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追放された宮廷調香師は、辺境の村で竜の眠りを解く――香りだけで呪いも戦争も終わらせます  作者: たむ


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第五十九話 箱を開けない日にも、鍵はなくさない

アリアンヌが未送信の手紙を持って来たのは、金木犀に二匹目の虫が来た日の午後だった。


リクはその虫を見つけて、最初は少し嫌そうな顔をした。


「また来た」


ミナは葉の裏を確認し、微笑んだ。


「大丈夫です。この虫も害はありません」


「虫がいるってことは、木っぽい?」


「はい。とても木っぽいです」


リクは少し満足そうに頷いた。


「姉さんに書く」


そう言った直後、村の入口に王都の馬車が見えた。


リクは手紙を書く前に外へ出た。


アリアンヌは泥のついた外套で降りてきた。今回も王女の礼装ではない。旅用の服、歩きやすい靴、そして胸に小さな革の鞄を抱えている。


村の標柱の前で、彼女は名乗った。


「アリアンヌ・リュゼ・ヴァルクスです。未送信の手紙を預けに来ました。リクに会うことも、手紙で許可をもらいました」


セリカが頷いた。


「入れ」


リュミナが問う。


「肉は?」


アリアンヌは少し笑った。


「今日は干し肉と、王都の料理人が作った焦げ豆の試作品です」


リュミナの目が鋭くなる。


「焦げ具合は?」


「三段階あるそうです」


「入れ。すぐ入れ」


「お前が決めるな」


リクは呆れながらも、アリアンヌの鞄を見ていた。


「それ?」


アリアンヌは頷いた。


「うん。未送信の手紙」


「何通?」


「四通」


リクは少し息を呑んだ。


アリアンヌは急いで続ける。


「全部読んでほしいわけではありません。むしろ、今日は読まないでほしい。ただ、持っているのが重くなってきて」


「じゃあ、箱だな」


「うん」


「勝手に読まない」


「うん」


「うんばっかり」


「はい」


戻り香の家の台所で、アリアンヌは鞄から四通の手紙を取り出した。


一通目。


“母上へ。”


二通目。


“リオンへ。”


三通目。


“リクへ。”


四通目。


“父上へ。”


リクは二通目と三通目を見て、少し肩を強張らせた。


リオは香炉に“冬を覚える”をほんの一滴落とした。


急がないために。


アリアンヌは手紙を一通ずつ両手で持ち、未送信の手紙箱の前に立った。


「母上への手紙は、王妃の部屋で書いたものです。何度も書き直しました。謝りたいことと、怒りたいことが混ざっています」


彼女は箱へ入れた。


かさり。


「リオンへの手紙は、リクに会う前に書いたものです。だから、今のリクには読ませたくない部分があります」


リクは黙っていた。


アリアンヌは彼を見る。


「捨ててもいいのかもしれない。でも、あの時の私は本当にリオンを探していた。だから、消すのも違う気がして」


リクは小さく言った。


「箱でいい」


アリアンヌの目が潤む。


「ありがとう」


二通目も箱へ入る。


かさり。


「リクへの手紙は、あなたに会った後のものです。でも、謝りすぎていて、たぶん読ませると困らせると思った」


リクは少し顔をしかめた。


「謝りすぎは困る」


「うん。だから、まだ送らない」


三通目。


かさり。


「父上への手紙は……まだ、私が持っていてもいいか迷った。でも、ここに少し預けたい」


セリカが尋ねた。


「王に読ませるつもりは?」


「今はありません」


「なら、そう記録する」


四通目。


かさり。


未送信の手紙箱は、少し重くなった。


けれど、部屋の空気は少し軽くなった。


アリアンヌは箱の前で深く息を吐いた。


「持っていないのに、なくなったわけではないんですね」


ミナが頷く。


「はい。預けるというのは、そういうことかもしれません」


リュミナが真剣に言った。


「鍋を火から下ろすのに似ている」


リクが振り返る。


「何で?」


「煮えすぎる前に置く。冷めたらまた火にかけてもいい」


セリカが腕を組んだ。


「今回も正しい」


リュミナは誇らしげに胸を張った。


「私は正しい」


「毎回ではない」


その日の昼、王都の焦げ豆試作品が出された。


三段階。


一つ目は軽い焦げ。


二つ目はしっかり焦げ。


三つ目はかなり焦げ。


リュミナはすべて真剣に味見した。


「一つ目は上品すぎる。二つ目はよい。三つ目は記録としては強いが食事としては危うい」


アリアンヌが真面目に頷く。


「料理人に伝えます」


リクが笑った。


「王都、どこへ向かってるんだよ」


レインは二つ目の焦げ豆を食べて、目を細めた。


「ユーロさんの焦げ具合に近い気がします」


皆が彼を見る。


レインは少し戸惑いながら続けた。


「灰鷹平原で、よく焦げた豆を食べました。苦いけれど、寒い夜には温かかった」


リオはその香りを取った。


王都の料理人が再現した焦げ豆。


レインの記憶。


リュミナの評価。


ユーロの名。


ラベルは、


“二段階目の焦げ。”


リクが言った。


「これも日々の棚?」


「間の棚と日々の棚の間かもしれません」


ミナが答える。


セリカがため息をついた。


「また棚が増えそうな言い方をするな」


午後、アリアンヌは人ではない名の棚の前に立った。


“鳴らない木馬の鈴。”


その隣に置かれた“切ったけど捨てない枝”。


そして、少し離れたところに灰星の額飾り。


彼女は棚を見つめながら言った。


「王城にも、物が多すぎます」


「王城だからでしょう」


リオが言うと、アリアンヌは苦く笑った。


「そうではなく、名前を待っている物が多すぎるのです。母上の櫛、霊廟の灯台具、エルヴィンが幼い頃に壊した銀の駒、父上が使わなくなった古い杯」


リクが少し興味を示した。


「エルヴィン、駒壊したの?」


「うん。負けて悔しくて」


「王子っぽくないな」


「幼い頃は、よく怒っていました」


「今も怒る?」


アリアンヌは少し考えた。


「今は、長い文章を書く」


リクは笑った。


「それも怒ってるのかもな」


人ではない名の棚の前で、アリアンヌは小さな鈴に触れなかった。


ただ見た。


「今日は見ただけにします」


リクは頷いた。


「見ただけでもいい」


「うん」


「はい」


「はい」


夕方、アリアンヌが帰る前に、金木犀を見に行った。


虫はまだ葉にいた。


アリアンヌは驚いた。


「虫」


「害はないやつ」


リクは少し得意そうに言う。


「木っぽくなってきた」


アリアンヌは笑った。


「木っぽい」


「姉さん、王城にも虫いる?」


「います。温室に」


「王女の服にも?」


「それは困る」


リクは笑った。


それから、少し真面目な顔になった。


「手紙、箱に入れて楽になった?」


アリアンヌは金木犀を見ながら答えた。


「少し」


「全部じゃない?」


「うん」


「なら、少しでいいか」


「うん。はい」


リクは頷いた。


「鍵、なくすなよ」


「箱に鍵はないでしょう?」


「でも、読むかどうか決める鍵はあるだろ」


アリアンヌは目を見開いた。


リクは照れたように顔をそらした。


「何か、そういうやつ」


リオはその言葉を静かに受け取った。


箱には鍵がない。


でも、開けるための見えない鍵はある。


本人の準備。


相手との距離。


時間。


食事。


信頼。


そして、読まないと決める権利。


アリアンヌは小さく頷いた。


「なくさないようにします」


その日の新しい小瓶は、アリアンヌが名づけた。


未送信の四通。


箱へ入る音。


焦げ豆の二段階目。


虫のいる金木犀。


リクの“鍵、なくすなよ”。


ラベルには、


“箱を開けない日にも、鍵はなくさない。”


と書かれた。


その瓶は、未送信の手紙箱の隣に置かれた。


王都へ帰る馬車を見送りながら、リクは少し黙っていた。


「怖かった?」


リオが尋ねると、リクは頷いた。


「リオンへの手紙、箱に入った時」


「はい」


「でも、読まないって決められたから、ちょっと大丈夫だった」


「それが鍵ですね」


リクは金木犀を見た。


葉が風で揺れ、虫が一匹、裏側へ移動した。


「いつか読むかも」


「はい」


「読まないかも」


「はい」


「どっちでも、箱にある」


「はい」


リクは深く息を吐いた。


「じゃあ、今日は読まない」


「はい」


夜、戻り香の家では鍋が煮えていた。


未送信の手紙箱は、棚の下で静かに重さを増している。


中には、送られなかった言葉たち。


母へ。


弟へ。


姉へ。


父へ。


罪を犯した者へ。


許せない相手へ。


散り散りになった一座へ。


返事を待つ者へ。


それらはまだ読まれない。


けれど、燃やされてもいない。


忘れられてもいない。


箱の中で、紙は静かに息をしている。


香りは残る。


開けない日にも。


読まない権利にも。


そして、いつか開けるかもしれない未来のために、見えない鍵をなくさず持っている手の中にも。

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