第五十七話 返事を待っているあいだにも、鍋は煮える
アリアンヌからの返事は、六日遅れた。
それだけのことだった。
春の街道はぬかるむ。王都では抗議が続いている。灰鷹平原の審理も、ヴォルクの発言も、白盾記録院の制度改定も、王女である彼女の机へ次々と積まれているだろう。
だから、六日くらい遅れても不思議ではない。
けれど、リクは落ち着かなかった。
朝になると金木犀を見に行き、昼になると村の入口まで行き、夕方になると戻り香の家の木札の下で腕を組んだ。
「まだ?」
「まだです」
ミナが答える。
「手紙って遅れるんだな」
「遅れます」
「わかってる」
「でも気になる」
「……うん」
リュミナは鍋の番をしながら言った。
「返事を待つ者には食事が必要だ」
「何でもそこに戻すな」
「待つには体力がいる」
「それはそう」
リクは不満そうにしながらも、出されたスープは食べた。
間の棚には、リオが作った札が掛かっていた。
“返事を待っている。”
リクはその札を見て、少しだけむっとした。
「これ、俺のこと?」
「リクさんだけではありません」
リオは答えた。
「誰かの返事を待っている人は多いです」
「例えば?」
「レインさんは、リディアさんが灰星の話を次に聞くかどうかの返事を待っています。ミナさんは、グラントの証言記録を次に読むかどうか、自分の中の返事を待っています。セリカさんは、白盾の裏の名をどこまで王都へ渡すか、まだ決めきっていません」
リクは棚を見た。
「みんな待ってるのか」
「はい」
「じゃあ、俺だけじゃないな」
「はい」
リュミナが横から言う。
「私は鍋が煮えるのを待っている」
セリカが即座に言った。
「お前の待ちは浅い」
「しかし切実だ」
レインは笑った。
待っている。
その状態は、意外と難しい。
何もしていないようで、胸の中はずっと動いている。悪い想像が膨らみ、相手が怒っているのか、忘れたのか、病気なのか、もう返したくないのかと考えてしまう。
リクは夜、日々の棚に小さな札を置いた。
“待っているだけなのに疲れた。”
ミナがそれを見て頷いた。
「とても大事な葉っぱです」
「葉っぱなのか?」
「はい。少し風の強い葉っぱです」
リクは照れたように頷いた。
翌日、白盾記録院から別の便が届いた。
アリアンヌの手紙ではない。
エルヴィンからの書簡と、王都の間の棚の写しだった。
王都でも、“返事を待っている”という札が使われ始めたらしい。
灰鷹平原の遺族が、国の正式訂正文を待っている。
軍の若い兵士たちが、自分たちの不安へ上層部がどう応えるか待っている。
ヴォルクが名を言うかどうか、記録官たちが待っている。
そして、ヴォルク自身の間の棚にも、一枚だけ札が置かれたという。
本人が書いたものではない。
審理中、記録官が彼の発言を受けて仮に置いた札。
“私は、何を守っていたのか。”
リオがそれを読んだ時、戻り香の家は静かになった。
ヴォルクが本当にそう問うたのではない。
彼は相変わらず「国のため」と言い続けている。
けれど、その言葉の下にある揺れを、記録官が間の棚に置いたのだ。
セリカは長く黙った。
「記録官が、勝手に答えを作ってはいけない」
「はい」
リオは頷く。
「でも、問いの形を仮に置くことはできます」
「危ういな」
「はい。だから、本人へ確認する日が必要です」
ミナが言った。
「間の棚は、置きっぱなしにしない」
「火加減だ」
リュミナが言う。
今回は、誰も笑わなかった。
レインはその札を見つめていた。
「ヴォルクが、それを本当に問える日が来るのでしょうか」
セリカは答えた。
「わからん」
「来てほしいですか」
セリカは少し考えた。
「裁きのためには、来た方がいい。だが、お前がそれを望む義務はない」
レインは頷いた。
「私は……まだ、わかりません」
「間の棚だな」
リクが言う。
レインは小さく笑った。
「はい」
リクの待つ日々は続いた。
三日目には、金木犀の葉がまた一枚増えた。
それでも手紙は来なかった。
四日目には、リクは手紙を書いた。
送るためではなく、間の棚に置くために。
――返事が来ない。
――怒ってるわけじゃないと思う。
――忙しいんだと思う。
――でも、ちょっと嫌な感じがする。
――今日はリク。
――これは送らない。
その紙を、彼は間の棚に置いた。
リオは香りにしなかった。
置くだけで十分なものもある。
五日目、ノアが来た。
彼女は“急がない歌”に新しい短い節を加えた。
――返事のない道に、足音を置くな。
――風が遅れているだけの日もある。
――鍋の湯気は、先に帰ってくる。
リクは聞き終えると、首を傾げた。
「鍋の湯気って帰るのか?」
ノアは笑う。
「リュミナ様の影響です」
リュミナは満足そうに頷いた。
「よい影響だ」
六日目の朝、アリアンヌの手紙が届いた。
リクは受け取ると、すぐには開けなかった。
金木犀の前へ持っていく。
葉は風に揺れていた。
支柱と縄が、きしみながら支えている。
リクは封を開けた。
手紙には、泥の匂いと、王都の紙の匂いと、かすかな金木犀の若葉の香りがついていた。
――リクへ。
――返事が遅れてごめんなさい。
リクはそこで小さく息を吐いた。
読み進める。
――王都で抗議が続き、灰鷹平原の件で毎日会議がありました。
――でも、本当はそれだけではありません。
――あなたの「焦げ豆が王国の記録に入った」という手紙を読んで、しばらく返事が書けませんでした。
――おかしいと思ったのではありません。
――むしろ、泣きそうになりました。
――王国は、焦げ豆のようなものをずっと捨ててきました。役に立つ物語、立派な死、王家に都合のいい記録だけを残してきました。
――でも、焦げ豆が記録に入ったなら、私たちは少し変われるのかもしれないと思いました。
――それが怖くて、返事が遅れました。
リクは手紙を握りしめた。
アリアンヌの文字は続く。
――金木犀の葉が風を受けたこと、うれしいです。
――王女の服も風を受けています。
――時々、倒れそうです。
――でも、支柱と縄があることを思い出します。
――リクの手紙も、その一つです。
――今日はアリアンヌ。
――返事を待たせた姉より。
リクはしばらく動かなかった。
それから、手紙を胸に当てた。
「怒ってなかった」
リオは隣で頷いた。
「はい」
「怖かったんだって」
「はい」
「姉さんも、間の棚だった」
「そうですね」
リクは金木犀の葉を見た。
「返事、来た」
「はい」
「待ってる間、疲れた」
「はい」
「でも、来た」
「はい」
リクは深く息を吸った。
「じゃあ、これは日々の棚?」
リオは少し考えた。
「間の棚から、日々の棚へ移せるかもしれません」
リクは笑った。
「棚って移動するんだな」
「人の気持ちも動きますから」
その日の夕方、リクは間の棚に置いた自分の未送信の手紙を見た。
――返事が来ない。
――怒ってるわけじゃないと思う。
――忙しいんだと思う。
――でも、ちょっと嫌な感じがする。
――今日はリク。
――これは送らない。
彼はそれを捨てなかった。
ただ、横に新しい札を置いた。
“返事が来た。”
それだけ。
リオはその二枚を見て、小瓶を作った。
返事のない六日。
金木犀の葉。
風。
焦げ豆の記録。
怖くて返事を書けなかった姉。
待って疲れた弟。
そして、届いた紙を胸に当てる手。
ラベルは、
“返事が来た。”
あまりにも単純な名前だった。
けれど、日々の棚にはそれでよかった。
その夜、戻り香の家では鍋が煮えていた。
リュミナはいつもより少し得意そうに言った。
「返事を待っているあいだにも、鍋は煮える」
セリカが頷く。
「それも記録だな」
リクは椀を持ちながら言った。
「待ってる間、何もしてないわけじゃないもんな」
ミナが微笑む。
「はい。食べたり、眠ったり、葉を見たり、未送信の手紙を書いたりしています」
レインが言う。
「証言の返事を待つ間も、粥を食べました」
ノアが弦を鳴らしながら、
「歌も途中で待ちます」
と続けた。
リュミナは満足そうに鍋を混ぜた。
「だから鍋は偉大だ」
「最後はいつもそこだな」
リクは笑った。
外では春風が吹いている。
木札が鳴る。
金木犀の葉が揺れる。
支柱と縄がきしむ。
けれど、若木は倒れない。
返事を待っているあいだにも、根は水を吸う。
葉は少しずつ増える。
鍋は煮える。
人は疲れながらも、食べて、眠って、また朝を迎える。
香りは残る。
返事のない時間にも。
届いた紙の安堵にも。
そして、何も進んでいないように見える日々の底で、静かに煮え続ける鍋の湯気にも。




