第六十二話 父の椀は、空になってから重くなる
リクが「父さん」という言葉を棚に置いたのは、それから三日後だった。
きっかけは、王都から届いた一枚の短い紙だった。
国王からではない。
アリアンヌからでもない。
メリッサからだった。
文字は整っていて、必要なことだけが書かれている。
――リク様。
――陛下は本日、二杯目の薄いスープを残しました。
リクはそこを読んで顔をしかめた。
「何で俺に報告するんだよ」
リオは横で続きを見た。
――理由は「味が薄すぎる」とのことです。
――私は「薄くても命には味がある」と申し上げました。
――陛下は黙りましたが、二杯目は残しました。
――残した椀を見て、少し寂しそうでした。
――この報告が必要かどうかは判断がつきませんが、アリアンヌ様が「戻り香の家なら置ける」とおっしゃったため送ります。
――メリッサ。
台所は妙な沈黙に包まれた。
リュミナがまず言った。
「二杯目なら仕方ない」
セリカが眉を上げる。
「お前がそれを言うのか」
「病人に二杯目を強いるのはよくない」
「意外と節度があるな」
「私は食事に真剣だ」
リクは手紙を見つめていた。
「残したんだ」
ミナが静かに言った。
「はい」
「寂しそうだったって」
「はい」
リクは椀を見た。
自分の朝食の椀は空だった。
底に豆の皮が一つ残っている。
「王様でも、椀を残すんだな」
レインが答えた。
「残します。人ですから」
リクはその言葉を聞いて、少しだけ肩を落とした。
王。
父。
病人。
薄いスープを残す人。
そのどれも同じ人なのだと、椀の底が教えてくる。
リクは手紙を持って、日々の棚の前へ行った。
“薄いスープを全部飲んだ王。”
その隣に、新しい札を書いた。
“二杯目は残した王。”
セリカがそれを見て、少し笑った。
「対になったな」
「王様っぽくないけど」
「だから必要なんだろう」
リクは頷いた。
それから、少し迷い、別の小さな札を手に取った。
しばらく筆を持ったまま固まる。
誰も急かさなかった。
リュミナは鍋を混ぜる音さえ少し小さくした。
やがてリクは書いた。
“父さん、と言った日。”
その札を、日々の棚ではなく、間の棚でもなく、未送信の手紙箱の隣に置いた。
リオは尋ねなかった。
けれどリクが自分から言った。
「日々っていうには、まだ変。間っていうには、もう少し温かい。箱の横がいい」
「はい」
「読む手紙じゃないけど、いつか読むかもしれない言葉の近く」
「いい場所です」
リクは札を見た。
「父さんって、まだ王様にも戻るし、父さんにもなるし、よくわかんない」
「はい」
「でも、言った日はあった」
「はい」
リクは椀を持ち上げた。
「椀の縁で冷めない感じって、言っただろ」
「はい」
「瓶にしていい。後でって言ったし」
リオは小さく頷いた。
その日の香りは、薄いスープだった。
全部飲んだ日。
二杯目を残した日。
メリッサの強い言葉。
父さんとこぼれた声。
空になったリクの椀。
豆の皮。
そして、未送信の手紙箱の横に置かれた小さな札。
ラベルは、
“父さんは椀の縁で冷めない。”
リクはそれを見て、少し照れたように言った。
「長いな」
「削りますか」
「いや、このままでいい」
その瓶は、箱の隣に置かれた。
“箱を開けない日にも、鍵はなくさない。”
“鍵を持つ手は、時々ふさがる。”
“鍵は箱の横に置いてある。”
そして、
“父さんは椀の縁で冷めない。”
四つの瓶は、家族という言葉を急がずに囲むように並んだ。
その午後、王都からさらに知らせが届いた。
国王は短時間なら執務へ戻れるようになった。
ただし、白盾記録院に関する決定は国王一人ではなく、民会、記録院、白盾代表、王女代行の四者確認を必要とする暫定規則が承認されたという。
セリカはそれを読んで頷いた。
「根が増えたな」
リクが聞く。
「支柱じゃなくて?」
「支柱だけでは倒れる。根もいる」
リュミナが言った。
「根にも栄養」
「それはもうわかった」
王が倒れたことで、王国は少しだけ王だけに寄りかからない形へ変わった。
それは危機であり、成長でもあった。
日々の棚に、ミナが札を置いた。
“王国に根が一本増えた日。”
リュミナがその下に、
“栄養が必要。”
と足した。
セリカは見て、消さなかった。
夕方、カイルから手紙が届いた。
兵舎の馬の名を覚え始めたという報告だった。
――灰毛の馬は“煙”。
――栗毛の馬は“パン耳”。
――黒馬は“夜鍋”。
――夜鍋は誰が名づけたのか不明ですが、兵舎では皆そう呼んでいます。
――豆が嫌いなユアンは、夜鍋にだけ豆を食べさせようとします。
――馬は食べません。
――今日は、命令前に馬の様子を見るようになりました。
リュミナは手紙を読んで真剣に頷いた。
「夜鍋。よい名だ」
リクは笑った。
「そこかよ」
レインは、手紙の最後を何度も読んだ。
――命令前に馬の様子を見るようになりました。
「灰星が、少し届いたのかもしれません」
彼は言った。
リオは頷いた。
「はい」
人ではない名の棚に、新しい札が加わった。
“兵舎の馬たち。煙、パン耳、夜鍋。”
まだ物はない。
けれど名だけ先に来た。
名だけでは寒い。
だから、カイルへ返事を書いた。
“次は、彼らが何を怖がるか、何を好むかも教えてください。”
リュミナが追記した。
“夜鍋の名の由来を調べよ。”
セリカはため息をつきつつ、そのまま送った。
夜、戻り香の家の外で、金木犀が風に揺れていた。
リクはその前に立ち、王都へ送る手紙を書いた。
――姉さんへ。
――メリッサの手紙、読んだ。
――二杯目は残してもいいと思う。
――父さんって言った日の札を置いた。
――箱の横。
――まだよくわからないけど、なくならない場所。
――金木犀は葉が増えて、虫はいない。
――支柱と縄は大丈夫。
――今日はリク。
彼は少し迷ってから、最後に一行足した。
――父さんにも、薄くないスープの日が来るといい。
その手紙は、翌朝王都へ送られた。
リオはその夜、棚の前で灯りを落としながら思った。
椀は、空になった時に軽くなる。
けれど、誰かの記憶の中では、空になってから重くなることがある。
飲み干したこと。
残したこと。
差し出したこと。
受け取らなかったこと。
そのすべてに、名前が宿る。
香りは残る。
空の椀にも。
残された二杯目にも。
そして、父さんという言葉がまだ冷めずにいる、椀の縁の小さな湯気にも。




