第四十三話 悲しみ直す者たち
灰鷹平原の真実は、王都より先に北西へ届いた。
正式な告知ではなかった。
白盾記録院が慎重に調査を進めている最中、どこからか情報が漏れた。ヴォルク・ゼーゲンが生きていたこと。第三歩兵隊が志願して殿を務めたのではなく、撤退命令を奪われた可能性があること。英雄碑に刻まれた物語が、嘘を含んでいたこと。
北西地方は揺れた。
冬の街道を越えて、手紙が何通もリューネ村へ届いた。
怒りの手紙。
信じないという手紙。
「死者を侮辱するな」と書かれた手紙。
「父は英雄だった、それ以外の何者でもない」と震える文字で綴られた手紙。
そして、封もされず、ただ一行だけ書かれた紙。
“なら、なぜ帰ってこなかったのですか。”
その紙を読んだ時、戻り香の家の台所はしばらく静かになった。
リクは椀を持ったまま、眉を寄せていた。
「怒ってるのに、泣いてる字だ」
ミナが頷いた。
「そうですね」
レインはその紙から目を逸らせなかった。
「これは……」
ハルトが差出人を確認する。
「北西のオルマ村。第三歩兵隊隊長オーウェン・マルクの娘、リディア・マルクとあります」
レインの手が震えた。
オーウェンの娘。
馬を見せる約束をしていた子。
今はもう大人になっているはずの人。
“なら、なぜ帰ってこなかったのですか。”
その問いは、誰か一人へのものではない。
王国へ。
軍へ。
ヴォルクへ。
レインへ。
オーウェン自身へ。
そして、二十年ものあいだ英雄譚で悲しみを固めてきた世界へ。
セリカは紙を静かに置いた。
「白盾記録院へ送る。返事は急がない」
レインが顔を上げる。
「私が書くべきでは」
「今すぐは駄目だ」
「でも、彼女の父を……」
「お前が書けば、彼女にお前への怒りを持つ準備を強いる。まずは記録院を通せ」
レインは唇を噛んだ。
ミナが言った。
「相手にも、急がない場所が必要です」
レインは黙って頷いた。
リュミナが紙を見つめていた。
いつになく静かだった。
「帰ってこなかった理由を聞く者には、まず椀を置くべきだ」
リクが言う。
「手紙に椀は置けないだろ」
「なら、湯気の香りを送る」
リオはその言葉に顔を上げた。
湯気の香り。
怒りの手紙に返す、答えではないもの。
問いを塞がず、けれど紙の冷たさだけを返さないための香り。
「作りましょう」
リオは言った。
セリカが見る。
「返信に添えるのか」
「はい。言い訳ではなく、受け取ったという印として。温かい食事を押しつけるのではなく、椀を置くように」
リクがアリアンヌへ書いた言葉を思い出す。
“怒ってる人にも食事はいる。
でも、食べろって押しつけると怒る。
椀を置いとけばいい。”
ミナが静かに頷いた。
「それなら、声守草も少し入れましょう。問いを出す喉が痛まないように」
レインは目を伏せた。
「私も、何か」
セリカが言った。
「灰星の香りを少し入れろ」
レインは驚いた。
「灰星を?」
「あの隊長は娘に馬を見せる約束をしていた。なら、馬の匂いは彼女の問いに関係がある」
レインは目を閉じた。
「はい」
その日、リオは新しい香りを作った。
薄い粥の湯気ではない。
帰ってきた者へ出す鍋でもない。
遠くで怒り、悲しみ、問いを投げた者へ置く椀の香り。
材料は、リューネ村の薪。
声守草。
灰星のたてがみを思わせる革と雪道の香り。
オーウェンの煙草を、ほんのわずか。
焦げた豆を一滴。
そして、空白を残した。
答えを書き込まないための余白。
ラベルには、ミナが言った。
“問いの前に置く椀。”
その香りと共に、白盾記録院宛ての書簡が送られた。
リディア・マルクへ直接ではない。
まだ、直接は早い。
白盾記録院が彼女へどう届けるかを判断する。
しかしリオは、書簡の末尾にこう添えた。
“この香りは答えではありません。
問いを受け取った印です。
怒りを急いで鎮めるためではなく、問い続ける喉を守るために。”
数日後、アリアンヌから手紙が届いた。
――北西からの手紙が王都にも殺到しています。
――泣いている人、怒っている人、白盾記録院を壊せと叫ぶ人、父や祖父を英雄のままにしてほしいと訴える人。
――私は、以前なら忘れさせることを考えたかもしれません。
――今は、椀を置くことを考えています。
――リクの言葉が、王都の会議で読まれました。
リクはそこで顔を真っ赤にした。
「何で読むんだよ!」
リオは続きを読んだ。
――「怒ってる人にも食事はいる。でも、食べろって押しつけると怒る。椀を置いとけばいい。」
――国王は黙って頷きました。エルヴィンは「政策文書としては粗いが本質的だ」と言いました。メリッサは笑っていました。
リュミナが満足そうに言う。
「リクの言葉は鍋に近づいている」
「近づきたくない」
リクはむっとしたが、どこか誇らしげでもあった。
手紙は続く。
――白盾記録院は、北西の遺族たちへ説明会を開くことになりました。
――ただし、証言を押しつけないこと。英雄譚を信じていた人々を愚か者として扱わないこと。怒る権利を認めること。食事と休息の場を用意すること。
――リューネ村の戻り香の家の協力を求める声が上がっています。
全員が顔を見合わせた。
リュミナがすぐに言った。
「行く」
セリカが眉をひそめる。
「まだ何も決めていない」
「食事の場がある」
「そこか」
「そこもだ」
リュミナは珍しく真剣だった。
「悲しみ直す者たちは危うい。英雄だったと思っていた者が、帰りたかった人になる。誇りが怒りになり、怒りが空腹になる。空腹は危険だ」
ミナが頷く。
「私も行きたいです。声守草の薬が必要になると思います」
レインは顔を青ざめさせた。
「私も……行くべきですか」
セリカはすぐには答えなかった。
「今の段階でお前が遺族の前に立てば、石を投げられるかもしれない」
「はい」
「それでも行きたいか」
レインは長く黙った。
リクが彼を見る。
「行きたいっていうか、逃げたくないんだろ」
レインは苦い顔で頷いた。
「はい」
「でも、会いたくない人もいるだろ」
「はい」
「じゃあ、椀みたいに置いとけばいいんじゃねえの。会いたい人だけ来る。会いたくない人は来ない」
リオはその言葉に息を呑んだ。
レイン自身を、答えとして押しつけない。
けれど隠しもしない。
そこにいる、と置いておく。
セリカは静かに頷いた。
「それだな」
レインはリクを見た。
「あなたは、本当に」
「何だよ」
「途中の先輩ですね」
リクは顔をしかめた。
「ノアみたいなこと言うな」
リュミナが満足そうに言う。
「リクは育っている」
「竜に育てられた覚えはない」
「食べさせた」
「それはある」
北西説明会への参加が決まった。
場所は、北西地方の中心都市ルーガン。
灰鷹平原から南にある大きな街で、第三歩兵隊の英雄碑が建つ場所だ。そこに白盾記録院の臨時席が設けられる。王都からは国王の代理としてアリアンヌ、記憶院からハルト、法務関係者としてエルヴィンの書簡が送られる。
リューネ村からは、リオ、セリカ、ミナ、リュミナ。
そして、レイン。
リクはまた留守番を言い渡されかけた。
今度は、彼が先に言った。
「俺は行かない」
セリカが少し驚く。
「いいのか」
リクは肩をすくめた。
「行ったら、俺の名前の話もまた使われるかもしれないし。今回は灰鷹平原の人たちの話だろ。俺は戻り香の家を守る」
リュミナが深く頷いた。
「立派な留守番だ」
「お前、前もそれ言った」
「真理は繰り返す」
リクはレインへ木札を渡した。
今回は小さく、丸い札だった。
表には、
“置いておく。”
裏には、
“押しつけない。”
レインはそれを受け取った。
「これは?」
「遺族に会う時用。自分を押しつけるな。でも隠れるな」
レインは札を胸に当てた。
「はい」
「あと、食え」
リュミナが嬉しそうに言う。
「完全に学んだ」
「うるさい」
出発前日、戻り香の家に北西からもう一通の手紙が届いた。
差出人はリディア・マルク。
今度は封がされていた。
白盾記録院を経由して届けられたものだ。
宛先は、レイン・ガルブレイス。
台所で、レインは封筒を前にして動けなくなった。
リオは言った。
「今読まなくてもいいです」
レインは首を横に振る。
「読みます」
「一人で?」
レインは少し考えた。
「いいえ。ここで」
全員が静かに座った。
レインは封を開けた。
文字は整っていたが、筆圧が強く、ところどころ紙が削れそうだった。
彼は読み上げようとして、声が出なかった。
ミナが尋ねる。
「代わりに読みますか」
レインは頷いた。
ミナは手紙を受け取り、静かに読んだ。
――レイン・ガルブレイス様。
――あなたを様と呼びたくありません。
レインの肩が震えた。
ミナは続けた。
――けれど、父が兵だったなら、伝令にも敬称をつけて呼んだかもしれないと思い、そう書きます。
――私はリディア・マルクです。オーウェン・マルクの娘です。
――父は英雄だと教えられて育ちました。誇りに思えと言われました。泣くなと言われました。父は自ら望んで国の盾になったのだと。
――私は、泣くたびに恥ずかしいと思いました。
――父を誇れない自分は、悪い娘だと思いました。
ミナの声が少し震えた。
リオは香炉に“問いの前に置く椀”を一滴落とした。
湯気のような香りが広がる。
――あなたの証言を、まだ信じられません。
――信じたら、私は二十年分、泣かなければならない気がするからです。
レインは両手で顔を覆った。
――父が帰りたかったという言葉が、頭から離れません。
――帰りたかったのなら、なぜ帰ってこなかったのですか。
――あなたが嘘を伝えたからですか。
――隊長だった父が真実を言えなかったからですか。
――命令を変えた者たちのせいですか。
――王国のせいですか。
――私は誰を憎めばいいのですか。
台所は静まり返った。
ミナは最後まで読んだ。
――ルーガンの説明会に行きます。
――あなたに会いたいかどうかは、まだわかりません。
――でも、あなたがそこにいるなら、石を投げたいと思うかもしれません。
――その時、私は悪い娘でしょうか。
――リディア・マルク。
手紙は終わった。
レインは長く動かなかった。
リクが低く言った。
「悪い娘じゃないだろ」
ミナが頷いた。
「はい」
セリカも言った。
「石を投げたいと思うことと、投げることは違う。だが、思うことまで罪にはできない」
リュミナは真剣に考えた。
「石の代わりに、何か投げてもよいものを用意するか」
「何を?」
リクが聞く。
「雪玉」
全員が一瞬黙った。
セリカが額に手を当てる。
「この竜は時々……」
ミナがゆっくり言った。
「でも、感情をぶつけるための安全な方法は必要かもしれません」
リュミナは胸を張った。
「ほら」
リオは考えた。
悲しみ直す者たち。
石を投げたい怒り。
その怒りを否定せず、しかし誰かを傷つけない形にする。
雪玉。
あまりにも単純で、子どもじみている。
だが、北西は雪の土地だ。
雪玉は、溶ける。
投げても、春には水になる。
「持っていきましょう」
リオは言った。
セリカが驚く。
「本気か」
「はい。実際に使うかはわかりません。でも、“投げても人を殺さないもの”を用意するという考えは、必要かもしれません」
リクが言った。
「石じゃなくて雪玉。悪くないじゃん」
レインは顔を上げた。
「私は……投げられても」
セリカが即座に遮る。
「受ければいいという話ではない。自分を罰するために行くな。記録のために行け」
レインは息を詰め、頷いた。
「はい」
リュミナは満足そうに言った。
「雪玉も記録せよ」
リオは笑いそうになったが、笑わなかった。
本当に必要になるかもしれない。
その夜、リオは新しい香りを作った。
リディアの手紙。
二十年泣けなかった娘。
誰を憎めばいいのかという問い。
椀の湯気。
雪玉。
レインの震える手。
ラベルには、リディアの言葉を少し変えて書いた。
“悲しみ直す。”
それは、過去を知った人がもう一度泣くための香りだった。
誇りで固められていた涙が、ようやく流れるための香り。
翌朝、一行は北西へ向かった。
灰鷹平原ではない。
今度は、そこに残された者たちの街へ。
ルーガン。
英雄碑のある街。
悲しみ直す者たちが待つ街。
戻り香の家の入口では、リクが見送った。
「名を言えよ」
レインは頷いた。
「はい。レイン・ガルブレイスとして」
「押しつけるなよ」
「はい」
「食えよ」
「はい」
「雪玉、変な方向に投げるなよ」
レインは少しだけ笑った。
「気をつけます」
リュミナが真剣に言う。
「私は投げるのが上手い」
セリカが低く返す。
「お前は投げるな」
雪道へ踏み出す時、リオは振り返った。
戻り香の家の木札が、雪の中で揺れている。
“名を聞きます。
急かしません。
怒ってもいい。
泣いてもいい。
植えてもいい。
食事はあります。”
その約束を、今度は北西へ持っていく。
香りは残る。
怒りの手紙にも。
二十年遅れの涙にも。
そして、石ではなく雪玉を用意しようとする、不格好な優しさにも。




