表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
追放された宮廷調香師は、辺境の村で竜の眠りを解く――香りだけで呪いも戦争も終わらせます  作者: たむ


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

40/53

第四十話 帰り道の雪は、もう蓋ではなかった

灰鷹平原を離れる時、レイン・ガルブレイスは何度も振り返った。


白い平原には、まだ多くの名が残っている。


第三歩兵隊の全員を一日で記録することはできなかった。隊長オーウェン・マルク、副長ハイネ・ロス、料理番ユーロ・ダン、裁縫係ペトラ・エイン、衛生兵見習いロイ・カナ。そして、ほかにも数十の名。


すべてを盾へ刻むには、時間がいる。


白盾は一度にすべてを背負えない。


人も、同じだった。


だからセリカは、平原に小さな白盾石の標を立てた。


その標には、まだ名は刻まれていない。ただ一文だけが刻まれた。


“ここに、帰りたかった人々がいる。”


ハルトは最初、「公式な表現としては」と言いかけたが、途中でやめた。


誰も、その言葉を直さなかった。


リュミナは標の前に小鍋の湯気を少しだけ捧げた。


「供物だ」


セリカは疲れた顔で言う。


「食べ物を置くな。獣が来る」


「湯気だけだ」


「ならいい」


レインは標の前で膝をついた。


「私は、また来ます」


彼は言った。


「証言のために。名を聞くために。逃げないために」


平原の奥から、微かな風が吹いた。


本物の雪の匂いがした。


それは返事ではなかったかもしれない。


だがリオには、オーウェンの煙草と焦げた豆の匂いが、ほんの少し混じっているように思えた。


ヴォルク・ゼーゲンと白外套の者たちは、ハルトの指揮で拘束された。


彼らは旧北西軍の残党ではなく、もっと厄介な集団だった。灰鷹平原の英雄譚を守ることで利益を得てきた旧軍人、地方貴族、戦没者慰霊財団の関係者。戦死者の名を利用し、英雄碑を建て、寄付を集め、北西軍の名誉を保ってきた者たち。


すべてが悪意だったわけではない。


中には、本気で第三歩兵隊を英雄だと信じ、その物語に支えられて生きてきた者もいた。


だからこそ、事は難しかった。


嘘が誰かを支えることもある。


けれど、その支えは雪の蓋であり、下にいる者たちの名を冷やし続けていた。


セリカは拘束されたヴォルクを見下ろした。


「お前も王都へ行く」


ヴォルクは椀を手にしたまま、うつろに笑った。


「王都は私を裁けまい。私を裁けば、北西戦線の英雄譚は崩れる」


「崩れるだろうな」


「民が怒る」


「怒ればいい」


「軍が割れる」


「割れるものを雪で固めてきたのだろう」


ヴォルクはセリカを睨んだ。


「白盾は国を弱くする」


セリカは白盾を背負い直した。


「違う。弱さを隠さない国にする」


それ以上、ヴォルクは何も言わなかった。


帰路は、行きよりも遅かった。


拘束者がいる。


レインは疲弊している。


セリカも白盾の負荷で腕が重い。


ミナは全員の体調を見ながら歩き、リオは香りを絶やさないようにした。リュミナは小鍋を背負い、時々「小鍋は偉大だ」と呟いた。


ハルトは王都へ先に使者を走らせた。


灰鷹平原の記録。


ヴォルク・ゼーゲンの生存と拘束。


第三歩兵隊の真実。


レイン・ガルブレイスの証言意思。


それらが王都に届けば、白盾記録院は大きく揺れるだろう。


英雄の物語を剥がすことは、罪を暴くこととは少し違う。


それを信じて生きてきた者の足元まで揺らすからだ。


夜、廃村に戻った時、リオは前夜差し込まれた紙を思い出した。


“英雄の眠りを暴くな。”


今は、その言葉の匂いが少し違って感じられる。


守りたいもの。


隠したいもの。


耐えられないもの。


それらが一枚の紙に押し込められていた。


ミナは廃屋で薬草茶を配りながら言った。


「英雄じゃなくなると、彼らを大切に思えなくなるのでしょうか」


ハルトは考え込んだ。


「多くの人は、そう感じるかもしれません。英雄だから敬っていた。立派な死だったから受け入れられた。そういう遺族もいるはずです」


レインは火の前で両手を握りしめていた。


「では、私はその人たちからも奪うのかもしれない」


セリカが言った。


「奪うのではない。返すんだ」


「何を」


「悲しむ権利だ」


その言葉に、廃屋の空気が静まった。


リュミナが小鍋の蓋を開けながら言う。


「英雄の家族は、誇ることを求められる。だが、帰ってこなかったことを怒ってもいい。泣いてもいい。腹を立ててもいい。鍋を食べてもいい」


ミナが頷いた。


「リューネ村の木札みたいですね」


リオは思った。


戻り香の家の木札。


“名を聞きます。

急かしません。

怒ってもいい。

泣いてもいい。

植えてもいい。

食事はあります。”


灰鷹平原にも、同じ木札が必要なのかもしれない。


英雄として祀る前に、人として悲しむ場所が。


その夜、レインは初めて自分から話した。


「オーウェン隊長には、娘がいました」


皆が火の周りに座っていた。


風は強かったが、廃屋の中には小鍋の湯気があり、リューネ村の薪の香りがあった。


「手紙を何度も読み返していた。字を覚えたばかりの子が書いたような、曲がった文字でした。隊長はそれを懐に入れていました。最後の朝、私に見せたんです。“帰ったら、この子に馬を見せる約束をしている”と」


レインの声は震えていたが、途切れなかった。


「私はその時、撤退命令が本物だったことを知っていた。隊長は帰れるはずだった。娘に馬を見せられるはずだった」


誰も慰めなかった。


慰めで覆ってはいけない痛みだった。


ミナは記録帳を開いた。


「記録してもいいですか」


レインは頷いた。


「お願いします」


ミナは書いた。


“オーウェン・マルク。娘へ馬を見せる約束をしていた。”


ハルトが低く言った。


「遺族を探します」


「生きていれば、もう大人でしょう」


リオが言う。


ハルトは頷く。


「はい。ですが、探します。知らせるかどうか、どう知らせるかは慎重に決めなければなりませんが」


レインは火を見ていた。


「会う資格はない」


セリカが言った。


「今はな」


レインは顔を上げる。


「今は?」


「お前が決めることではない。相手が会いたいと思うかどうかだ。だが、その時まで逃げずに証言し続けることはできる」


レインはゆっくり頷いた。


「はい」


その匂いは、昨日までの雪ではなかった。


冷たいが、動いている。


流れ始めた水の匂い。


翌日、一行はさらに南東へ戻った。


雪の匂いは、明らかに変わっていた。


行きの雪は蓋だった。


帰りの雪は、道だった。


足跡を残し、時々消し、それでも前へ進ませる。


リオはそれを小瓶に取った。


“蓋ではない雪。”


ラベルにはそう書いた。


リュミナが覗き込む。


「よい名だ」


「ありがとうございます」


「ただ、食べ物の要素が足りない」


「全部の香りに食べ物は入りません」


「入る余地はある」


レインが小さく笑った。


「では、帰ったら粥の香りを足してください」


リュミナは満足そうに頷いた。


「わかってきたな」


セリカはため息をついたが、止めなかった。


リューネ村が見えたのは、出発から六日目の夕方だった。


村の煙突から煙が上がっている。


戻り香の家の前には灯りがついていた。


金木犀の冬囲いは雪をかぶりながらも、しっかり立っている。


そして、入口の前にリクがいた。


寒さで頬を赤くし、木弓を背負い、腕を組んで立っていた。


一行を見つけると、彼は走り出した。


「遅い!」


最初の言葉がそれだった。


セリカが苦笑する。


「ただいま」


リクは一瞬、言葉に詰まった。


それから全員を見回した。


セリカ。


リオ。


ミナ。


リュミナ。


ハルト。


そして、レイン。


「全員いるな」


「はい」


リオが答える。


「怪我は?」


ミナが少し手を上げる。


「軽いものはあります。でも大丈夫です」


リュミナが言う。


「小鍋も無事だ」


「それも大事だけど」


リクはレインの前で止まった。


二人は向かい合った。


レインは胸元から木札を取り出した。


雪に濡れ、端が少し歪んでいる。


“今日は雪。”


裏には、


“帰ってきたら、名前を聞く。急がない。”


レインはそれを両手でリクへ返した。


「帰りました」


リクは札を受け取らなかった。


「名前は?」


レインは息を吸った。


雪ではない。


蓋ではない雪の匂いが、彼の周囲にあった。


「レイン・ガルブレイス」


彼は言った。


「王国軍伝令兵。灰鷹平原で撤退命令を焼き、第三歩兵隊へ死守命令を伝えた者です」


リクはじっと彼を見た。


「今日はレイン?」


レインの目に涙が浮かぶ。


「はい。今日は、レインです」


リクは木札を受け取り、裏返した。


しばらく見てから、言った。


「じゃあ、入れ。食事ある」


レインは泣き笑いのような顔になった。


「ありがとうございます」


「礼はいいから早く入れ。寒い」


リュミナが頷いた。


「正しい」


戻り香の家の中には、鍋が用意されていた。


エルマ婆が仕切り、村人たちが材料を持ち寄り、リクが何度も味見しようとしてミナに止められた鍋だ。薄い粥ではない。帰ってきた者たちのための、豆と肉と根菜のスープだった。


レインは椀を受け取った。


湯気が顔を包む。


彼は一口飲み、目を閉じた。


「温かい」


リュミナが満足そうに言う。


「覚えて帰ってきたな」


村人たちは灰鷹平原の詳細をすぐには聞かなかった。


セリカが「今日は帰った日だ。報告は明日」と言ったからだ。


その代わり、食べた。


戻った者も、待っていた者も。


リクはレインの隣に座り、何も聞かなかった。


ただ、自分の皿から干し肉を一切れ分けた。


レインはそれを見て、少し困惑した。


「よいのですか」


「今日だけ」


リュミナが目を光らせる。


「私にも」


「お前は自分の分あるだろ」


「分ける行為には意味がある」


「都合いいな」


レインは小さく笑い、干し肉を食べた。


その笑いは、戻り香の家の空気に馴染んだ。


夜、リオは棚に新しい瓶を置いた。


“雪の下に名がある。”


“兵だった。人だった。”


“蓋ではない雪。”


そして、帰り道の未完成だった瓶に、鍋の湯気を一滴足した。


ラベルには、リクが言った言葉を借りた。


“帰ったら、名前を聞く。”


それは、行きの不安と帰りの名乗りを繋ぐ香りだった。


レインは棚の前で長く立っていた。


「私の名が、ここにある」


「はい」


リオは言った。


「でも、あなたの名は瓶の中だけではありません。明日から、あなたが持って歩くものです」


レインは頷いた。


「重いです」


「はい」


「でも……雪よりは、温かい」


リオは微笑んだ。


「それはよかった」


外では雪が降っていた。


だが、その雪には匂いがあった。


金木犀の冬囲いの上にも、竜祠の屋根にも、戻り香の家の木札にも、静かに降り積もる。


雪は隠すこともある。


だが、道になることもある。


誰かが帰ってきて、名を言える場所があるなら。


香りは残る。


雪の下にも。


湯気の中にも。


そして、ようやく自分の名を口にした者の震える声にも。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ