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追放された宮廷調香師は、辺境の村で竜の眠りを解く――香りだけで呪いも戦争も終わらせます  作者: たむ


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第四十二話 灰星のたてがみは、雪を覚えていた

翌朝、レインは粥を食べた後、灰星の話をした。


それは証言ではなかった。


少なくとも、最初はそうだった。


戻り香の家の台所には、いつものように湯気が満ちていた。外では雪が降り、金木犀の冬囲いは丸く白くなっている。リュミナは炉の近くで椀を抱え、セリカは白盾を横に置き、ミナは記録帳を開かずに薬草茶を淹れていた。リオは香炉を焚かず、ただ聞くことにした。


リクが言った。


「灰星って、どんな馬だったんだ」


レインは少し考えた。


「頑固でした」


「馬も頑固なのか」


「ええ。特に灰星は」


レインの口元に、微かな笑みが浮かぶ。


「誰が手綱を引いても、自分が危ないと思った道には進みませんでした。水たまりの深さも、雪の下の穴も、匂いでわかった。新兵が乗ると、わざとゆっくり歩くんです。落とさないように」


リュミナが頷いた。


「賢い」


「はい。けれど、上官には嫌われていました。命令に従わない馬だと」


セリカが短く言う。


「賢い馬ほど、命令だけでは動かない」


「そうですね」


レインは椀の縁を指でなぞった。


「私は、灰星が好きでした。伝令兵になった時、最初に任されたのがあの馬で……誇らしかった。灰星に認められたような気がして」


リクは身を乗り出した。


「乗せてくれたのか」


「最初は振り落とされました」


リクが笑う。


リュミナも笑った。


ミナが微笑む。


レインは少し驚いたように、その笑いを見た。


自分の話で、誰かが普通に笑う。


灰鷹平原の証言では、起こらなかったことだ。


「三回落とされました。四回目で、ようやく少し歩いてくれました」


「何したんだよ」


「干し林檎を持っていました」


リュミナの目が光る。


「賢い交渉だ」


「馬も食べ物で動くんだな」


リクが感心する。


レインは首を横に振った。


「食べ物だけではありません。灰星は、人が怖がっていると止まりました。怒っていると進みませんでした。嘘をついていると……」


そこで、声が止まった。


台所の空気が少しだけ変わる。


リオは香りを感じた。


灰星。


雪道。


革の手綱。


そして、灰鷹平原の朝。


レインの手が椀を握る。


「……嘘をついていると、耳を伏せました」


誰も急かさない。


リクも、今度は何も言わなかった。


レインは深く息を吸った。


「灰鷹平原へ向かった日、灰星は何度も止まりました。北ではなく、東の撤退路へ行こうとした。私は手綱を引きました。鞭も使いました」


ミナの表情が痛みに歪む。


レインは続ける。


「灰星は、わかっていたのかもしれません。私が嘘の命令を運んでいることを。正しい道は別にあることを」


セリカが言った。


「馬に罪を預けるな」


レインは顔を上げた。


セリカの声は厳しかったが、冷たくはなかった。


「灰星は道を知っていたかもしれない。だが手綱を持ったのはお前だ」


「はい」


レインは目を伏せる。


「だから記録します。灰星は止まった。私は進ませた」


ミナは記録帳を開いた。


今度は、レインが自分で頷いた。


「書いてください」


ミナは書いた。


“灰星は撤退路へ向かおうとした。レイン・ガルブレイスは手綱を引き、灰鷹平原へ進ませた。”


リクが小さく言った。


「寒いな」


リュミナが応じる。


「だから、続きを聞く」


レインは少しだけ笑った。


「灰星は、第三歩兵隊の陣地に着いた後、私の外套を噛みました」


「噛んだ?」


「はい。引き戻そうとしたのか、怒っていたのか。私はわかりません。でも、オーウェン隊長が笑って言いました。“伝令殿、その馬はお前より正直だな”と」


その瞬間、台所に微かな煙草の匂いが立った。


オーウェンの香りだ。


灰鷹平原から持ち帰った瓶の栓は閉じている。


それでも、名が呼ばれたことで、少しだけ香りが起きたのだ。


レインは震えた。


だが逃げなかった。


「その通りでした」


彼は言った。


「灰星は私より正直でした」


リオは静かに小瓶を取り出した。


“灰星は道を知っていた。”


そこに、今日の台所の香りを一滴足す。


粥。


笑い。


馬の話。


嘘を運んだ手綱。


それは、灰星の香りをより温かくした。


戦場の馬ではなく、落とされ、干し林檎で交渉され、正直だと言われた馬の香りになった。


「灰星は、その後どうなったんだ」


リクが尋ねた。


レインの顔が曇る。


「わかりません。戦闘が始まった時、私は後方へ戻るよう命じられました。灰星に乗って逃げました。途中で矢を受け、私は落馬した。気を失って、目が覚めた時には灰星はいなかった」


「死んだのか」


「わかりません」


その「わからない」は、灰鷹平原にまだ残る空白の一つだった。


リュミナが言った。


「探すべきだ」


セリカが眉をひそめる。


「馬の骨をか」


「名がある」


リュミナは真剣だった。


「灰星も、雪を覚えていた。平原に残っているなら、見つけるべきだ」


レインの目が揺れる。


「でも、馬です」


リクが少し怒ったように言った。


「馬でも名前あるだろ」


レインは言葉を失った。


ミナが静かに言う。


「戻り香の家では、名前があるものを雑に扱わないことにしています」


セリカは白盾を見た。


「次に灰鷹平原へ行く時、灰星も探す」


レインは深く頭を下げた。


涙が粥の椀へ落ちそうになり、慌てて拭った。


リュミナが椀を指さす。


「涙入りは塩気が増える」


「今言うかよ」


リクが突っ込む。


レインは泣きながら笑った。


その笑いは、台所の湯気に混じって残った。


昼前、王都から早馬が来た。


灰鷹平原の第一報を受け取った白盾記録院からの返書だった。使者は疲れ切っていたが、村の入口で名乗ることを忘れなかった。


ハルトが封を開けた。


内容は重かった。


王都はすでに揺れている。


灰鷹平原の英雄譚は、北西地方の誇りであり、戦没者慰霊財団の中心だった。ヴォルク・ゼーゲンが生存していたこと、命令改竄に関わった疑いがあること、第三歩兵隊が志願の英雄ではなく置き去りにされた可能性があること。それらの報告は、軍部、貴族、遺族会に激震をもたらした。


国王の書簡には、こうあった。


――記録は進める。

――だが、急がぬ。

――英雄として二十年祀られた者たちを、人として返すには、手順を誤ってはならぬ。


リオはその一文を読んで、少しだけ安堵した。


王都も、少しずつ学んでいる。


続いて、アリアンヌからの短い手紙があった。


――リクへ。

――灰鷹平原のことを聞きました。

――王都では、怒っている人、怖がっている人、信じたくない人がたくさんいます。

――私も怖いです。

――リクが「怒ってもいい」と木札に書いたことを思い出しています。

――怒る人たちにも、食事は必要でしょうか。


リクは手紙を読んで、しばらく考えた。


「必要だろ」


リュミナが即答する。


「当然だ」


「でも、怒ってる人に食わせたら、もっと怒るかも」


セリカが言う。


「それでも空腹の怒りと、満腹の怒りは違う」


リオは思わず笑った。


「セリカまで」


「事実だ」


リクは手紙の余白に返事を書いた。


“怒ってる人にも食事はいる。

でも、食べろって押しつけると怒る。

椀を置いとけばいい。

今日はリク。”


アリアンヌへの返事は、それだけだった。


だが、戻り香の家らしい返事だった。


午後、レインは証言の続きを行った。


今度は、灰鷹平原から逃げた後のこと。


彼は落馬し、気を失い、近くの猟師に助けられた。名前を聞かれた時、言えなかった。軍へ戻れば処刑されるか、英雄譚を守るために消される。逃げれば、第三歩兵隊を見捨てることになる。


彼は逃げた。


それから二十年、名を変え、土地を変え、仕事を変えた。


だが、雪の降る日だけは必ず灰鷹平原の夢を見た。


「夢の中で、オーウェン隊長はいつも私に聞きました」


レインは言った。


「“伝令殿、撤退命令は本当にないのか”と」


「あなたは何と答えたのですか」


リオが尋ねる。


「毎回、違いました。あると言う夢もありました。ないと言う夢もありました。声が出ない夢もありました。でも、朝起きると、どの答えも現実ではない」


レインは手元の木札を見た。


“怖いまま書け。”


「だから、夢から逃げるために、名前を捨てました」


「捨てられましたか」


レインは首を横に振った。


「いいえ。雪になっただけでした」


その言葉を、リオは小瓶にした。


雪になる。


それは、名を失うことではなく、名を覆うこと。


冷たく、白く、形を変えて。


だが本当の名は、下に残る。


夕方、ミナは証言を閉じた。


「今日はここまでです」


レインは頷いた。


「ありがとうございます」


ミナは記録帳を抱えたまま、少し考えた。


「レインさん」


「はい」


「私は、あなたの証言を記録しています。でも、あなたを楽にするためだけではありません」


レインは静かに聞いた。


「あなたが話すことで、誰かが苦しむかもしれません。英雄の家族だった人たちが、怒るかもしれない。悲しみ直すかもしれない」


「はい」


「それでも、話してください」


ミナの声は優しかった。


だが、その優しさは柔らかいだけではない。


声を奪われ、怒りを記録した者の強さがあった。


「記録は、誰かを楽にするためだけにあるのではないと思います。苦しむ権利を返すためにもある」


レインは深く頭を下げた。


「はい」


リュミナが言った。


「その後で食べる」


ミナは少し笑った。


「はい。その後で食べます」


夜、戻り香の家にノアが訪れた。


雪の中を来た彼女は、弦楽器を背負っていた。灰鷹平原の話を聞き、歌を作りたいと言ったのだ。


セリカは慎重だった。


「早すぎる」


ノアは頷いた。


「はい。だから完成させません。今は、音だけ置きます」


レインは戸惑った。


「私の罪が、歌になるのですか」


ノアは首を横に振った。


「あなたの罪だけではありません。帰れなかった兵たちのこと。灰星のこと。雪が蓋ではなく道になったこと。けれど、まだ歌い切るには早い」


リクが言った。


「途中の歌?」


ノアは微笑む。


「そう。途中の歌」


彼女は戻り香の家の炉の前で、静かに弦を鳴らした。


歌詞はほとんどない。


ただ、低い音。


雪を踏む足音。


遠くの馬の鼻息。


焦げた豆の匂い。


帰りたかった、という言葉にならない気配。


レインは椅子に座り、目を閉じた。


涙は出なかった。


ただ、深く息をした。


リオはその音を香りに受けた。


“途中の歌。”


すでに似た香りはある。


ミナの“証言ではない歌”。


だが、これは別だ。


まだ完成してはいけない歌。


語りきる前に、悲しみを音だけで置く歌。


ノアが弾き終えると、リュミナが言った。


「腹に沈む音だ」


ノアは笑った。


「褒め言葉ですね」


「そうだ」


レインはノアへ頭を下げた。


「ありがとうございます」


ノアは静かに答えた。


「完成したら、あなたにも聞いてもらいます。嫌なら、聞かなくていいです」


「聞きたいです」


「では、いつか」


リクが言った。


「急がなくていいやつだな」


「ええ」


ノアは頷いた。


「急がない歌です」


その夜、リオは棚に三つの小瓶を加えた。


“灰星は道を知っていた。”

“雪になる。”

“急がない歌。”


レインはそれを見て、静かに言った。


「私の周りに、少しずつ名前以外のものが戻ってきます」


「はい」


「馬。粥。歌。札。雪」


「それが必要です」


リオは棚を見た。


「名だけでは寒いですから」


レインは頷いた。


外では雪が降っている。


だが戻り香の家の中には、粥の湯気と弦の余韻と、馬のたてがみのような懐かしい匂いが残っていた。


名前は、裁きのためだけに戻るのではない。


生きていた証を取り戻すために戻る。


灰星のたてがみは、雪を覚えていた。


その記憶もまた、白盾の裏に小さく刻まれるべきものだった。

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