第六十三話 薄くないスープの日
王都から返事が来たのは、五日後だった。
封筒にはアリアンヌの字と、もう一つ、見慣れない硬い字が添えられていた。リクはそれを見た瞬間、眉を寄せた。
「誰の字?」
リオは封筒を受け取り、差出人を確認した。
「国王陛下からも、短い追伸があるようです」
リクの手が止まった。
台所の湯気が、少し遠くなる。
リュミナは鍋の蓋を半分開けたまま、珍しく何も言わなかった。ミナは薬草茶をそっとリクの近くへ置き、セリカは白盾を壁に立てかけた。
リクは封筒を握ったまま、金木犀の若木の前へ出た。
葉は増えている。
虫はいない。
支柱と縄は、昨日と同じように木を支えていた。
リクはそこで封を開けた。
まず、アリアンヌの手紙。
――リクへ。
――手紙を読みました。
――“父さんって言った日の札”を置いたことを、父上に伝えるかどうか迷いました。
――勝手に伝えるのは違うと思ったので、そのままは伝えていません。
――ただ、「リクがあなたのスープの話を読みました」とだけ言いました。
――父上はしばらく黙っていました。
――そして今日、少し濃いスープを飲みました。
リクは小さく息を吸った。
読み続ける。
――メリッサが、薄すぎるスープから一歩進めてもいいと判断しました。
――父上は一口飲んで、「味がする」と言いました。
――それから、全部飲みました。
――二杯目はありませんでした。
――私は少し笑いました。
――父上も少しだけ笑いました。
――今日はアリアンヌ。
――王女の服は、椅子の背にかけています。
リクは手紙を下ろした。
「少し濃いスープ」
リオは頷いた。
「はい」
「全部飲んだって」
「はい」
「二杯目はなし」
「はい」
リクは少しだけ笑った。
「それでいいよな」
「はい」
封筒の中には、もう一枚の小さな紙が入っていた。
硬い字。
短い文。
リクは一度だけ目を閉じてから、開いた。
――リクへ。
――スープは、少し濃くなった。
――まだ肉は少ない。
――だが、味はした。
――金木犀の葉の話を聞いた。
――花でなくとも、葉が増えることはよい。
――王より。
最後に、小さく書き足しがあった。
――父として書くには、まだ手が震える。
リクは紙を見つめた。
長く。
春風が吹き、金木犀の葉が揺れた。
支柱が小さく鳴る。
リクは追伸の一文を、何度も読んだ。
――父として書くには、まだ手が震える。
彼の口元が少し歪んだ。
泣くのか、怒るのか、笑うのか、自分でもわからない顔だった。
「ずるいな」
リクは言った。
「こんなの、怒りにくい」
セリカが後ろで静かに答えた。
「怒ってもいい」
「知ってる」
「泣いてもいい」
「それも知ってる」
リュミナが言った。
「食べてもいい」
リクは振り返り、少し笑った。
「それも知ってる」
彼は二枚の手紙を持って戻り香の家へ入った。
台所で、手紙は皆に読まれた。
国王の追伸を聞いた時、レインは目を伏せた。
ミナは喉に手を当てた。
リュミナは真剣に言った。
「肉は少ない、は重要な報告だ」
セリカは小さく息を吐いた。
「そこを拾うか」
「味がした、も重要だ」
「それはそうだな」
リクは手紙をたたんだ。
「これ、どこに置く?」
誰もすぐには答えなかった。
日々の棚。
間の棚。
未送信の手紙箱の横。
どこでもあり、どこでも足りない気がした。
リオは言った。
「新しい場所でなくても、複数にまたがっていいと思います」
「また棚を増やすのかと思った」
「今回は増やしません」
セリカが少し安心した顔をした。
リクは考えた。
「アリアンヌの手紙は日々の棚。少し濃いスープの話だから」
「はい」
「王様の紙は……間の棚」
「はい」
「でも、“父として書くには”のところだけ、箱の横」
ミナが微笑んだ。
「とてもいい分け方だと思います」
リクは国王の紙を三つに切るわけにはいかないので、写しを作ることにした。
原本は手紙棚へ。
日々の棚には札。
“少し濃いスープを全部飲んだ王。”
間の棚には札。
“父として書くには、まだ手が震える。”
そして未送信の手紙箱の横には、小さな紙片にリクが書いた。
“手が震えるなら、椀を持て。”
それを見たリュミナが、深く深く頷いた。
「非常に正しい」
セリカも否定しなかった。
その日の昼、戻り香の家でも少し濃いスープが作られた。
豆、根菜、少しの肉、薬草。
リュミナは「王都の回復基準に合わせる」と言いながら肉を増やそうとして、ミナに止められた。
「少し濃い、です」
「かなり濃い方が回復する」
「今日は少しです」
「火加減……」
リュミナは自分で言って、自分で納得した。
リクはそのスープを飲んだ。
「味がする」
そう言ってから、自分で少し笑った。
「王様みたいなこと言った」
レインが言う。
「それも日々の棚ですね」
リクは一瞬嫌そうな顔をしたが、否定しなかった。
新しい小瓶が作られた。
王都の少し濃いスープ。
国王の硬い字。
震える手。
リクの椀。
金木犀の葉。
肉は少ないという報告。
そして、父としてはまだ書けないという正直さ。
ラベルには、
“薄くないスープの日。”
と書かれた。
日々の棚に置かれたその瓶は、他の瓶より少し温かい色に見えた。
夕方、カイルからまた手紙が届いた。
兵舎の馬の名の続報だった。
――煙は風の強い日を嫌います。
――パン耳は人参より干し草が好きです。
――夜鍋の名の由来は、夜中に鍋をひっくり返したからだそうです。
――ユアンは豆を食べませんが、夜鍋も豆を食べません。
――自分は命令前に、馬と兵の両方の顔を見るようにしています。
リュミナは“夜鍋が鍋をひっくり返した”という一文を読んで、目を細めた。
「問題のある馬だ」
リクが笑う。
「お前が言うな」
レインは最後の一文を読んで、小さく頷いた。
「顔を見る。大事ですね」
セリカは言った。
「命令前に顔を見る軍なら、少しはましになる」
ミナは日々の棚に札を置いた。
“命令前に顔を見た日。”
その隣に、リュミナが勝手に札を置いた。
“夜鍋は鍋をひっくり返した。”
セリカはそれを見て、少し悩み、結局そのままにした。
「これも記録か」
「はい」
リオは笑った。
「人ではない名の棚にも写しを置きましょう」
夜になると、ノアが訪れた。
彼女は王都の話を聞くと、炉の前で静かに弦を鳴らした。
“急がない歌”の新しい一節だった。
――薄い日があり、少し濃い日がある。
――父の手は震え、子は椀を見る。
――花はまだない。
――葉は風を受けている。
リクは黙って聞いていた。
歌が終わると、リュミナが言った。
「腹に優しい歌だ」
ノアは笑った。
「今日は濃すぎないようにしました」
「よい火加減だ」
リクは小さく言った。
「父さんの歌じゃないよな」
ノアは頷いた。
「違います。父さんという言葉の前にある、椀の歌です」
リクはそれならいい、という顔をした。
夜更け、リクは未送信の手紙箱の前に座っていた。
箱の中には、アリアンヌの“父上へ”の手紙がある。
そして横には、国王の追伸の写し。
“父として書くには、まだ手が震える。”
リクは箱を開けなかった。
国王へ手紙を書くこともしなかった。
ただ、小さな札を一枚作った。
“まだ返事を書かない。”
それを間の棚に置く。
リオが隣に立つ。
「返事を書かないことも、返事の前の場所ですね」
リクは頷いた。
「うん。でも、読んだ」
「はい」
「味はした」
「はい」
リクは自分の手を見た。
「俺も、父さんって書くには手が震えるかも」
「震えていいと思います」
「じゃあ、今日は書かない」
「はい」
外では金木犀の葉が風に揺れている。
花はまだない。
でも、葉は増えた。
支柱と縄は、まだ支えている。
そして王都では、少し濃いスープを飲み干した王が、父として書くにはまだ震える手を見つめているのかもしれない。
香りは残る。
薄くないスープにも。
まだ書かれない返事にも。
そして、父と子のあいだに置かれた椀が、冷めきる前に少しだけ味を取り戻した日に。




