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追放された宮廷調香師は、辺境の村で竜の眠りを解く――香りだけで呪いも戦争も終わらせます  作者: たむ


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第三十九話 英雄の眠りを守る者たち

灰鷹平原の雪は、名を呼ぶたびに匂いを取り戻した。


最初はわずかだった。


隊長オーウェン・マルクの煙草。副長ハイネ・ロスの革手袋。弓兵テオ・バルが隠し持っていた干し林檎。水係サナ・イリスの銅の水筒。鼓手ミル・コートの小さな太鼓。


それらは戦史には残らない。


英雄譚にもならない。


だが、彼らが人としてそこにいた証だった。


「次」


セリカが白盾を構えたまま言った。


声はいつもより低い。


右腕の白紋は強く光り、盾の裏には次々と名が刻まれている。だが一気に受け止めれば、彼女の身体が壊れる。リオは香りを調整しながら、名の流れを細く保とうとしていた。


ミナは手を震わせながら記録を続けている。


ハルトは軍務記録の空白と照合し、一つひとつの名へ補足を書き込んだ。リュミナは平原の中央で白い息を吐き、雪の下から立ち上がる記憶が暴れないように包んでいる。


レイン・ガルブレイスは、膝をついたまま名を聞いていた。


逃げない。


顔は死人のように白いが、逃げない。


隊長オーウェンの影が、次の名を告げた。


――料理番、ユーロ・ダン。


雪の中に、焦げた豆の匂いが立った。


続いて、誰かの笑い声。


――いつも焦がしていた。


別の影が呟く。


――でも寒い夜は、焦げた豆でもありがたかった。


リュミナが真剣に頷いた。


「焦げた豆も、状況によっては価値がある」


セリカが苦しそうな顔のまま言う。


「今それを言うのか」


「食事の記録は重要だ」


リオは、焦げた豆の香りを小瓶に受けた。


ユーロ・ダン。


料理番。


焦げた豆。


雪の夜に笑われ、それでも椀を空にされた人。


次の名。


――裁縫係、ペトラ・エイン。


針油と毛糸の匂い。


破れた手袋を縫う手。


――衛生兵見習い、ロイ・カナ。


薬草ではなく、安い酒で傷を拭いていた匂い。


ミナが顔をしかめる。


「痛そうです」


影の一人が笑ったように揺れた。


――痛かった。


また次の名。


また香り。


名だけでは寒い。


だから生活の匂いを拾う。


だが、名が増えるほど、平原は重くなっていった。


白い影は数十に増えた。


見えない者もいる。


姿を保てないほど名を削られた者たちだ。


リオは鼻の奥が痛くなるのを感じた。


匂いが戻りすぎている。


雪、血、鉄、豆、革、煙草、薬、汗、恐怖、嘘。


すべてが混じり、灰鷹平原の真実が形を取り始める。


その時、遠くで笛が鳴った。


全員が振り返る。


平原の東側。


雪煙の向こうに、黒い人影がいくつも現れた。


馬ではない。


徒歩。


白い外套をまとい、顔を布で隠した者たち。


ハルトが剣を抜いた。


「何者だ!」


返事の代わりに、矢が飛んだ。


セリカが白盾を掲げる。


矢は盾に当たり、雪の上へ落ちた。


「敵か」


リュミナの瞳が竜のものへ変わる。


白い外套の先頭に立つ者が、布を外した。


老人だった。


痩せた顔。


鋭い目。


首元には古い軍章。


ハルトが息を呑む。


「北西軍の旧章……」


老人は平原へ響く声で言った。


「英雄の眠りを乱すな」


昨日の紙と同じ言葉だった。


レインが震えた。


「その声……」


老人は彼を見た。


「生きていたか、伝令」


レインの顔から血の気が引く。


「副参謀……ヴォルク・ゼーゲン」


ハルトが記録をめくる。


「ヴォルク・ゼーゲンは、十年前に死亡扱いです」


老人は冷たく笑った。


「記録とは便利なものだ。死んだことにも、生きたことにもできる」


セリカが剣を抜く。


「灰鷹平原の命令を変えた者か」


ヴォルクは顔色ひとつ変えなかった。


「戦争には犠牲が必要だ」


その一言で、平原の影たちが揺れた。


レインが叫んだ。


「撤退命令は出ていた! 第三歩兵隊は救えた!」


「救えなかった」


ヴォルクは即座に言った。


「本隊が退けば、敵は追撃する。誰かが残らねばならなかった。第三歩兵隊は、その役目を果たした」


「なら、なぜ嘘をついた!」


レインの声が裂ける。


「なぜ志願した英雄にした! なぜ命令書を焼かせた!」


ヴォルクは雪原を見渡した。


「国には物語が必要だ。敗走ではなく、英雄譚が。置き去りではなく、献身が。そうしなければ、北西の民は軍を信じられなかった」


セリカの白盾が鈍く鳴った。


「信頼を嘘で作ったのか」


「秩序を守ったのだ」


「違う」


ミナが震える声で言った。


全員が彼女を見た。


彼女は記録帳を胸に抱え、白い外套の者たちを見つめていた。


「声を奪って静かにしても、秩序ではありません。名前を消して英雄にしても、救いではありません」


ヴォルクの目が細くなる。


「小娘が」


リュミナが一歩前へ出た。


空気が震える。


「その小娘は、自分の声を取り戻した者だ。お前より重い言葉を持つ」


ヴォルクの後ろの兵たちが怯える。


白竜の気配を感じたのだ。


だがヴォルクは引かなかった。


「白竜。王都はついに竜まで政治に使うか」


「私は私の腹と記憶で動く」


「腹?」


「重要だ」


セリカが小さく言った。


「この場でもぶれないな」


リオはヴォルクの匂いを読んだ。


老人からは、強い恐怖の匂いがした。


だが、それは自分の命への恐怖ではない。


自分が守ってきた物語が崩れる恐怖。


英雄譚。


北西軍の誇り。


自分の出世。


戦友たちの名誉。


二十年かけて雪の下に固めた嘘。


それが溶けることを、彼は何より恐れている。


「ヴォルク・ゼーゲン」


リオは静かに言った。


「あなたは、第三歩兵隊のために英雄譚を守っているつもりですか」


老人はリオを睨んだ。


「調香師か。王都の甘い改革に乗った香水屋め」


「答えてください」


「そうだ。彼らは英雄として眠るべきだ。置き去りにされた兵として掘り返されるべきではない」


その時、隊長オーウェンの影が動いた。


雪の中から、一歩。


影はヴォルクへ向かった。


ヴォルクの顔がこわばる。


「来るな」


――副参謀殿。


影の声は静かだった。


――我々は英雄になりたかったわけではない。


ヴォルクの唇が震えた。


「黙れ」


――帰りたかった。


その一言で、平原の雪が低く鳴った。


他の影たちも、ゆっくりと揺れる。


帰りたかった。


その匂いが広がる。


冷えた足。


家族の手紙。


食べかけの干し林檎。


縫いかけの手袋。


焦げた豆。


雪の夜に思い出した家の炉。


英雄譚の中には入らなかった、あまりにも人間らしい願い。


ヴォルクは叫んだ。


「黙れ! お前たちが英雄でなければ、何のために死んだ! 何のために私は……!」


言葉が止まった。


リオはそこに、隠された香りを感じた。


罪悪感。


ヴォルクもまた、完全に冷たい男ではなかった。


彼は罪を美談で覆わなければ、自分が耐えられなかったのだ。


セリカが言った。


「お前のために、彼らを英雄にしたのか」


ヴォルクは剣を抜いた。


「白盾記録院など、国を弱くするだけだ! 罪を掘り返せば、兵は命令を疑う! 民は王を疑う! 軍は動かなくなる!」


「疑われて困る命令を出すな」


セリカは白盾を構えた。


白い外套の兵たちが一斉に動く。


彼らは旧北西軍の残党か、ヴォルクに従う私兵か。


矢と短剣が飛ぶ。


リュミナが白い光でそれらを弾いた。


「殺すな!」


リオが叫ぶ。


「彼らも記録の証人です!」


セリカは舌打ちしながら前へ出た。


白盾で矢を受け、剣の柄で一人を打ち倒す。


ハルトは素早く二人の武器を弾き飛ばした。


ミナは負傷者が出ないよう、眠り草の煙を低く流す。


リュミナは竜の力を抑えていた。


本気を出せば平原ごと吹き飛ばせる。


だが、ここは名を拾う場所だ。


新しい死を増やしてはいけない。


レインは動けなかった。


ヴォルクを見ている。


自分に嘘を命じた男。


二十年、名を奪った男。


そして、自分と同じように罪に耐えられず、物語へ逃げた男。


ヴォルクがレインへ迫る。


「お前が黙っていればよかったのだ、伝令! 死んだことにしてやった! 生きる場所を与えた! なぜ戻った!」


レインは後ずさる。


手にはリクの札。


“今日は雪。”


“帰ってきたら、名前を聞く。急がない。”


彼はそれを握りしめた。


「生きる場所ではなかった」


レインは言った。


「名を言えない場所は、生きる場所ではなかった」


ヴォルクの剣が振り下ろされる。


セリカが間に入ろうとした。


だが、その前に白い影が動いた。


隊長オーウェン。


彼の影がレインの前に立ち、ヴォルクの剣を受け止めた。


実体のない影のはずだった。


だが剣は、雪の中で止まった。


――副参謀殿。


オーウェンの声が低く響く。


――もう命令はいらない。


ヴォルクの剣が震える。


「私は……私は国のために」


――ならば、国に記録されよ。


その言葉と同時に、セリカの白盾が強く光った。


盾の裏に新しい文字が刻まれる。


“命令改竄者 ヴォルク・ゼーゲン”


ヴォルクが悲鳴を上げた。


白盾の光は彼を焼かなかった。


だが、逃げ道を奪った。


名が記録される。


罪と共に。


彼が最も恐れていたこと。


「やめろ! 私は英雄を守った!」


セリカが低く言う。


「違う。自分を守った」


ヴォルクは膝をついた。


白い外套の兵たちも、次々に武器を落としていく。眠り草の煙が効いた者もいれば、白盾の光を見て戦意を失った者もいた。


ハルトが彼らを拘束する。


「全員、名を名乗れ。記録する」


何人かは抵抗しようとした。


だがリュミナが竜の瞳で見下ろすと、静かになった。


レインはオーウェンの影を見ていた。


「隊長……」


――レイン。


初めて、影が彼の名を呼んだ。


レインの顔が崩れた。


――お前の嘘で我々は死んだ。


その言葉は刃だった。


レインは受けた。


逃げなかった。


――だが、お前だけが殺したのではない。


レインは泣いていた。


雪の上に涙が落ちる。


――記録しろ。


オーウェンは言った。


――我々が帰りたかったことを。焦げた豆を食ったことを。矢が尽きたことを。撤退命令があったことを。レイン・ガルブレイスが嘘を伝えたことを。ヴォルク・ゼーゲンが命令を改竄したことを。隊長オーウェン・マルクが、兵に真実を言えなかったことを。


レインは嗚咽しながら頷いた。


「記録します」


――英雄にするな。


「はい」


――犬死ににもするな。


レインは顔を上げた。


オーウェンの影は、少しだけ穏やかに見えた。


――我々は、兵だった。人だった。それでいい。


リオはその言葉を香りに受けた。


兵だった。


人だった。


それでいい。


英雄でも、犠牲の数字でも、失敗の隠蔽でもない。


名を持ち、焦げた豆を食べ、帰りたかった人々。


灰鷹平原の雪が、さらに匂いを取り戻していく。


本物の雪。


冷たく、静かで、やがて溶けるもの。


リュミナが小鍋を火にかけ始めた。


ハルトが驚く。


「今ですか?」


「今だ」


リュミナは断言した。


「名が戻った。食べるべきだ」


ミナは少し迷い、それから頷いた。


「温かいものが必要です。生きている人にも、記録する人にも」


セリカは白盾を下ろした。


彼女の顔色は悪い。


盾の裏には、多くの名が刻まれている。


だが、立っている。


「小鍋を持ってきた意味があったな」


リュミナは得意げに言った。


「私は正しい」


「今回はな」


平原の中央で、小鍋の湯気が上がった。


拘束された兵たちにも、傷がなければ椀が渡された。


ヴォルクにも、ハルトの判断で一椀置かれた。


老人はそれを睨んでいたが、やがて震える手で受け取った。


レインは椀を持って、オーウェンの影の前に立った。


「隊長」


影は椀を持てない。


だが、湯気は届いた。


焦げた豆ではない。


けれど豆の入った温かいスープ。


オーウェンの影が、少しだけ笑ったように揺れた。


――ユーロより上手い。


平原の影たちの間に、小さな笑いが広がった。


リュミナは真剣に言った。


「私の監修だ」


セリカが疲れた声で返す。


「豆を入れただけだろう」


「重要な判断だ」


リオは笑いそうになり、胸の痛みで咳き込んだ。


灰鷹平原はまだ終わっていない。


すべての名を拾うには時間がかかる。


ヴォルクたちの背後にも、さらに記録すべき者がいるだろう。


王都へ戻れば、軍と貴族と民会が揺れる。


英雄譚を失うことに耐えられない者も出る。


レインの裁きも始まる。


けれど、最初の記録は始まった。


夜が近づく頃、リオは新しい瓶に香りを封じた。


雪の匂いが戻った平原。


隊長オーウェンの煙草。


ユーロの焦げた豆。


ヴォルクの崩れた英雄譚。


レインの涙。


小鍋の湯気。


そして、影たちが笑った一瞬。


ラベルには、オーウェンの言葉を書いた。


“兵だった。人だった。”


レインはその瓶を見て、深く頭を下げた。


「戻り香の家へ、持って帰れますか」


「はい」


リオは答えた。


「リクさんが、待っています」


レインは胸元の木札に触れた。


「帰ったら、名を言います」


「急がなくていいです」


レインは小さく笑った。


「はい。でも、言いたい」


灰鷹平原に、雪が降り始めた。


今度の雪には、匂いがあった。


空から降る、普通の雪の匂い。


それだけで、平原は少しだけ救われたように見えた。

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