
「私も、リディアさんへの手紙に宛名を書いた日が一番怖かったです。本文よりも」
「何で?」
リクが尋ねる。
「相手が本当にいると認めるからです」
リクは紙を見る。
“スープを飲んだ人へ。”
相手はいる。
王都に。
少し濃いスープを飲み、肉が少ないと書き、父として書くには手が震える人。
リクは小さく言った。
「いるんだな」
誰も返事を急がなかった。
昼、王都から灰鷹平原の審理続報が届いた。
ヴォルクは“食べていたのか”と呟いた後、三日間沈黙したらしい。
記録官は彼に焦げ豆の記録、ユーロ・ダンの姪マルタの証言、第三歩兵隊最後の食事に関するレインの証言を読ませた。ヴォルクは最初、顔を背けた。次に、読み上げを止めろと言った。最後には、黙って聞いた。
そして、一言だけ言った。
“私は、兵を腹のある人間として見ていなかった。”
戻り香の家では、その一文が読まれた瞬間、空気が重くなった。
レインは目を閉じた。
ミナは記録帳に手を置いた。
リュミナは怒らなかった。
ただ、鍋を見た。
「腹のある人間」
彼女は呟いた。
「当たり前のことを、忘れるのか」
セリカが答えた。
「忘れられる。だから戦争は怖い」
リクは椀を握った。
「腹があるって、変な言い方だけど……わかる」
「そうですね」
リオは頷いた。
「人は、腹が減ります。怖くても、怒っていても、罪を犯していても、裁きを受けていても」
レインが静かに言った。
「第三歩兵隊も」
「はい」
「ヴォルクも」
その言葉に、レイン自身が少し苦しそうな顔をした。
セリカは彼を見た。
「それを言えることと、許すことは違う」
「はい」
レインは頷いた。
「わかっています。でも……彼にも腹はある」
リュミナが深く頷く。
「そうだ。だから、拒んだ椀にも意味がある」
間の棚に新しい札が置かれた。
“腹のある人間として見ていなかった。”
その下に、セリカがいつものように書いた。
“免罪ではない。”
さらにリュミナが足した。
“腹はある。”
今回は誰も笑わなかった。
それは、この物語の最初からずっと戻り香の家が言い続けてきたことだった。
人は腹が減る。
そのあまりにも単純な事実が、罪の記録に体温を戻す。
夕方、リクは宛名だけの紙の前に戻った。
“スープを飲んだ人へ。”
彼はその下に一行だけ書いた。
“肉が少ないのは、たぶん今は仕方ない。”
筆を置く。
少し考える。
もう一行。
“二杯目は残してもいい。”
さらに少し迷って、
“でも、一杯目は飲め。”
そこで止まった。
リオは笑いそうになったが、こらえた。
リクは睨む。
「変?」
「とてもリクさんらしいです」
「褒めてる?」
「はい」
「じゃあ、いい」
それ以上は書かなかった。
紙はまだ手紙ではない。
しかし、宛名だけの紙ではなくなった。
リクは新しい札を書いた。
“本文が三行になった。”
未送信の手紙箱の前に置く。
リュミナが覗き込み、満足げに言った。
「よい三行だ」
「お前に言われると、食事の評価みたいだな」
「食事の評価でもある」
「まあ、スープの話だしな」
その夜、アリアンヌから手紙が来た。
彼女は国王の近況を書いていた。
――父上は今日、少し濃いスープに細かく刻んだ肉を入れてもらいました。
――「肉は見えない」と言いました。
――メリッサが「噛む力が戻るまでの肉です」と言いました。
――父上は黙って食べました。
――私は笑いそうになりました。
――父上も、少し笑いました。
――今日はアリアンヌ。
――王女の服は、今日は少し軽かったです。
リクはそれを読んで、未完成の手紙に一行足した。
“見えない肉でも肉は肉。”
書いてから、自分で笑った。
「何だこれ」
リュミナは真剣に頷いた。
「真理だ」
セリカが苦笑する。
「王都の会議に送るなよ」
「送らない。たぶん」
リクは紙を見た。
宛名。
三行。
そして見えない肉。
それでも、まだ送らない。
「これは、箱に入れる?」
ミナが尋ねると、リクは首を横に振った。
「まだ外。箱に入れるほど手紙じゃない。でも、捨てない」
「はい」
リオはその状態を小瓶にした。
白い紙。
宛名。
三行の本文。
見えない肉。
書いたけど送らない。
箱の外で息をする紙。
ラベルには、
“宛名だけの手紙。”
と書いた。
リクはそれを見て言った。
「もう宛名だけじゃない」
「最初にそうだったので」
「まあ、いいか」
その瓶は、未送信の手紙箱の前に置かれた。
箱の中に入る前の手紙たちのために。
翌朝、リクは金木犀の葉を見に行った。
風は穏やかだった。
虫はいない。
葉はまた少し大きくなっている。
花はまだない。
リクは木の前で呟いた。
「お前も、まだ花じゃないけど、木だよな」
誰も返事をしない。
けれど葉が少し揺れた。
それで十分だった。
台所へ戻ると、リクは自分の未完成の手紙を見た。
“スープを飲んだ人へ。”
“肉が少ないのは、たぶん今は仕方ない。”
“二杯目は残してもいい。”
“でも、一杯目は飲め。”
“見えない肉でも肉は肉。”
彼は少し考えて、最後に一行足した。
“今日はリク。”
それを書いた瞬間、手紙は少しだけ形を得た。
まだ送らない。
でも、誰からの言葉かは決まった。
リクから。
スープを飲んだ人へ。
リオは静かに見守った。
宛名も、差出人も、すぐには決まらないことがある。
王でも父でもない相手へ。
リオンでも王子でもない自分から。
言葉は、少しずつ紙に乗る。
まるで春の葉が、花の前に一枚ずつ増えるように。
香りは残る。
宛名だけの日にも。
三行だけの日にも。
そして、まだ送られないまま、ようやく“今日はリク”と名乗れた紙の白さにも。




