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追放された宮廷調香師は、辺境の村で竜の眠りを解く――香りだけで呪いも戦争も終わらせます  作者: たむ


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第六十話 鍵を持つ手は、時々ふさがる

アリアンヌが未送信の手紙を預けてから、リクは箱を意識しすぎるようになった。


台所でスープを飲んでいても、調香室の方を見る。


金木犀の虫を見ていても、ふと戻り香の家の中へ視線を向ける。


誰も箱を開けない。


鍵もない。


蓋には大きく“勝手に読むな”と書いてある。


それでも、そこに“リオンへ”と書かれた手紙が入っていると思うと、胸の奥が落ち着かなかった。


「気になるなら、場所を変えるか」


セリカが言った。


リクは首を横に振る。


「遠くにある方が嫌だ」


「なら、布をかけるか」


「隠すのも嫌だ」


「面倒だな」


「知ってる」


リクは不機嫌そうに答えたが、セリカの声は責めていなかった。


ミナが薬草茶を置く。


「箱の近くに、日々の棚の小瓶を置きましょうか」


「何で?」


「重いものの近くに、小さな日々があると少し息がしやすいことがあります」


リクは少し考えた。


「葉っぱの瓶?」


「はい」


“葉が増えた。”


“虫が来た。”


“返事が来た。”


“木っぽくなってきた。”


リクは頷いた。


「それならいい」


未送信の手紙箱の隣に、日々の小瓶が三つ置かれた。


リュミナはそれを見て言った。


「箱にも付け合わせが必要だ」


「料理みたいに言うな」


リクが返す。


「重いものには軽いものを添える」


セリカが腕を組んだ。


「また正しいことを言う」


「私はいつも正しい」


「それは違う」


その日から、箱の横には葉っぱの香りがあった。


金木犀の若葉。


虫が来た朝。


返事が来た安堵。


未送信の重さは消えなかったが、その隣で日々の香りが小さく息をしていると、リクは少しだけ箱を見られるようになった。


数日後、王都から急ぎの手紙が届いた。


差出人はアリアンヌ。


封筒の角が少し折れ、文字もいつもより乱れていた。


リクはそれを見て、すぐに開けようとした。


だが手が止まった。


「読む」


誰にともなく言ってから、封を切った。


――リクへ。


――父上が倒れました。


部屋の空気が止まった。


リクは手紙を握りしめる。


リオがそっと近づいた。


「続けて読めますか」


リクは頷いた。


――命に関わるものではないと医師は言っています。過労と、灰鷹平原の件での心労が重なったそうです。


――でも、私は怖くなりました。


――父上に未送信の手紙を書いたばかりなのに、まだ預けたままで、読ませるつもりもなかったのに、急に“読ませないまま失うかもしれない”と思いました。


――でも、今読ませることも違う気がします。


――私は鍵を持っているつもりでした。


――でも今、手がふさがって、鍵を落としそうです。


リクは息を詰めた。


アリアンヌの言葉が、部屋に重く落ちる。


鍵を持つ手がふさがる。


王女としての仕事。


娘としての恐怖。


父への怒り。


父を失うかもしれない不安。


未送信の手紙。


すべてを同時に持てない。


手紙は続いた。


――戻り香の家へ行きたいです。


――でも今は王都を離れられません。


――リクに何かしてほしいわけではありません。


――ただ、金木犀の葉のことを教えてください。


――今日はアリアンヌ。


――王女の服は脱げません。


リクは手紙を下ろした。


しばらく何も言わなかった。


リュミナも黙っていた。


ミナはそっと声守草の薬湯を用意する。


レインは目を伏せている。父に宛てた未送信の手紙を持つ苦しさは、彼にも少しわかるのだろう。


セリカが静かに言った。


「返事を書くか」


リクは頷いた。


「書く」


「今すぐでなくてもいい」


「今書く」


彼は金木犀の前へ行った。


葉は風に揺れていた。


虫はいなかった。


支柱は立っている。


縄は少し緩められているが、まだ枝を支えている。


リクはその前にしゃがみ、しばらく見た。


それから戻って、手紙を書いた。


――姉さんへ。


――金木犀の葉は増えてる。

――今日は虫はいない。

――風はある。

――支柱は立ってる。

――縄はきつすぎない。

――葉っぱは葉っぱだけど、見てると少し落ち着く。


そこで筆が止まった。


リクはしばらく考えた。


――手がふさがるなら、鍵を置いとけばいい。

――なくすなって言ったけど、ずっと持ってなくてもいい。

――箱の横に置くとか、誰かに見張ってもらうとか。

――読ませるかどうかは、今決めなくていい。

――父さんが倒れたのは怖いと思う。

――俺も、ちょっと怖い。

――でも、怖いからってすぐ読むのも、すぐ捨てるのも違うと思う。

――今日はリク。

――椀を置いとく。


リクは手紙を読み返し、最後の一行に少し迷った。


「椀、変かな」


リュミナが真剣に言う。


「変ではない」


ミナも頷く。


「きっと届きます」


リクは封をした。


その手紙には、金木犀の若葉の香りと、少しだけ“箱を開けない日にも、鍵はなくさない”の香りを移した。


王都へ早馬が出された。


その日の午後、戻り香の家には落ち着かない時間が流れた。


国王が倒れた。


命に関わらないとはいえ、王都は揺れるだろう。灰鷹平原の審理、白盾記録院、北西の遺族、軍の反発、アリアンヌの治療、エルヴィンの拘束。すべてが国王の上に乗っていた。


その支柱が一時的に傾いたのだ。


セリカは白盾を見つめていた。


「王が倒れると、国は自分の足を試される」


リオは頷く。


「白盾記録院も、ですね」


「そうだ。王の意思だけで動いていたなら止まる。制度として根を持っているなら、続く」


リクが言った。


「金木犀みたいに?」


セリカは少し笑った。


「そうだな。支柱が揺れた時、根があるかどうかだ」


リュミナが言う。


「根にも栄養」


「今は政治の話だ」


「政治にも栄養」


「……否定できないのが困る」


その夜、リオは新しい小瓶を作った。


倒れた王。


揺れる王都。


未送信の父への手紙。


鍵を持つ手がふさがる恐怖。


金木犀の葉。


きつすぎない縄。


リクの「椀を置いとく」。


ラベルには、


“鍵を持つ手は、時々ふさがる。”


と書いた。


その瓶は、未送信の手紙箱の横に置かれた。


“箱を開けない日にも、鍵はなくさない。”


その隣に。


二つは対になっていた。


鍵をなくさないこと。


でも、ずっと握りしめていなくてもいいこと。


翌日、王都から返事はまだ来なかった。


リクは落ち着かなかったが、前回より少しだけ待てた。


日々の棚に新しい札を書いた。


“返事を待っているけど、今日は葉を見た。”


それを置くと、少し息がしやすくなった。


レインはその札を見て、自分も一枚書いた。


“裁きの返事を待っているけど、今日は粥を食べた。”


ミナは、


“グラントの記録を読まない日にも、薬草は育つ。”


セリカは珍しく自分で札を書いた。


“王が倒れても、盾を磨く。”


リュミナは、


“鍋は煮える。”


リクが見て言った。


「短すぎない?」


「十分だ」


リュミナは胸を張った。


「真理は短い」


三日後、アリアンヌから返事が来た。


――リクへ。


――手紙をありがとう。


――父上は起き上がれるようになりました。


――まだ執務は制限されています。


――あなたの手紙を読んで、私は未送信の父上への手紙を読ませませんでした。


――でも、箱の中にあると知っているだけで少し落ち着きました。


――鍵は、今は箱の横に置いておきます。


――なくしていません。


――金木犀の葉のことをありがとう。


――今日はアリアンヌ。


――王女の服は少し椅子にかけました。


リクは手紙を読んで、長く息を吐いた。


「起きたって」


「よかったですね」


リオが言うと、リクは頷いた。


「父さん、か」


その言葉は小さかった。


リオは何も言わなかった。


リク自身も、その言葉に少し驚いているようだった。


王ではなく、父さん。


それはリクの口から自然にこぼれた。


すぐに言い直しはしなかった。


ただ、金木犀の方を見た。


「今日だけかも」


「はい」


「次は王様って言うかも」


「はい」


「でも、今は父さんって出た」


「はい」


リクは少し赤くなった。


「瓶にするなよ」


リオは少し笑った。


「今日はしません」


「今日は?」


「本人の許可がある時に」


リクはしばらく考え、言った。


「後でならいい」


その夜、戻り香の家の棚に新しい小瓶が増えた。


“鍵は箱の横に置いてある。”


それは、アリアンヌの返事の香りだった。


父へ宛てた未送信の手紙を読ませないまま、それでもなくさなかった鍵。


そして、リクの口からこぼれた“父さん”の小さな響き。


香りは残る。


握れない鍵にも。


箱の横に置いた決断にも。


そして、手がふさがっても大事なものをなくさないために、誰かへ葉っぱの報告を求めた夜にも。

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