↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
追放された宮廷調香師は、辺境の村で竜の眠りを解く――香りだけで呪いも戦争も終わらせます  作者: たむ


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

PR
63/122

第六十三話 薄くないスープの日

王都から返事が来たのは、五日後だった。


封筒にはアリアンヌの字と、もう一つ、見慣れない硬い字が添えられていた。リクはそれを見た瞬間、眉を寄せた。


「誰の字?」


リオは封筒を受け取り、差出人を確認した。


「国王陛下からも、短い追伸があるようです」


リクの手が止まった。


台所の湯気が、少し遠くなる。


リュミナは鍋の蓋を半分開けたまま、珍しく何も言わなかった。ミナは薬草茶をそっとリクの近くへ置き、セリカは白盾を壁に立てかけた。


リクは封筒を握ったまま、金木犀の若木の前へ出た。


葉は増えている。


虫はいない。


支柱と縄は、昨日と同じように木を支えていた。


リクはそこで封を開けた。


まず、アリアンヌの手紙。


――リクへ。


――手紙を読みました。


――“父さんって言った日の札”を置いたことを、父上に伝えるかどうか迷いました。


――勝手に伝えるのは違うと思ったので、そのままは伝えていません。


――ただ、「リクがあなたのスープの話を読みました」とだけ言いました。


――父上はしばらく黙っていました。


――そして今日、少し濃いスープを飲みました。


リクは小さく息を吸った。


読み続ける。


――メリッサが、薄すぎるスープから一歩進めてもいいと判断しました。


――父上は一口飲んで、「味がする」と言いました。


――それから、全部飲みました。


――二杯目はありませんでした。


――私は少し笑いました。


――父上も少しだけ笑いました。


――今日はアリアンヌ。

――王女の服は、椅子の背にかけています。


リクは手紙を下ろした。


「少し濃いスープ」


リオは頷いた。


「はい」


「全部飲んだって」


「はい」


「二杯目はなし」


「はい」


リクは少しだけ笑った。


「それでいいよな」


「はい」


封筒の中には、もう一枚の小さな紙が入っていた。


硬い字。


短い文。


リクは一度だけ目を閉じてから、開いた。


――リクへ。


――スープは、少し濃くなった。


――まだ肉は少ない。


――だが、味はした。


――金木犀の葉の話を聞いた。


――花でなくとも、葉が増えることはよい。


――王より。


最後に、小さく書き足しがあった。


――父として書くには、まだ手が震える。


リクは紙を見つめた。


長く。


春風が吹き、金木犀の葉が揺れた。


支柱が小さく鳴る。


リクは追伸の一文を、何度も読んだ。


――父として書くには、まだ手が震える。


彼の口元が少し歪んだ。


泣くのか、怒るのか、笑うのか、自分でもわからない顔だった。


「ずるいな」


リクは言った。


「こんなの、怒りにくい」


セリカが後ろで静かに答えた。


「怒ってもいい」


「知ってる」


「泣いてもいい」


「それも知ってる」


リュミナが言った。


「食べてもいい」


リクは振り返り、少し笑った。


「それも知ってる」


彼は二枚の手紙を持って戻り香の家へ入った。


台所で、手紙は皆に読まれた。


国王の追伸を聞いた時、レインは目を伏せた。


ミナは喉に手を当てた。


リュミナは真剣に言った。


「肉は少ない、は重要な報告だ」


セリカは小さく息を吐いた。


「そこを拾うか」


「味がした、も重要だ」


「それはそうだな」


リクは手紙をたたんだ。


「これ、どこに置く?」


誰もすぐには答えなかった。


日々の棚。


間の棚。


未送信の手紙箱の横。


どこでもあり、どこでも足りない気がした。


リオは言った。


「新しい場所でなくても、複数にまたがっていいと思います」


「また棚を増やすのかと思った」


「今回は増やしません」


セリカが少し安心した顔をした。


リクは考えた。


「アリアンヌの手紙は日々の棚。少し濃いスープの話だから」


「はい」


「王様の紙は……間の棚」


「はい」


「でも、“父として書くには”のところだけ、箱の横」


ミナが微笑んだ。


「とてもいい分け方だと思います」


リクは国王の紙を三つに切るわけにはいかないので、写しを作ることにした。


原本は手紙棚へ。


日々の棚には札。


“少し濃いスープを全部飲んだ王。”


間の棚には札。


“父として書くには、まだ手が震える。”


そして未送信の手紙箱の横には、小さな紙片にリクが書いた。


“手が震えるなら、椀を持て。”


それを見たリュミナが、深く深く頷いた。


「非常に正しい」


セリカも否定しなかった。


その日の昼、戻り香の家でも少し濃いスープが作られた。


豆、根菜、少しの肉、薬草。


リュミナは「王都の回復基準に合わせる」と言いながら肉を増やそうとして、ミナに止められた。


「少し濃い、です」


「かなり濃い方が回復する」


「今日は少しです」


「火加減……」


リュミナは自分で言って、自分で納得した。


リクはそのスープを飲んだ。


「味がする」


そう言ってから、自分で少し笑った。


「王様みたいなこと言った」


レインが言う。


「それも日々の棚ですね」


リクは一瞬嫌そうな顔をしたが、否定しなかった。


新しい小瓶が作られた。


王都の少し濃いスープ。


国王の硬い字。


震える手。


リクの椀。


金木犀の葉。


肉は少ないという報告。


そして、父としてはまだ書けないという正直さ。


ラベルには、


“薄くないスープの日。”


と書かれた。


日々の棚に置かれたその瓶は、他の瓶より少し温かい色に見えた。


夕方、カイルからまた手紙が届いた。


兵舎の馬の名の続報だった。


――煙は風の強い日を嫌います。

――パン耳は人参より干し草が好きです。

――夜鍋の名の由来は、夜中に鍋をひっくり返したからだそうです。

――ユアンは豆を食べませんが、夜鍋も豆を食べません。

――自分は命令前に、馬と兵の両方の顔を見るようにしています。


リュミナは“夜鍋が鍋をひっくり返した”という一文を読んで、目を細めた。


「問題のある馬だ」


リクが笑う。


「お前が言うな」


レインは最後の一文を読んで、小さく頷いた。


「顔を見る。大事ですね」


セリカは言った。


「命令前に顔を見る軍なら、少しはましになる」


ミナは日々の棚に札を置いた。


“命令前に顔を見た日。”


その隣に、リュミナが勝手に札を置いた。


“夜鍋は鍋をひっくり返した。”


セリカはそれを見て、少し悩み、結局そのままにした。


「これも記録か」


「はい」


リオは笑った。


「人ではない名の棚にも写しを置きましょう」


夜になると、ノアが訪れた。


彼女は王都の話を聞くと、炉の前で静かに弦を鳴らした。


“急がない歌”の新しい一節だった。


――薄い日があり、少し濃い日がある。

――父の手は震え、子は椀を見る。

――花はまだない。

――葉は風を受けている。


リクは黙って聞いていた。


歌が終わると、リュミナが言った。


「腹に優しい歌だ」


ノアは笑った。


「今日は濃すぎないようにしました」


「よい火加減だ」


リクは小さく言った。


「父さんの歌じゃないよな」


ノアは頷いた。


「違います。父さんという言葉の前にある、椀の歌です」


リクはそれならいい、という顔をした。


夜更け、リクは未送信の手紙箱の前に座っていた。


箱の中には、アリアンヌの“父上へ”の手紙がある。


そして横には、国王の追伸の写し。


“父として書くには、まだ手が震える。”


リクは箱を開けなかった。


国王へ手紙を書くこともしなかった。


ただ、小さな札を一枚作った。


“まだ返事を書かない。”


それを間の棚に置く。


リオが隣に立つ。


「返事を書かないことも、返事の前の場所ですね」


リクは頷いた。


「うん。でも、読んだ」


「はい」


「味はした」


「はい」


リクは自分の手を見た。


「俺も、父さんって書くには手が震えるかも」


「震えていいと思います」


「じゃあ、今日は書かない」


「はい」


外では金木犀の葉が風に揺れている。


花はまだない。


でも、葉は増えた。


支柱と縄は、まだ支えている。


そして王都では、少し濃いスープを飲み干した王が、父として書くにはまだ震える手を見つめているのかもしれない。


香りは残る。


薄くないスープにも。


まだ書かれない返事にも。


そして、父と子のあいだに置かれた椀が、冷めきる前に少しだけ味を取り戻した日に。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。