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追放された宮廷調香師は、辺境の村で竜の眠りを解く――香りだけで呪いも戦争も終わらせます  作者: たむ


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第四十四話 雪玉を置く場所

ルーガンの街は、雪に慣れていた。


家々の屋根は低く、道幅は広く、店先には雪かき用の木べらがいくつも立てかけてある。広場の中央には大きな英雄碑があり、そこだけは毎朝きれいに雪が払われるのだと、ハルトが説明した。


英雄碑。


灰鷹平原第三歩兵隊の名を刻んだ黒い石。


その正面には、剣を掲げる兵士の浮き彫りがあった。顔は凛々しく、視線は遠く、足元には雪を模した白石が敷かれている。


“彼らは自ら望み、王国の盾となった。”


碑文にはそう刻まれていた。


レインは、その前で足を止めた。


顔色はひどく悪い。


ミナがすぐに声守草の薬湯を渡す。


「一口だけ」


レインは頷き、飲んだ。


リュミナが英雄碑を見上げる。


「これは寒い」


「雪だからですか」


リオが尋ねると、リュミナは首を横に振った。


「名があるのに、人がいない。食べ物の匂いも、笑い声も、馬もない。寒い」


セリカは白盾を見た。


盾の裏が、かすかに重くなっている。


「ここに、名だけが閉じ込められている」


英雄碑の前には、すでに多くの人が集まっていた。


黒い外套を着た遺族たち。


北西軍の兵士。


街の役人。


白盾記録院の職員。


怒りを隠さない者もいる。


泣き腫らした目で碑を見つめる者もいる。


「帰れ」と小さく呟く声が、雪に混じって聞こえた。


それが誰に向けられた言葉なのかはわからない。


王都からの使節へ。


白盾記録院へ。


レインへ。


あるいは、帰ってこなかった死者たちへ。


広場の脇には、大きな天幕が張られていた。


説明会の場だ。


そして、天幕の外には、リュミナの提案をもとに用意されたものがあった。


雪玉置き場。


木箱に、丸めた雪玉がいくつも並べられている。


ただし、石や氷が混じらないよう、白盾記録院の職員が確認していた。横には札が立っている。


“怒りをぶつけたい方へ。

人に向けず、的へ投げてください。

投げなくてもかまいません。”


的は、木の板だった。


そこには何も描かれていない。


誰の顔も、紋章もない。


ただの板。


リオはそれを見て、少し安心した。


怒りのための場所。


けれど、誰かを傷つけるためではない場所。


リュミナは雪玉を一つ手に取ろうとして、セリカに止められた。


「お前は投げるな」


「試投が必要だ」


「必要ない」


「竜の力を抑える練習にもなる」


「別の場所でやれ」


リクがいればきっと笑っただろう、とリオは思った。


その時、天幕の入口からアリアンヌが出てきた。


王女の礼装ではなく、北西の冬用外套を着ている。顔の黒紋は薄いが、寒さの中では少し青く見えた。彼女は一行へ頭を下げた。


「来てくれてありがとう」


「王女としてか、アリアンヌとしてか」


セリカが問う。


アリアンヌは少し考えた。


「今日は、両方です。王女としてこの場に立つ責任があります。けれど、傷を持つ者として、怒りを急かさないためにも来ました」


セリカは短く頷いた。


「いい答えだ」


アリアンヌはレインを見た。


「レイン・ガルブレイスさん」


レインは深く頭を下げる。


「はい」


「あなたがここにいることは、遺族の方々へ伝えています。ただし、会うかどうかはそれぞれが決めます」


「はい」


「あなたを守るためだけではありません。遺族の方々が、あなたに会うことを強いられないためです」


レインの肩がわずかに震えた。


「はい」


天幕の中は、静かだった。


中央に大きな炉があり、その周囲に椅子が円形に並んでいる。奥には記録机。別室には休息用の寝台と薬湯。さらに、食事用の小さな場も用意されていた。


リュミナはそれを見て頷く。


「よく学んでいる」


白盾記録院の職員が恐縮して頭を下げた。


説明会は、国王の代理文の朗読から始まった。


アリアンヌが読み上げた。


「灰鷹平原第三歩兵隊について、王国は長年、志願による殿軍として顕彰してきた。しかし新たな証言と記録により、撤退命令の改竄、命令書の焼却、部隊への虚偽命令伝達が行われた疑いが濃厚となった」


天幕内にざわめきが広がる。


一人の老人が立ち上がった。


「疑いだと? ではまだ確定ではないのか! それならなぜ英雄碑の前でこんな会を開く!」


ハルトが答えた。


「確定していないからこそ、記録を進める前に、関係者の方々へ説明しています。決めつけるためではありません」


「父を侮辱するな!」


別の女性が叫んだ。


「父は誇りだった! 私たちはその誇りで生きてきた!」


ミナが立ち上がった。


「誇りを、すぐに捨てろと言いに来たのではありません」


女性はミナを睨む。


「あなたに何がわかる!」


ミナは一度、喉に手を当てた。


「全部はわかりません。でも、声を奪われたことがあります。許せないことを、他人に急いで整理される苦しさは、少し知っています」


女性の表情が変わる。


ミナは続けた。


「今日ここでは、信じなくてもいいです。怒ってもいい。泣いてもいい。何も言わず帰ってもいい。ただ、記録は始まっています。あなたの怒りも、そこから外されません」


その言葉で、天幕は少しだけ静まった。


次にハルトが、軍務記録の矛盾を説明した。


撤退命令の初稿。


消された伝令名。


ヴォルク・ゼーゲンの生存。


白盾の裏に刻まれた第三歩兵隊の名。


リオは香りを抑えていた。


ここで強い香りを焚けば、感情を無理に動かすことになる。今日は、支配ではなく支えが必要だった。炉の火に、ほんの薄く“問いの前に置く椀”を混ぜるだけにした。


湯気のような香り。


押しつけない温かさ。


説明が進むにつれて、泣く者が増えた。


怒鳴る者もいた。


天幕を出ていく者もいた。


その何人かは、外の雪玉置き場へ向かった。


最初に雪玉を投げたのは、若い男だった。


彼は何も言わず、雪玉を掴み、的へ叩きつけた。


一つ。


二つ。


三つ。


雪が砕ける音が、広場に響いた。


やがて、彼はその場に膝をつき、声を上げて泣いた。


職員は近づきすぎず、毛布だけをそっと置いた。


リュミナが遠くから見て言った。


「よい」


セリカは頷いた。


「石でなくてよかった」


リオはその光景の香りを覚えた。


怒り。


冷たい雪。


割れる音。


毛布。


誰にも向けられなかった一撃。


これは、必要な香りだ。


午後、リディア・マルクが天幕へ入ってきた。


四十に近い女性だった。


髪はきっちり結われ、黒い外套を着ている。目元は赤いが、姿勢はまっすぐだった。彼女が入ると、天幕の中の何人かが道を開けた。隊長オーウェンの娘として、彼女は北西の遺族会でもよく知られているのだろう。


彼女はアリアンヌへ礼をし、ハルトへ頷き、ミナの前で一瞬足を止めた。


「あなたが、声を奪われた人」


ミナは少し驚いた。


「はい。ミナ・リュースです」


リディアは深く息を吸った。


「あなたの言葉を読みました。証言しない日にも声がある、と」


「はい」


「私は今日、会うかどうか決めない日として来ました」


ミナは頷いた。


「それも声です」


リディアの目が揺れた。


彼女は次に、レインを見た。


レインは天幕の奥、目立たない場所に座っていた。逃げないためにそこにいる。押しつけないために前へ出ない。


リディアは彼を見たまま、長く動かなかった。


天幕内の空気が張り詰める。


レインは立ち上がろうとした。


セリカが低く言った。


「待て」


レインは止まる。


リディアが先に歩いた。


レインの前まで来る。


「あなたが、レイン・ガルブレイス」


「はい」


声は震えていた。


「父に嘘を伝えた人」


レインは目を逸らさない。


「はい」


「父が帰れなかった理由の一つ」


「はい」


リディアの手が震える。


「私は、あなたを殴りたい」


レインは目を閉じた。


「はい」


「でも、殴ったら、私が壊れそうです」


レインは目を開けた。


リディアは泣いていた。


「父は英雄だと、二十年言われました。私は泣くたびに叱られた。誇りを持てと。父の死を誇れと。私は、父が帰りたかったと聞いて、初めて怒れました」


彼女の声が震える。


「父に。軍に。王国に。あなたに。私に。二十年泣けなかった私に」


レインは何も言わない。


リディアは続けた。


「あなたを許しません」


レインの顔が歪む。


「はい」


「でも、父があなたを“伝令殿”と呼んだなら、私は今日、あなたの名を聞いておきます」


レインは息を呑んだ。


リディアは言った。


「もう一度、名乗ってください」


レインは震える声で答えた。


「レイン・ガルブレイス。元王国軍伝令兵。灰鷹平原で撤退命令を焼き、第三歩兵隊へ死守命令を伝えた者です」


リディアは目を閉じた。


「私はリディア・マルク。オーウェン・マルクの娘です。父が帰りたかったと知って、悲しみ直している者です」


天幕の中で、誰かが嗚咽した。


ミナも涙を浮かべていた。


リディアはレインを見た。


「今日は、それだけです」


「はい」


「会うかどうか決めない日です」


「はい」


「でも、父の馬の話を聞きました。あなたの馬ではなく、父が私に見せるはずだった馬の話を」


レインはすぐに言った。


「灰星です」


「灰星」


リディアはその名を繰り返した。


「父の手紙に、灰色の馬が出てきます。額に星があると」


レインの目が大きく開く。


「手紙が」


「残っています」


リディアは懐から古い紙片を出した。


「父はこう書いていました。“帰ったら、伝令殿の灰星を見せてやろう。あの馬は人間より道を知っている”と」


レインは膝から崩れそうになった。


セリカが支える。


リディアは紙片を胸に戻した。


「私は、灰星のことをもっと知りたい。でも今日は聞きません」


「はい」


「次に、聞くかもしれません」


「はい」


リディアは一歩下がった。


そして、雪玉置き場へ向かった。


天幕の全員が見守る中、彼女は雪玉を一つ手に取った。


的へ向かう。


しばらく、その手は動かなかった。


やがて、彼女は雪玉を投げた。


強くはなかった。


雪玉は的の端に当たり、崩れた。


リディアはその場で泣き出した。


アリアンヌが近づこうとして、止まった。


待つ。


リディアが自分の足で戻れる場所を空ける。


ミナが毛布を持って行き、少し離れた場所に置いた。


リディアはそれを見て、しばらくして自分で手を伸ばした。


リオはその光景を小瓶に閉じ込めた。


リディアの名乗り。


レインの名乗り。


許さないという声。


灰星の名が、父の手紙にも残っていたこと。


雪玉が的の端で砕けた音。


毛布を自分で取る手。


ラベルには、リディアの言葉をそのまま書いた。


“悲しみ直している者。”


その日の説明会は、夕方まで続いた。


すべてが解決したわけではない。


むしろ、新しい怒りが生まれた。


英雄碑を壊せと言う者。


絶対に壊すなと言う者。


碑文だけ変えろと言う者。


名前を全部消してほしいと言う者。


名前だけは残してほしいと言う者。


白盾記録院の職員たちは、休まず記録し続けた。


セリカは最後に言った。


「今日、決めなくていい」


その声は、広場の雪に響いた。


「碑を壊すか、残すか。英雄と呼ぶか、人と呼ぶか。誰を憎むか。誰に会うか。今日、決めなくていい」


彼女は白盾を掲げた。


「ただし、記録は止めない。嘘のまま眠らせることもしない。怒るなら、名を持って怒れ。泣くなら、泣く相手の名を取り戻せ。わからないなら、わからないと記録しろ」


リュミナが続けた。


「そして食べろ」


セリカが少しだけ目を閉じた。


だが、誰も笑わなかった。


リュミナは真剣だった。


「悲しみ直すには力がいる。怒るにも、泣くにも、名前を聞くにも、力がいる。空腹でやるな」


広場の人々は黙っていた。


やがて、誰かが小さく言った。


「鍋はどこだ」


リュミナの目が輝いた。


「よい質問だ」


その夜、ルーガンの広場には大鍋が出た。


白盾記録院、街の人々、遺族会、リューネ村の一行が用意した鍋。


食べる者もいた。


拒む者もいた。


椀を受け取って、飲まずに持っているだけの者もいた。


それでよかった。


椀は置かれた。


押しつけられなかった。


レインは天幕の奥で、自分の椀を持っていた。


リディアは遠くで、別の椀を持っていた。


二人は話さなかった。


だが、同じ湯気の中にいた。


リオはその香りを、最後にもう一本の瓶へ入れた。


ラベルには、リクの言葉を借りた。


“椀を置いとけばいい。”


それは、ルーガンの夜に必要な香りだった。


答えではない。


赦しではない。


けれど、怒りと涙の前に置ける、温かいもの。


雪は降り続いていた。


英雄碑の上にも、雪玉の砕けた的にも、大鍋の湯気にも。


その雪はもう、蓋ではなかった。


悲しみ直す者たちの肩に、静かに降る雪だった。

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