第四十話 帰り道の雪は、もう蓋ではなかった
灰鷹平原を離れる時、レイン・ガルブレイスは何度も振り返った。
白い平原には、まだ多くの名が残っている。
第三歩兵隊の全員を一日で記録することはできなかった。隊長オーウェン・マルク、副長ハイネ・ロス、料理番ユーロ・ダン、裁縫係ペトラ・エイン、衛生兵見習いロイ・カナ。そして、ほかにも数十の名。
すべてを盾へ刻むには、時間がいる。
白盾は一度にすべてを背負えない。
人も、同じだった。
だからセリカは、平原に小さな白盾石の標を立てた。
その標には、まだ名は刻まれていない。ただ一文だけが刻まれた。
“ここに、帰りたかった人々がいる。”
ハルトは最初、「公式な表現としては」と言いかけたが、途中でやめた。
誰も、その言葉を直さなかった。
リュミナは標の前に小鍋の湯気を少しだけ捧げた。
「供物だ」
セリカは疲れた顔で言う。
「食べ物を置くな。獣が来る」
「湯気だけだ」
「ならいい」
レインは標の前で膝をついた。
「私は、また来ます」
彼は言った。
「証言のために。名を聞くために。逃げないために」
平原の奥から、微かな風が吹いた。
本物の雪の匂いがした。
それは返事ではなかったかもしれない。
だがリオには、オーウェンの煙草と焦げた豆の匂いが、ほんの少し混じっているように思えた。
ヴォルク・ゼーゲンと白外套の者たちは、ハルトの指揮で拘束された。
彼らは旧北西軍の残党ではなく、もっと厄介な集団だった。灰鷹平原の英雄譚を守ることで利益を得てきた旧軍人、地方貴族、戦没者慰霊財団の関係者。戦死者の名を利用し、英雄碑を建て、寄付を集め、北西軍の名誉を保ってきた者たち。
すべてが悪意だったわけではない。
中には、本気で第三歩兵隊を英雄だと信じ、その物語に支えられて生きてきた者もいた。
だからこそ、事は難しかった。
嘘が誰かを支えることもある。
けれど、その支えは雪の蓋であり、下にいる者たちの名を冷やし続けていた。
セリカは拘束されたヴォルクを見下ろした。
「お前も王都へ行く」
ヴォルクは椀を手にしたまま、うつろに笑った。
「王都は私を裁けまい。私を裁けば、北西戦線の英雄譚は崩れる」
「崩れるだろうな」
「民が怒る」
「怒ればいい」
「軍が割れる」
「割れるものを雪で固めてきたのだろう」
ヴォルクはセリカを睨んだ。
「白盾は国を弱くする」
セリカは白盾を背負い直した。
「違う。弱さを隠さない国にする」
それ以上、ヴォルクは何も言わなかった。
帰路は、行きよりも遅かった。
拘束者がいる。
レインは疲弊している。
セリカも白盾の負荷で腕が重い。
ミナは全員の体調を見ながら歩き、リオは香りを絶やさないようにした。リュミナは小鍋を背負い、時々「小鍋は偉大だ」と呟いた。
ハルトは王都へ先に使者を走らせた。
灰鷹平原の記録。
ヴォルク・ゼーゲンの生存と拘束。
第三歩兵隊の真実。
レイン・ガルブレイスの証言意思。
それらが王都に届けば、白盾記録院は大きく揺れるだろう。
英雄の物語を剥がすことは、罪を暴くこととは少し違う。
それを信じて生きてきた者の足元まで揺らすからだ。
夜、廃村に戻った時、リオは前夜差し込まれた紙を思い出した。
“英雄の眠りを暴くな。”
今は、その言葉の匂いが少し違って感じられる。
守りたいもの。
隠したいもの。
耐えられないもの。
それらが一枚の紙に押し込められていた。
ミナは廃屋で薬草茶を配りながら言った。
「英雄じゃなくなると、彼らを大切に思えなくなるのでしょうか」
ハルトは考え込んだ。
「多くの人は、そう感じるかもしれません。英雄だから敬っていた。立派な死だったから受け入れられた。そういう遺族もいるはずです」
レインは火の前で両手を握りしめていた。
「では、私はその人たちからも奪うのかもしれない」
セリカが言った。
「奪うのではない。返すんだ」
「何を」
「悲しむ権利だ」
その言葉に、廃屋の空気が静まった。
リュミナが小鍋の蓋を開けながら言う。
「英雄の家族は、誇ることを求められる。だが、帰ってこなかったことを怒ってもいい。泣いてもいい。腹を立ててもいい。鍋を食べてもいい」
ミナが頷いた。
「リューネ村の木札みたいですね」
リオは思った。
戻り香の家の木札。
“名を聞きます。
急かしません。
怒ってもいい。
泣いてもいい。
植えてもいい。
食事はあります。”
灰鷹平原にも、同じ木札が必要なのかもしれない。
英雄として祀る前に、人として悲しむ場所が。
その夜、レインは初めて自分から話した。
「オーウェン隊長には、娘がいました」
皆が火の周りに座っていた。
風は強かったが、廃屋の中には小鍋の湯気があり、リューネ村の薪の香りがあった。
「手紙を何度も読み返していた。字を覚えたばかりの子が書いたような、曲がった文字でした。隊長はそれを懐に入れていました。最後の朝、私に見せたんです。“帰ったら、この子に馬を見せる約束をしている”と」
レインの声は震えていたが、途切れなかった。
「私はその時、撤退命令が本物だったことを知っていた。隊長は帰れるはずだった。娘に馬を見せられるはずだった」
誰も慰めなかった。
慰めで覆ってはいけない痛みだった。
ミナは記録帳を開いた。
「記録してもいいですか」
レインは頷いた。
「お願いします」
ミナは書いた。
“オーウェン・マルク。娘へ馬を見せる約束をしていた。”
ハルトが低く言った。
「遺族を探します」
「生きていれば、もう大人でしょう」
リオが言う。
ハルトは頷く。
「はい。ですが、探します。知らせるかどうか、どう知らせるかは慎重に決めなければなりませんが」
レインは火を見ていた。
「会う資格はない」
セリカが言った。
「今はな」
レインは顔を上げる。
「今は?」
「お前が決めることではない。相手が会いたいと思うかどうかだ。だが、その時まで逃げずに証言し続けることはできる」
レインはゆっくり頷いた。
「はい」
その匂いは、昨日までの雪ではなかった。
冷たいが、動いている。
流れ始めた水の匂い。
翌日、一行はさらに南東へ戻った。
雪の匂いは、明らかに変わっていた。
行きの雪は蓋だった。
帰りの雪は、道だった。
足跡を残し、時々消し、それでも前へ進ませる。
リオはそれを小瓶に取った。
“蓋ではない雪。”
ラベルにはそう書いた。
リュミナが覗き込む。
「よい名だ」
「ありがとうございます」
「ただ、食べ物の要素が足りない」
「全部の香りに食べ物は入りません」
「入る余地はある」
レインが小さく笑った。
「では、帰ったら粥の香りを足してください」
リュミナは満足そうに頷いた。
「わかってきたな」
セリカはため息をついたが、止めなかった。
リューネ村が見えたのは、出発から六日目の夕方だった。
村の煙突から煙が上がっている。
戻り香の家の前には灯りがついていた。
金木犀の冬囲いは雪をかぶりながらも、しっかり立っている。
そして、入口の前にリクがいた。
寒さで頬を赤くし、木弓を背負い、腕を組んで立っていた。
一行を見つけると、彼は走り出した。
「遅い!」
最初の言葉がそれだった。
セリカが苦笑する。
「ただいま」
リクは一瞬、言葉に詰まった。
それから全員を見回した。
セリカ。
リオ。
ミナ。
リュミナ。
ハルト。
そして、レイン。
「全員いるな」
「はい」
リオが答える。
「怪我は?」
ミナが少し手を上げる。
「軽いものはあります。でも大丈夫です」
リュミナが言う。
「小鍋も無事だ」
「それも大事だけど」
リクはレインの前で止まった。
二人は向かい合った。
レインは胸元から木札を取り出した。
雪に濡れ、端が少し歪んでいる。
“今日は雪。”
裏には、
“帰ってきたら、名前を聞く。急がない。”
レインはそれを両手でリクへ返した。
「帰りました」
リクは札を受け取らなかった。
「名前は?」
レインは息を吸った。
雪ではない。
蓋ではない雪の匂いが、彼の周囲にあった。
「レイン・ガルブレイス」
彼は言った。
「王国軍伝令兵。灰鷹平原で撤退命令を焼き、第三歩兵隊へ死守命令を伝えた者です」
リクはじっと彼を見た。
「今日はレイン?」
レインの目に涙が浮かぶ。
「はい。今日は、レインです」
リクは木札を受け取り、裏返した。
しばらく見てから、言った。
「じゃあ、入れ。食事ある」
レインは泣き笑いのような顔になった。
「ありがとうございます」
「礼はいいから早く入れ。寒い」
リュミナが頷いた。
「正しい」
戻り香の家の中には、鍋が用意されていた。
エルマ婆が仕切り、村人たちが材料を持ち寄り、リクが何度も味見しようとしてミナに止められた鍋だ。薄い粥ではない。帰ってきた者たちのための、豆と肉と根菜のスープだった。
レインは椀を受け取った。
湯気が顔を包む。
彼は一口飲み、目を閉じた。
「温かい」
リュミナが満足そうに言う。
「覚えて帰ってきたな」
村人たちは灰鷹平原の詳細をすぐには聞かなかった。
セリカが「今日は帰った日だ。報告は明日」と言ったからだ。
その代わり、食べた。
戻った者も、待っていた者も。
リクはレインの隣に座り、何も聞かなかった。
ただ、自分の皿から干し肉を一切れ分けた。
レインはそれを見て、少し困惑した。
「よいのですか」
「今日だけ」
リュミナが目を光らせる。
「私にも」
「お前は自分の分あるだろ」
「分ける行為には意味がある」
「都合いいな」
レインは小さく笑い、干し肉を食べた。
その笑いは、戻り香の家の空気に馴染んだ。
夜、リオは棚に新しい瓶を置いた。
“雪の下に名がある。”
“兵だった。人だった。”
“蓋ではない雪。”
そして、帰り道の未完成だった瓶に、鍋の湯気を一滴足した。
ラベルには、リクが言った言葉を借りた。
“帰ったら、名前を聞く。”
それは、行きの不安と帰りの名乗りを繋ぐ香りだった。
レインは棚の前で長く立っていた。
「私の名が、ここにある」
「はい」
リオは言った。
「でも、あなたの名は瓶の中だけではありません。明日から、あなたが持って歩くものです」
レインは頷いた。
「重いです」
「はい」
「でも……雪よりは、温かい」
リオは微笑んだ。
「それはよかった」
外では雪が降っていた。
だが、その雪には匂いがあった。
金木犀の冬囲いの上にも、竜祠の屋根にも、戻り香の家の木札にも、静かに降り積もる。
雪は隠すこともある。
だが、道になることもある。
誰かが帰ってきて、名を言える場所があるなら。
香りは残る。
雪の下にも。
湯気の中にも。
そして、ようやく自分の名を口にした者の震える声にも。




