第四十一話 名前は、裁きの前に椀を持つ
レイン・ガルブレイスは、翌朝も自分の名を言った。
戻り香の家の台所には、まだ夜明けの青さが残っていた。炉には火が入り、ミナが薬草茶を注ぎ、リュミナは昨日の鍋の残りを温め直すべきか新しく作るべきかを真剣に検討していた。
リクは眠そうな顔で椅子に座り、金木犀の冬囲いに積もった雪を見に行くか、朝食を先に食べるかで迷っている。
その中で、レインは椅子から立ち上がった。
肩の傷はまだ痛むはずだ。顔色もよくない。だが、彼は昨日より背筋を伸ばしていた。
「レイン・ガルブレイスです」
誰も急かしていないのに、彼はそう言った。
声は掠れていた。
けれど、名は最後まで途切れなかった。
「昨日も聞いた」
リクが言った。
レインは少し戸惑う。
「はい」
「でも、今日も言った方がいいと思ったんだろ」
「……はい」
「なら、いいんじゃねえの」
リクは椀を押し出した。
「食えよ。名前言うと腹減る」
リュミナが深く頷いた。
「わかってきたな」
「お前のせいだよ」
「よい影響だ」
セリカが台所へ入ってきた。
白盾を背負い、顔には疲労が残っている。灰鷹平原から戻ったばかりで、彼女の右腕はまだ重い。盾の裏には、第三歩兵隊の名が刻まれ始めている。すべてではない。だが、最初の名たちはもう消えない。
「今日は王都へ報告書を書く」
彼女は言った。
「レイン、お前の証言も必要だ」
レインは椀を持つ手を止めた。
空気が少し硬くなる。
ミナがすぐに薬草茶を近づけた。
「急ぎません」
セリカも頷いた。
「今すぐ全部話せとは言わない。だが、書くことから逃げるな」
レインは椀の湯気を見つめた。
「はい」
「白盾記録院へは、お前自身が出ることになる」
「はい」
「ヴォルクも裁かれる。北西軍の旧記録も調べ直される。第三歩兵隊の遺族にも、いずれ知らせが行く」
レインの顔が歪んだ。
「はい」
「怖いか」
「怖いです」
即答だった。
セリカは少しだけ目を細めた。
「なら、怖いと書け」
レインは顔を上げた。
「証言に、ですか」
「そうだ。怖くなかったように書く必要はない。お前は二十年逃げた。今も怖い。だが戻った。それを記録する」
リオは静かに頷いた。
白盾記録院に必要なのは、整った英雄や完全な悔悟者だけではない。
怖いまま戻った者の記録。
それもまた、誰かの道になる。
レインは椀を両手で包み込むように持った。
「書きます」
リュミナが言った。
「先に食べてからだ」
「はい」
レインは素直に粥を食べた。
リクが満足そうに頷く。
「よし」
「お前が言う側になったな」
セリカが言うと、リクは少し照れたように顔をしかめた。
「別に」
朝食後、戻り香の家の調香室は記録室になった。
机の上には、灰鷹平原から持ち帰った香りの瓶が並ぶ。
“雪の下に名がある。”
“兵だった。人だった。”
“蓋ではない雪。”
“帰ったら、名前を聞く。”
さらに、個別の香り。
オーウェン・マルクの煙草。
ユーロ・ダンの焦げた豆。
ペトラ・エインの針油。
ロイ・カナの安い酒と薬包。
それらの小瓶を前に、レインは座っていた。
ミナが記録帳を開く。
リオは香炉を用意し、レインが記憶に飲まれそうになったらすぐ支えられるよう、“まだ聞かない”と“今日は雪”を手元に置いた。セリカは白盾を膝に乗せ、リュミナは窓辺で外を見ている。
リクは入口で座っていた。
セリカは最初、席を外させようとしたが、レインが「いてほしい」と言った。
リクは少し困った顔をした。
「俺、何もできないぞ」
「あなたが、ここへ戻る札をくれた」
レインは言った。
「だから、証言の最初にもいてほしい」
リクは耳を赤くした。
「……いるだけなら」
「それが大事です」
リオが言うと、リクはそっぽを向いた。
証言は、撤退命令の話から始まった。
レインは何度も止まった。
息が詰まり、手が震え、灰鷹平原の足音に引き戻されそうになった。そのたびにリオが香りを調整し、ミナが水を差し出し、セリカが「今はここだ」と短く言い、リュミナが「一口」と干し肉を渡そうとして止められた。
だが、レインは話した。
撤退命令が出た時刻。
命令書を受け取った場所。
上官ヴォルク・ゼーゲンが命令を変更した言葉。
「第三歩兵隊には死守と伝えろ。雪がすべてを英雄にする」
その言葉を書き取る時、ミナの筆は少し震えた。
レインは続けた。
命令書を焼いたこと。
灰鷹平原へ走ったこと。
オーウェン隊長に嘘を伝えたこと。
彼が一瞬、自分の顔を見たこと。
「隊長は気づいていたかもしれません」
レインは言った。
「でも、私は目を逸らした」
リオは問わない。
責めない。
ただ香りを読む。
目を逸らした瞬間の匂い。
焼けた紙。
凍った汗。
自分が生き残るために、誰かの死を確定させた匂い。
それを瓶にするべきか迷った。
すぐにはしなかった。
すべてを香りにすればよいわけではない。
まだ形にならない痛みもある。
昼まで証言は続いた。
途中でセリカが止めた。
「今日はここまで」
レインは顔を上げる。
「まだ」
「まだ話せる、は危険だ」
「でも」
「明日もある。王都でも話す。全部今日で終えるな」
レインは唇を噛んだ。
リクがぼそりと言う。
「名前も一日で全部決まんないしな」
レインは彼を見た。
そして、ゆっくり頷いた。
「はい」
ミナは記録帳を閉じた。
「昼食にしましょう」
リュミナが即座に立ち上がる。
「待っていた」
「あなたが一番元気ですね」
「証言を聞くのも腹が減る」
誰も強く否定しなかった。
食事の席で、レインは少しだけ自分の昔の話をした。
伝令になる前、彼は馬の世話係だったという。
馬の名前を覚えるのが得意だった。
「人の名前より、馬の名前の方が先に覚えられました」
彼は苦笑した。
「馬は嘘をつきませんから」
リクが聞く。
「好きな馬いたのか」
「灰星という牝馬がいました。灰色の毛で、額に白い星があった。足は速くないけれど、吹雪でも道を覚えていた」
リュミナが真剣に頷く。
「賢い馬だ」
「はい。賢かった」
レインの目が遠くなる。
「灰鷹平原の日、私は灰星で走りました。あの子は、撤退路の方へ行こうとしたんです。でも私は、手綱を引いて平原へ向かった」
沈黙。
レインは手を握った。
「馬の方が、正しい道を知っていた」
セリカが静かに言った。
「灰星の名も記録しろ」
レインが驚く。
「馬です」
「馬もいた」
リュミナが力強く言う。
「馬は大事だ」
リクも頷いた。
「名前あるなら、書けばいいだろ」
ミナは記録帳を開いた。
“灰星。レイン・ガルブレイスの伝令馬。吹雪でも道を覚えていた。”
レインは目を伏せた。
「ありがとうございます」
その午後、リオは新しい小瓶を作った。
馬の汗。
雪道。
革の手綱。
白い星。
進むべきではない道へ向かう人の手。
ラベルには、
“灰星は道を知っていた。”
と書いた。
それはレインの罪を軽くする香りではない。
だが、灰鷹平原の日に人間だけがいたわけではないことを思い出させる香りだった。
夕方、王都への第一報がまとめられた。
セリカが書簡を書き、ハルトが補足し、ミナが証言の写しを整え、リオが香りの注釈を添えた。
リュミナは余白にまた一文書こうとした。
“証言時には温かい食事を用意せよ。”
セリカは今度、消さなかった。
「今回は必要だ」
リュミナは満足した。
レインの処遇については、王都の判断を待つ必要がある。
彼は罪を認めている。
だが、彼自身も命令系統の中で使われ、名を消された者でもある。白盾記録院は、彼を加害者としてだけでなく、証言者としても扱うことになるだろう。
それは簡単ではない。
被害者の遺族が彼を許す必要はない。
彼自身が自分を許すことも、すぐにはできない。
それでも、彼の名が戻ったことで、灰鷹平原の雪は蓋ではなくなった。
夜、レインは戻り香の家の棚の前に立っていた。
そこには、自分に関わる瓶が並んでいる。
“今日は雪。”
“雪の下に名がある。”
“兵だった。人だった。”
“帰ったら、名前を聞く。”
“灰星は道を知っていた。”
彼は小さく言った。
「私には、多すぎる」
リオは隣に立った。
「多いですね」
「逃げたくなります」
「はい」
「逃げたら」
「戻る場所はあります」
レインはリオを見る。
リオは続けた。
「ただし、逃げたことも記録します」
レインは少しだけ笑った。
「厳しい家だ」
「そうですね」
「でも、温かい」
「それはよかった」
その時、リクがやって来た。
手には、新しい木札がある。
表には、
“今日はレイン。”
裏には、
“怖いまま書け。”
レインはそれを受け取ると、何度も読み返した。
「これは」
「明日の証言用」
リクは少し照れながら言った。
「セリカが言ってたから」
レインの目に涙が浮かぶ。
「ありがとうございます」
リクは慌てて言う。
「礼はいい。明日も粥食えよ」
「はい」
「あと、灰星の話、もっと聞かせろ」
レインは驚いた。
「馬の話を?」
「うん。戦場の話ばっかりだと、寒い」
リュミナが遠くから言った。
「名だけでは寒い。馬も必要だ」
セリカが暖炉のそばで頷く。
「その通りだ」
レインは木札を胸に当てた。
「明日、話します」
その夜、戻り香の家の外では雪が静かに降っていた。
金木犀の冬囲いは白く丸まり、竜祠の屋根には柔らかな雪が積もる。
灰鷹平原で取り戻した雪の匂いが、リューネ村の雪にも少し混じっている気がした。
リオは棚に新しい小瓶を置いた。
“怖いまま書け。”
それは、証言の香りだった。
勇敢に見せる必要はない。
悔悟を美しく飾る必要もない。
怖いまま、震える手で、名を書けばいい。
名前は、裁きの前に椀を持つ。
食べて、息をして、それから言葉にする。
戻り香の家では、それが許される。
香りは残る。
震える声にも。
粥の湯気にも。
そして、明日また自分の名を書くために眠る者の枕元にも。




