第五十八話 未送信の手紙は、棚で息をする
リクの未送信の手紙は、間の棚に残された。
“返事が来た”の小瓶は日々の棚へ移されたが、送らなかった手紙そのものは、動かさなかった。
リクがそう決めた。
「これは、待ってた時の俺だから」
彼は少し照れたように言った。
「返事が来たからって、なかったことにするのも変だろ」
ミナは頷いた。
「はい。待っている時の声も、声です」
リクは間の棚を見た。
そこには、まだ宙ぶらりんな言葉たちが並んでいる。
“会いたいかどうか、わからない。”
“怒りが少し薄くなったのが怖い。”
“英雄が必要だと思うほど怖かった。”
“許していないけれど、声が震えなかった。”
“返事を待っている。”
そして、リクの未送信の手紙。
送られなかった言葉は、相手に届かなかった。
でも、消えたわけではない。
棚で息をしていた。
それ以来、戻り香の家には“未送信の手紙箱”が置かれるようになった。
箱を作ったのは鍛冶屋だった。
木製で、蓋には小さな溝があり、手紙を差し込める。鍵はない。ただし蓋の内側に、リクが大きく書いた。
“勝手に読むな。”
その下に、ミナが丁寧に足した。
“本人が望むまで、開けません。”
リュミナはさらに書こうとした。
“食べ物ではない。”
セリカが止めた。
「もう十分だ」
「紙は食べないが、念のため」
「お前以外には不要だ」
未送信の手紙箱に最初に入れたのは、リクだった。
アリアンヌへの手紙。
返事が来ない不安を書いた、送らなかった紙。
彼は箱に入れる前に、少しだけ読み返した。
「変な字」
「焦って書いたからでしょう」
リオが言うと、リクは頷いた。
「焦ってた」
「それも残ります」
「うん」
手紙は箱に入った。
かさり、と小さな音がした。
その音を、リオは小瓶にした。
“未送信の手紙が箱に入る音。”
リュミナが覗き込む。
「音も瓶にするのか」
「香りとして残ります」
「では、鍋の煮える音も」
「もう何度も残っています」
「よい」
次に未送信の手紙箱を使ったのは、レインだった。
彼はリディアへ手紙を書いていた。
灰星のこと。
額飾りを見つけたこと。
干し林檎を置いたこと。
オーウェン隊長が灰星を「人間より道を知っている」と言ったこと。
そして、自分がまだ直接謝る資格がないと思っていること。
書き終えた手紙を、彼は三日持っていた。
送るかどうか迷い、何度も封をしようとして、やめた。
最終的に、彼は戻り香の家の台所で言った。
「これは、まだ送らない手紙です」
セリカが頷く。
「なら箱だ」
レインは手紙を箱へ入れた。
「いつか送るかもしれません」
「送らないかもしれません」
ミナが言った。
レインは静かに頷く。
「はい」
「それでいいと思います」
リュミナが真剣に言う。
「熟成する手紙もある」
リクが顔をしかめる。
「食べ物みたいに言うなよ」
「言葉も寝かせる」
セリカが少し驚いたようにリュミナを見た。
「今日もまともだな」
「私はいつも」
「続けるな」
未送信の手紙箱には、少しずつ紙が増えた。
ミナは、グラントへ宛てた手紙を書いた。
そこには、ただ一行だけ。
“私はまだ、あなたに会いたくありません。”
彼女はそれを読んでから、声が震えなかった。
それでも送らなかった。
箱に入れた。
「送らないのに、書く意味があるんですね」
彼女は小さく言った。
リオは頷いた。
「あります」
「相手に届かなくても?」
「まず、自分に届くことがあります」
ミナは手紙箱を見つめた。
「そうですね」
ノアも一通入れた。
宛先は、今はもう散り散りになった旅芸人の一座。
“私はノアです。エリナもいます。二つの岸で歌っています。”
彼女は笑って言った。
「これは、いつか歌にして送るかもしれません」
リクが言う。
「手紙なのに歌?」
「歌になる手紙もあります」
「変なの」
「戻り香の家ほどではありません」
リクは少し考え、否定しなかった。
春は進んだ。
金木犀の若葉は、だんだん濃くなった。
もう毎日大騒ぎするほどではない。リクも、葉が増えるたびに手紙を書くことはなくなった。代わりに、三日に一度、まとめてアリアンヌへ報告した。
――葉は元気。
――支柱も元気。
――縄は少し緩めた。
――未送信の手紙箱ができた。
――俺のも入れた。
――今日はリク。
アリアンヌからの返事には、こうあった。
――王城にも、未送信の手紙がたくさんあると思います。
――私にもあります。
――母上へ書いたもの。リオンへ書いたもの。リクへ書き直したもの。父上へ出せなかったもの。
――戻り香の家の箱のことを聞いて、少し楽になりました。
――いつか、私も一通預けてもいいですか。
――今日はアリアンヌ。
リクは手紙を読んで、少し固まった。
「姉さんの手紙、いっぱいあるのか」
リオは静かに頷く。
「あるでしょうね」
「俺宛ても?」
「たぶん」
リクはしばらく考えた。
「預けてもいいって書いて」
「はい」
「でも、勝手に読まないって」
「もちろん」
リクは自分で返事を書いた。
――預けてもいい。
――読むかどうかは、その時決める。
――勝手に読まない。
――箱にも書いてある。
――今日はリク。
その返事を出すと、リクは少し落ち着かない様子になった。
未送信の手紙箱を見に行き、蓋の文字を確かめる。
“勝手に読むな。”
彼はその文字を指でなぞった。
「大事だな」
「はい」
リオは隣に立った。
「読む準備ができる前に読まれる言葉は、傷になります」
リクは頷いた。
「王妃の手紙も、そうだったし」
「はい」
「でも、箱にあるって知るのは、ちょっと安心する」
「それが未送信の手紙箱かもしれません」
その日の午後、王都から白盾記録院の記録官エダが訪れた。
彼女は戻り香の家の未送信の手紙箱を見て、目を輝かせた。
「これも制度化できます」
リクは即座に言った。
「勝手に大きくするな」
エダははっとして頭を下げた。
「すみません」
セリカが腕を組む。
「だが、必要な場面はあるだろう」
エダは慎重に頷いた。
「はい。証言者や遺族が、相手に送れない言葉を抱え込むことがあります。記録院では、それを正式証言にするか、破棄するかの二択になりがちです。でも、その間が必要なのかもしれません」
ミナが言った。
「本人が望まない限り、開けないこと。預ける期間を決めても、決めなくてもいいこと。取り戻せること。燃やすことも選べること。それが必要だと思います」
エダは必死に書き取った。
リュミナが言う。
「保管場所には湿気対策が必要だ」
全員が彼女を見る。
「紙は湿気に弱い」
セリカが驚く。
「本当に正しい」
リュミナは胸を張った。
「私は物の保存に詳しい」
リクが小声で言う。
「保存食のせいだろ」
その後、白盾記録院へ送るための“未送信の手紙箱の扱い”がまとめられた。
リオは香りの注意を書いた。
ミナは同意と保管の規則を書いた。
セリカは管理責任を書いた。
リュミナは湿気と食事休憩を書いた。
リクは最後に一文足した。
“箱は、返事の代わりではない。”
エダはその一文を見て、深く頷いた。
「とても大事です」
「また王都で変なふうに使うなよ」
「気をつけます」
エダが帰った後、リクは少し疲れたように椅子へ座った。
「棚とか箱とか、増えすぎじゃない?」
リオは戻り香の家を見回した。
香りの棚。
人ではない名の棚。
日々の棚。
間の棚。
未送信の手紙箱。
鍋。
木札。
金木犀。
確かに増えた。
けれど、どれも誰かが必要として生まれた。
「家が育っているんでしょう」
リオは言った。
リュミナが鍋を混ぜながら頷く。
「家は育つ。鍋も育つ」
「鍋は育つのか?」
リクが聞く。
「味が育つ」
「それはちょっとわかる」
その夜、未送信の手紙箱の前で、レインがリオへ話しかけた。
「手紙を入れた後、少し夢が変わりました」
「どう変わりましたか」
「灰鷹平原で、私はリディアさんへ手紙を渡そうとしていました。でも渡せない。すると、オーウェン隊長が箱を持ってきました。“今はそこへ入れろ”と」
レインは少し笑った。
「夢の中の隊長まで、戻り香の家に影響されています」
リオは微笑んだ。
「それはいい夢ですか」
「怖かったです。でも、起きた時に息ができました」
「なら、日々の棚ですね」
レインは頷き、小さな札を書いた。
“怖い夢だったけど、箱があった。”
それは日々の棚へ置かれた。
翌朝、金木犀の枝に小さな虫がいた。
リクは一瞬慌てたが、ミナが「害はありません」と言ったので、追い払わなかった。
「虫も来るんだな」
「生きている木ですから」
「そっか」
彼はアリアンヌへの手紙に書いた。
――虫が来た。
――害はないらしい。
――金木犀が木っぽくなってきた。
――未送信の手紙箱は、まだ勝手に読まれてない。
――今日はリク。
リオはその文を見て、静かに笑った。
木っぽくなってきた。
それは、すばらしい日々の報告だった。
花はまだない。
けれど、葉が増え、風を受け、虫が来る。
木は、少しずつ木になる。
人も、少しずつ自分になる。
送らない手紙を書き、箱に入れ、返事を待ち、時々読まずに置く。
それらもすべて、戻る道の一部だ。
香りは残る。
未送信の紙にも。
箱の中の静けさにも。
そして、まだ誰にも届かない言葉が、自分自身へようやく届き始める小さな音にも。




