第六十一話 父さんという言葉は、椀の縁で冷めない
リクが「父さん」と言った翌朝、戻り香の家はいつもより少し静かだった。
誰もその言葉をからかわなかった。
リュミナでさえ、肉の量については騒いだが、「父さん」については何も言わなかった。ただ、リクの椀にいつもより豆を一つ多く入れた。
リクはそれに気づいた。
「何で豆増やした」
「成長期だ」
「昨日と今日で急に?」
「言葉が増えると腹が減る」
リクはしばらく彼女を見た。
「……まあ、食うけど」
セリカが白盾を磨きながら言った。
「豆一つで済むなら安いものだ」
「何が」
「言葉の重さだ」
リクは少し顔を赤くした。
「昨日のは、勝手に出ただけ」
ミナが薬草茶を置いた。
「勝手に出る言葉も、リクの声です」
リクは椀を見つめる。
「今日は言わないかも」
リオは頷いた。
「はい」
「王様って言うかも」
「はい」
「父さんって言ったからって、何か決まったわけじゃない」
「はい」
リクは少し安心したようにスープを飲んだ。
それでも、椀の縁に残った湯気のように、その言葉は部屋に残っていた。
父さん。
リクの口から初めて自然にこぼれた、王ではない名。
その日の昼、王都から白盾記録院の定期報告が届いた。
国王の体調は回復傾向。
ただし、医師とメリッサの強い進言により、執務時間は半分に制限されることになった。アリアンヌが王女として一部の公務を代行し、エルヴィンは拘束下のまま法的文書の作成を続けている。
灰鷹平原の審理は止まっていない。
ヴォルクは相変わらず多くを認めていないが、第二回審理以降、彼の言葉は少し変わったという。
“私は国を守った。”
それが、
“私は国を守ったつもりだった。”
になった。
たった二文字。
つもり。
戻り香の家の台所で、その報告を読んだ時、皆が黙った。
リクが最初に言った。
「小さいな」
セリカは頷いた。
「だが、小さくない」
レインは報告書を見つめていた。
「つもり……」
ミナが静かに言う。
「断定から、少し離れたんですね」
リュミナが鍋を混ぜながら言った。
「固い豆が少し水を吸った」
セリカが彼女を見る。
「例えは妙だが、合っている」
「当然だ」
レインは少し震える声で言った。
「それで、彼が許されるわけではありません」
「もちろんです」
リオは答えた。
「でも、記録は変化を残します。許しではなく、変化として」
レインは頷いた。
「はい」
その日、間の棚に新しい札が置かれた。
リオが書いた。
“つもり、という二文字。”
その札の下に、セリカが小さく足した。
“免罪ではない。”
リュミナはさらに足そうとした。
“豆は水を吸う。”
セリカは少し迷い、今回は止めなかった。
「変な札だな」
リクが笑う。
「でも、わかる」
レインはその札をしばらく見つめていた。
「私は、ヴォルクに変わってほしいのでしょうか」
誰もすぐには答えなかった。
レイン自身も、答えを求めているようではなかった。
彼は間の棚から小さな木札を取り、自分で書いた。
“変わってほしいのか、裁かれてほしいのか、まだわからない。”
それを棚に置いた。
リュミナが言う。
「間だな」
「はい」
レインは静かに答えた。
午後、アリアンヌからリク宛てに短い手紙が届いた。
――父上はスープを飲みました。
――メリッサが薄めに作ったものです。
――父上は「味が薄い」と言いました。
――メリッサは「命も薄くしたいのですか」と返しました。
――父上は黙って全部飲みました。
――今日はアリアンヌ。
――父上は、少しだけ父上でした。
リクは手紙を読んで、吹き出した。
「メリッサ、強いな」
セリカが感心したように言う。
「王にその返しができる者は貴重だ」
リュミナは真剣に頷いた。
「薄いスープにも役目がある」
リクは手紙の最後をもう一度読んだ。
――父上は、少しだけ父上でした。
彼はしばらくその一文を見つめていた。
「父上って、父さんとは違う?」
リオは少し考えた。
「違う響きですね。でも、近い場所にある言葉だと思います」
リクは頷いた。
「姉さんの言葉だな」
「はい」
「俺は……今日は王様でいい」
「はい」
「でも、スープ飲んだ王様」
ミナが微笑んだ。
「それは少し近いですね」
リクは照れたようにそっぽを向いた。
その手紙から、新しい日々の瓶が生まれた。
“薄いスープを全部飲んだ王。”
リュミナはその名を大いに気に入った。
「王も薄いスープを飲む。よい記録だ」
セリカは棚を見て言った。
「王国史が本当に変な方向へ温かくなっているな」
「温かいのは良いことです」
ミナが答える。
夕方、戻り香の家にカイル・ドーンが再び訪れた。
前より少し落ち着いた顔をしていたが、軍服の袖は硬く握りしめられている。
「戻ってきました」
彼は入口で名乗った。
「カイル・ドーン。王国軍兵士です。英雄ではなく支柱と縄について、もう少し聞きに来ました」
リクが金木犀の前から振り返る。
「変な相談だな」
カイルは苦笑した。
「自分でもそう思います」
彼は戻り香の家に入り、日々の棚と間の棚を見た。
そして、カイル自身が前に置いた札の前で止まった。
“英雄が必要だと思うほど怖かった。”
「まだ怖いです」
彼は言った。
「でも、最近、兵舎で食事の時間に部下の名前を一人ずつ確認するようにしました」
セリカが眉を上げる。
「部下がいるのか」
「少人数ですが」
「反応は?」
「最初は変な顔をされました。でも、食べている時の名前は覚えやすいです」
リュミナが深く頷く。
「正しい」
カイルは続けた。
「一人、豆が嫌いな兵がいます。名前はユアンです。彼は豆を皿の端に寄せます」
リュミナの顔が深刻になる。
「重大だ」
「でも、芋は好きです」
「ならよい」
リクが笑った。
「軍の話なのに豆と芋になってる」
カイルは少し笑い、それから真面目な顔に戻った。
「でも、名前を覚えると、命令を出すのが少し怖くなりました」
セリカは頷いた。
「それでいい」
「いいのですか」
「怖くなく命令を出す者より、怖さを知って出す者の方がましだ。ただし、怖さで止まるな。だから支柱がいる」
カイルは深く息を吐いた。
「はい」
彼は新しい札を書いた。
“豆が嫌いなユアンを覚えた。”
それを日々の棚に置くか、間の棚に置くか迷った。
リクが言った。
「日々の棚じゃね?」
カイルは驚く。
「こんなことが?」
「豆が嫌いなのは日々だろ」
リュミナが真剣に言った。
「ただし重要な日々だ」
札は日々の棚へ置かれた。
“豆が嫌いなユアンを覚えた。”
その隣に、“薄いスープを全部飲んだ王。”
リオは棚を見て、奇妙な感慨を覚えた。
王も兵も、豆とスープの横で少し人になる。
名だけでは寒い。
肩書きだけでも寒い。
食べ物の好み、弱さ、薄いスープへの不満、豆を避ける癖。
そういうものが、記録に体温を戻す。
夜、カイルはレインと少し話した。
「レインさん」
「はい」
「自分はまだ、あなたのことをどう見ればいいかわかりません」
「はい」
「でも、今日、あなたが灰星の額飾りを棚に置いた話を聞きました」
「はい」
「自分も、兵舎の馬の名前を覚えようと思います」
レインは静かに微笑んだ。
「それは、よいことだと思います」
「馬は、道を知ることがありますか」
「あります」
レインの声は確かだった。
「人より先に、危ない道を知ることがあります」
カイルは頷いた。
「覚えます」
その会話から、リオは小瓶を作った。
“兵舎の馬の名を覚える日。”
それも日々の棚へ置かれた。
春の夜は、まだ少し冷える。
戻り香の家では、鍋がゆっくり煮えていた。
未送信の手紙箱の横には、葉っぱの瓶。
間の棚には、つもりという二文字。
日々の棚には、薄いスープを飲んだ王と、豆が嫌いな兵の名。
人ではない名の棚には、灰星の額飾りと鳴らない木馬の鈴。
リクは眠る前、棚を見回して言った。
「変な家だな」
リオは笑った。
「はい」
「でも、父さんって言ったのも、ここなら置ける気がする」
「置きますか」
リクは少し考えた。
「今日は、まだいい」
「はい」
「でも、消えなくていい」
「はい」
「椀の縁で冷めない感じ」
リオはその表現に胸を打たれた。
「いい言葉ですね」
リクは慌てて言った。
「瓶にするなよ」
「後でなら?」
リクは少し睨み、それから小さく笑った。
「後でなら」
その夜、リオはまだ瓶を作らなかった。
言葉は、時々すぐに瓶へ入れない方がいい。
椀の縁で冷めずに残る温かさを、もう少しそのままにしておく。
香りは残る。
薄いスープにも。
豆を避ける兵にも。
つもりという二文字にも。
そして、まだ棚に置くか決めていない“父さん”という言葉が、リクの胸の中で冷めずにいる夜にも。




