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追放された宮廷調香師は、辺境の村で竜の眠りを解く――香りだけで呪いも戦争も終わらせます  作者: たむ


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第四十五話 英雄碑に、余白を彫る

ルーガンの朝は、雪かきの音で始まった。


木べらが石畳を擦る音。馬の鼻息。鍋の残りを温め直す匂い。広場の端で、白盾記録院の職員たちが昨夜の記録を整理している。


英雄碑の前には、人が集まっていた。


昨日までとは違う集まり方だった。


叫ぶためではない。


祈るためでもない。


ただ、碑文を見上げている。


“彼らは自ら望み、王国の盾となった。”


その一文が、雪よりも冷たく見えた。


リディア・マルクもそこにいた。


黒い外套の襟元には、昨日ミナが置いた毛布の繊維が少しついている。彼女はそれに気づいていないようだった。目は赤いが、背筋はまっすぐだった。


レインは少し離れた場所に立っていた。


近づきすぎない。


隠れもしない。


リクが渡した札を胸に入れている。


“置いておく。”


“押しつけない。”


リディアは一度だけ彼を見た。


それだけだった。


だが、昨日より短い距離だった。


アリアンヌは英雄碑の前に立ち、白盾記録院の職員たちと話していた。


「碑をどうするかは、今日決めません」


彼女は集まった人々に向かって言った。


「壊す、残す、碑文を変える、補足の石板を立てる。どれも簡単には決められません。これは王都が命じて済むことではありません」


老人が声を上げた。


「なら、なぜ王女がここにいる」


アリアンヌは目を伏せずに答えた。


「王国が嘘を守ってきたからです。その責任を、王都が遠くから文書だけで済ませてはいけないと思いました」


別の男が言う。


「責任と言うなら、碑をすぐに壊せ!」


その横で、女性が叫ぶ。


「壊さないで! 私はこの碑に二十年花を置いてきたのよ!」


広場が揺れる。


リュミナが鍋の横で腕を組み、ぽつりと言った。


「碑も鍋も、急にひっくり返すとこぼれる」


セリカが少し驚いた顔で彼女を見る。


「お前、今かなりまともなことを言ったな」


「私はいつも」


「続けるな」


リオは英雄碑を見上げた。


壊せば嘘は消えるかもしれない。


だが、そこに花を置いてきた二十年の人々の手まで壊すことになる。


残せば嘘はそのまま立ち続ける。


だが、何も知らなかった頃の祈りまで否定せずに済む。


必要なのは、たぶん壊すことでも、残すことでもない。


余白だ。


そこに新しい記録を置くための余白。


リオはセリカを見た。


セリカも同じことを考えていたのか、白盾を腕に装着した。


「碑文の横に余白を彫れ」


彼女は言った。


人々が振り返る。


セリカは英雄碑の側面を指した。


「この碑は嘘を含んでいる。だが、この碑の前で泣いた者たちの二十年まで嘘ではない。なら、壊すか残すかを今日決める前に、余白を作れ」


リディアが尋ねた。


「余白?」


「ああ。まだ確定していないこと、怒っていること、信じられないこと、悲しみ直していること。それを書き込める場所だ」


ハルトが考え込む。


「臨時記録板を設置する、という形なら可能です。正式な碑文改定までの間、証言や問いを掲示する場所として」


「掲示板にするのか」


老人が嫌そうに言った。


ミナが首を横に振る。


「ただの掲示板ではありません。声を置く場所です。証言しない人も、一行だけ置けるように。怒りも、問いも、まだ信じられないという言葉も」


リディアは英雄碑の黒い石を見た。


「そこに、“なら、なぜ帰ってこなかったのですか”と置いてもいいのですか」


アリアンヌが答えた。


「はい。あなたが望むなら」


「父の名の横に?」


「はい」


リディアの顔が歪んだ。


「それは……怖いです」


レインが遠くで目を閉じた。


リディアは続けた。


「でも、置きたい」


広場の空気が変わった。


何かが決まったわけではない。


だが、決める前に置く場所ができた。


ルーガンの石工たちは、その日のうちに動いた。


英雄碑の横に、白い石板を仮設する。


白盾記録院が用意した白盾石ではない。ルーガンの山から切り出した灰色がかった石だ。地元の石でなければならない、と遺族会が言ったからだった。


その石板には、まだ何も刻まれない。


まず、木札を掛けることになった。


一人一枚。


名前を書いてもいい。


書かなくてもいい。


怒りでもいい。


問いでもいい。


ただし、他人の名を消す言葉は置かない。


白盾記録院の職員がそう説明すると、何人かが反発した。


「憎む相手の名を書いてはいけないのか!」


セリカは答えた。


「書いていい。ただし、消せとは書くな。罪を記録しろ。名を消すな」


その違いは難しい。


だが、白盾の誓いはいつもその難しさの中にある。


昼過ぎ、最初の木札を書いたのはリディアだった。


彼女は長く迷い、最後にこう書いた。


“父は帰りたかった。”


それを英雄碑の横に掛ける。


黒い石の碑文の横。


“彼らは自ら望み、王国の盾となった。”


その隣に、


“父は帰りたかった。”


二つの言葉が並んだ瞬間、広場にいた何人かが泣き出した。


一人の老人が膝をついた。


「わしの兄も……帰りたかったのか」


誰も答えられなかった。


けれど、答えられないことも記録されるべきだった。


次に、別の女性が札を書いた。


“英雄だと思わなければ、耐えられなかった。”


その次に、若い男。


“嘘なら怒る。嘘でなくても怒る。”


さらに、白髪の老女。


“私はまだ信じない。”


ミナはその札を見て、静かに頷いた。


「それも声です」


レインはなかなか札を書かなかった。


彼には証言がある。


名前も戻した。


だが、この場所に何を書くかは別の問題だった。


夕方近く、彼はようやく木札を手に取った。


書いたのは、短い言葉だった。


“嘘を伝えました。”


それを掛ける場所で迷った。


英雄碑の横に掛ければ、遺族の怒りを買うかもしれない。


離れた場所に掛ければ、逃げているように見える。


リディアが彼に近づいた。


「そこではなく」


レインの手が止まる。


リディアは英雄碑の正面ではなく、余白の石板の一番下を指した。


「私たちの言葉の下に置いてください。上に置かれると、腹が立ちます」


レインは深く頭を下げた。


「はい」


彼は一番下に札を掛けた。


“嘘を伝えました。”


その上に、


“父は帰りたかった。”


その隣に、


“私はまだ信じない。”


それらは整っていない。


矛盾している。


けれど、同じ場所に置かれた。


リュミナはそれを見て言った。


「鍋に似ている」


セリカが疲れた声で返す。


「今度は何だ」


「別々のものを、煮崩さずに同じ鍋へ入れる。難しい」


リオは思わず笑った。


「本当に、いい例えです」


「そうだろう」


「でも、煮崩さないためには火加減が要りますね」


ミナが言う。


リュミナは深く頷いた。


「火加減は重要だ」


白盾記録院の職員が、その会話を真剣に記録していた。


たぶん後日、公式文書のどこかに「火加減」という言葉が入るのだろう。


夜、ルーガンでは再び鍋が出された。


昨夜より人が増えていた。


食べる者も、食べない者もいる。


雪玉置き場には、今日も人が並んだ。


ただ、昨日より的に当てる音は少なかった。雪玉を持ったまま泣く者が多かった。投げずに、雪玉が手の中で溶けるのを見つめる人もいた。


リディアは椀を持って、レインから少し離れた場所に座った。


昨日より近い。


だが、隣ではない。


彼女はしばらく鍋を見つめてから言った。


「灰星の話を、少しだけ」


レインは顔を上げた。


リディアは目を逸らす。


「父が手紙に書いた馬です。今日は、それだけ聞きます」


レインは椀を置いた。


「灰星は、額に白い星がありました」


「手紙にもありました」


「新兵を落とさない馬でした。でも私のことは三回落としました」


リディアは少しだけ目を見開いた。


そして、本当に少しだけ、口元を緩めた。


「父なら笑いそうです」


「笑っていました」


レインの声は震えていたが、温かさもあった。


「“伝令殿、その馬はお前より正直だな”と」


リディアは目を閉じた。


涙が一筋落ちる。


「父らしい」


それだけ言って、彼女は鍋を一口飲んだ。


会話はそこで終わった。


けれど、終わり方としては十分だった。


リオはその香りを小瓶に取った。


英雄碑の余白。


木札。


父は帰りたかった。


嘘を伝えました。


灰星の話を少しだけ聞く夜。


鍋の湯気。


手の中で溶ける雪玉。


ラベルには、セリカの言葉を借りた。


“余白を彫る。”


それは、答えを刻む前に必要な香りだった。


翌日、ルーガンを発つ前に、アリアンヌは英雄碑の前に一枚の木札を掛けた。


王女としてではなく、アリアンヌとして。


そこにはこう書かれていた。


“王国は、あなた方を物語に閉じ込めました。”


彼女はしばらくその札を見つめていた。


リディアが隣に立つ。


「王女様」


「はい」


「私は、あなたにも怒っています」


アリアンヌは頷いた。


「はい」


「でも、昨日の鍋は温かかった」


アリアンヌの目が揺れる。


「ありがとうございます」


「褒めてはいません」


「はい」


リディアは英雄碑を見た。


「次に来る時、父の手紙を持ってきます。灰星のことが書かれたものを」


アリアンヌは静かに頭を下げた。


「白盾記録院で写しを取ります。原本は、あなたのものです」


「当たり前です」


「はい」


リディアは少しだけ笑った。


本当に、少しだけ。


ルーガンを出る時、雪は止んでいた。


広場の雪玉置き場には、まだ雪玉がいくつか残っている。


的には白い跡。


英雄碑の横には、木札の余白。


そして大鍋の火は、まだ完全には消えていなかった。


帰りの馬車の中で、レインは長く黙っていた。


リュミナが尋ねる。


「腹は減ったか」


レインは少し考えた。


「はい」


リュミナは満足そうに頷いた。


「生きている」


セリカが静かに言った。


「これからが裁きだ」


「はい」


レインは答えた。


「怖いです」


リクの木札を握る。


“怖いまま書け。”


「でも、怖いまま書きます」


リオは窓の外を見た。


雪原は白い。


だが、もう蓋には見えなかった。


ところどころに足跡があり、荷車の跡があり、雪玉を作った丸い窪みがある。


人が通った跡。


怒り、泣き、食べ、書いた跡。


香りは残る。


英雄碑の余白にも。


手の中で溶けた雪玉にも。


そして、まだ許していない者が少しだけ馬の話を聞いた夜にも。

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