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追放された宮廷調香師は、辺境の村で竜の眠りを解く――香りだけで呪いも戦争も終わらせます  作者: たむ


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第三十一話 盾の裏には、まだ読めない名がある

リューネ村へ帰る道で、リクはよく眠った。


王都では眠りが浅かったのだろう。馬車に乗って半刻も経たないうちに、彼は小さな木弓を抱えたまま眠り込んだ。膝の上には、リオが作った小瓶が一つある。


“まだ聞かない。”


それはリクが名づけた香りだった。


謝罪を受け取る準備ができていない時、自分の前に盾を置くための香り。拒絶ではなく、猶予。逃避ではなく、境界。王都でエルヴィンとリュミナが交わした短い会話から生まれたものだ。


リュミナは向かいの席で、干し肉の袋を抱えていた。


「リクはよく寝る」


「疲れたんですよ」


リオが答えると、リュミナは頷いた。


「王都は疲れる。匂いが多すぎる。嘘、石、紙、香水、油、罪、鍋の改善余地」


「最後だけ少し違います」


「重要だ」


セリカは馬車の端で白盾を外し、布の上に置いていた。


帰路についてから、彼女は何度も盾の裏を見ている。白盾記録院でリュミナが言った通り、盾の裏には細い線が浮かび始めていた。文字か、傷か、まだ判別できない。光の角度によっては、誰かの名のようにも見える。


ミナがそっと尋ねた。


「痛みますか」


セリカは盾を見つめたまま答えた。


「痛むというより、重い」


「腕ですか」


「いや。背中だ」


リオはその言葉で、香りを読んだ。


セリカの周囲には、白盾の石の匂いに混じって、遠い雨と焦げた麦、子どもの泣き声、馬の汗、古い戦場の土が漂っている。それは彼女自身の記憶ではない。


盾の裏に刻まれた、アールヴェが守れなかった者たちの名。


「無理に読まない方がいいです」


リオは言った。


セリカは皮肉げに笑う。


「お前がそれを言うか」


「僕が言うから説得力がある場合もあります」


「自分で言うな」


リュミナが真剣に頷いた。


「リオはよく無理をする。だから無理の匂いに詳しい」


「褒められていない気がします」


「褒めていない」


リオは苦笑した。


セリカは盾を布で包んだ。


「リューネ村へ戻ってからだ。王都の匂いが残ったまま読むものではない」


「はい」


ミナが頷く。


「戻り香の家で、香りを整えてからにしましょう」


リクが寝言のように呟いた。


「……鍋……」


全員が彼を見る。


リュミナが満足そうに言った。


「よい夢だ」


リューネ村へ着く頃には、夕方だった。


村の入口に立つ標柱が、傾いた光に照らされている。


“王都の者を信じるな。”


“それでも、名を聞け。”


“お腹がすいたら鍋へ。”


リクは馬車から降りるなり、その文字を見て深く息を吸った。


「帰った」


「はい」


リオが言うと、リクは照れくさそうに顔を背けた。


「ただいまって言うほどじゃない」


戻り香の家の扉が開き、エルマ婆が出てきた。


「おかえり」


リクは少し固まった。


それから、小さく言った。


「……ただいま」


その声は、聞き逃しそうなほど小さかった。


けれど、戻り香の家の前にいた全員に届いた。


リュミナは満足げに頷く。


「戻った者には食事が必要だ」


エルマ婆は笑った。


「用意してあるよ。王都帰りの胃に効く、薄めのスープだ」


「薄め……」


リュミナは少し不満そうだった。


セリカが言う。


「今日はそれでいい」


「明日は濃くする」


「交渉するな」


その夜、戻り香の家では静かな食事が行われた。


王都での式のような緊張はない。


村人たちが少しずつ集まり、王都の話を聞きたがった。白盾記録院のこと、王都の鍋の味、リクが何を言ったのか、ミナの言葉が記録されたこと。セリカは必要なことだけを簡潔に話し、リオが補足し、リュミナが王都の鍋について長く語ろうとして止められた。


リクはあまり話さなかった。


だが、村の子どもに「王都怖かった?」と聞かれると、少し考えて答えた。


「匂いが多い。あと新聞屋が面倒」


「新聞屋って何?」


「人の名前を勝手に大きくするやつ」


子どもはよくわからない顔をした。


リクは木弓を取り出し、そばかすの少年からもらった矢を見せた。


「でも、これ持ってたから大丈夫だった」


そばかすの少年は誇らしげに胸を張った。


リオはその様子を見て、“王都へ持っていった木の矢”の香りもいつか残しておくべきかもしれないと思った。


食後、セリカは戻り香の家の調香室へ入った。


リオ、ミナ、リュミナも続く。リクは少し迷ったが、「見ていいなら」と言って入口近くに座った。


机の上に、白盾が置かれる。


表にはアールヴェ・アルヴァンの名。


裏には、まだ読めない細い線。


リオは灯りを落とし、香炉に薄い香を焚いた。


白盾の朝。


雨を受け入れ始めた石。


アールヴェの焼き栗。


そして、“まだ聞かない”をほんの一滴。


急かさないために。


セリカは盾の裏へ手を置いた。


「読むぞ」


「無理はしないでください」


リオが言うと、彼女は薄く笑った。


「その台詞をお前から聞くたび、少し腹が立つ」


「すみません」


「だが、聞いておく」


白盾が淡く光った。


最初に匂ったのは、雨ではなかった。


煙。


焦げた麦。


泣く子ども。


泥に倒れた旗。


女の声。


――守れなかった名も、盾の裏に刻め。


アールヴェの声だ。


リュミナが息を呑む。


「その声……」


セリカの右腕の白紋が光る。


盾の裏に、文字が一つ浮かんだ。


“ヘルナ”


知らない名。


続いて、別の名。


“トーヴ”


“ミリ”


“カシア村の十一名”


“西門の子ら”


“名を聞けなかった兵”


文字は完全ではない。


かすれている。


しかし、確かに名が出てくる。


ミナが震える声で言った。


「これは……白盾が守れなかった人たち?」


リオは香りを読みながら頷いた。


「はい。おそらく、アールヴェが記録した名です。王国史に載らず、罪の回廊にも入れられなかった人々」


セリカの顔色が悪くなっていく。


名が浮かぶたびに、彼女の腕へ重さが流れ込んでいるのだろう。


リオは香りを弱めた。


「今日はここまで」


「まだ読める」


「だから止めます」


セリカは不満そうに彼を見た。


リオは引かなかった。


「白盾は全部を一度に背負うものではありません。盾の裏も、少しずつです」


リュミナが頷いた。


「アールヴェも、一晩で全部刻んだわけではない」


セリカは長く息を吐き、手を離した。


白盾の光が薄れる。


浮かんだ名は消えなかった。


盾の裏に、細く刻まれたまま残っている。


リクが小声で言った。


「消えないんだ」


「はい」


リオは答えた。


「読めた名は、残ります」


「読んだら重くなるのに?」


セリカが言った。


「だから盾に刻むんだ。頭や胸だけで持つと、人は壊れる」


リクは少し考えた。


「俺のリオンも、盾に刻める?」


部屋が静かになった。


リクは慌てて言った。


「いや、消したいとかじゃなくて。重いから。夜の道だけど、たまに重い」


リオはゆっくり頷いた。


「刻むというより、置く場所を作ることはできます。棚でも、小瓶でも、手紙でも、誰かとの約束でも」


リュミナが言う。


「鍋でも」


リクは少し笑った。


「それは置き場所なのか?」


「食べれば中に入る」


「何か違う」


ミナが優しく言った。


「でも、食事の記憶に支えられる名前もあります。リクも、金木犀だけだったらつらかったでしょう?」


リクは少し黙った。


「焼き栗があったから、ましだった」


「なら、そういうことです」


リクは頷いた。


セリカは盾の裏を見つめていた。


「これをどうする」


「白盾記録院へ報告しますか」


リオが尋ねると、セリカはすぐには答えなかった。


「報告はする。だが、全部を王都へ渡す気はない」


リュミナが頷く。


「白盾の裏は、白盾が持つべきだ」


「ただし、名は記録されるべきです」


ミナが言った。


「この人たちも、忘れられたままではいけない」


セリカは目を閉じた。


「わかっている。だから、ここで写しを作る。戻り香の家の記録として。王都には写しを送る。原本は私が持つ」


「重くありませんか」


リオが問うと、セリカは白盾を持ち上げた。


「重い」


そして、少しだけ笑った。


「だが、持てないほどではない」


その言葉は、白盾そのものの答えのようだった。


翌日から、盾の裏の名を読む作業が始まった。


一日に三つまで。


それ以上は読まない。


ミナが記録し、リオが香りを調整し、リュミナが古い記憶を補い、セリカが盾を持つ。リクは時々同席し、知らない名が出るたびに「その人、何食べてたんだろ」と言った。


最初は場違いに思えた。


だが、リュミナが真剣に頷いた。


「大事だ。名だけでは寒い。何を食べたか、どこで笑ったか、誰に怒ったか。それがないと、また石になる」


リオはその言葉を記録した。


名だけでは寒い。


白盾の裏に刻まれた人々は、被害者の名簿ではない。


生きていた人たちだ。


その生活の香りを、可能な限り戻さなければならない。


“ヘルナ”には、焦げた麦と青い布の香りがあった。


“トーヴ”には、馬の汗と木の笛。


“ミリ”には、酸っぱい果実と小さな手袋。


“カシア村の十一名”には、川魚を焼く煙と、雨漏りする屋根の匂い。


少しずつ、名は温度を取り戻していった。


数日後、王都へ第一の写しが送られた。


添えた書簡に、セリカはこう書いた。


“白盾の裏に刻まれた名は、王国史の空白である。

ただし、これを政治の材料や見世物に使うことを禁じる。

名だけを掲げるな。生活の香りも探せ。”


リュミナは隣に一文を書き加えた。


“何を食べていたかも記録せよ。”


セリカは消そうとしたが、リオとミナが止めた。


「必要です」


リオは言った。


セリカは深くため息をつき、そのまま送った。


その返書は、意外にも国王直筆で届いた。


――白盾の裏の名、確かに受け取った。

――名だけでは寒い、という言葉を記憶院に伝える。

――食事の記録についても、調査項目に加える。


リュミナは満足そうに言った。


「よい王だ」


セリカは額を押さえた。


「王国の公式調査項目に食事が入った……」


「白盾の記録は生活を含むべきです」


ミナが真面目に言う。


リオも頷いた。


「王国史が少し温かくなるかもしれません」


「温かい王国史、か」


セリカは少しだけ笑った。


「悪くない」


リクはその頃、毎朝の名前をこう言うようになっていた。


「今日はリク。リオンは夜の道。王子は畳んだ服」


リュミナはある朝、それを聞いて言った。


「畳んだ服は虫に食われる」


リクは顔をしかめた。


「何でそんなこと言うんだよ」


「時々風を通せ」


「王子の服に?」


「そうだ」


リクはしばらく考えた。


「……たまになら」


リオはそれも記録した。


“畳んだ服に風を通す。”


いつか、リクが王城へ行く日があるかもしれない。


王族としてではなくても、リオンという名の道を少し歩く日が来るかもしれない。


その日まで、服は畳んでおけばいい。


虫に食われないよう、ときどき風を通しながら。


春が終わりに近づく頃、戻り香の家には新しい看板が増えた。


入口の横、小さな棚の上に置かれた木札。


“名を聞きます。

急かしません。

食事はあります。”


リクが最後の一文を見て言った。


「これ、リュミナが書いたのか」


「私が提案した」


リュミナは胸を張る。


ミナが笑った。


「でも、みんなで認めました」


セリカは不服そうだったが、消さなかった。


その日も、戻り香の家には人が来た。


王都から来た若い記録官。


父の罪を知った商人。


白盾の裏に名が見つかった村の子孫。


そして、名前を言う前に泣いてしまった少女。


リオはその一人一人に椅子を勧めた。


香りを急がず、言葉を急がず、必要なら温かいものを出す。


白盾記録院は王都にある。


けれど、その小さな分室のようなものが、リューネ村の外れにもある。


戻り香の家。


そこには今日も、スープの湯気と薬草の匂いが漂っている。


夜になり、リオは棚に新しい瓶を置いた。


白盾の裏。


ヘルナ、トーヴ、ミリ、カシア村。


名だけでは寒い。


食事も記録せよ。


畳んだ服に風を通す。


ラベルには、セリカが一言だけ書いた。


“持てないほどではない。”


リオはその瓶を見つめ、静かに微笑んだ。


記憶は重い。


罪は重い。


名前は重い。


でも、誰かと分け、香りを残し、食事をし、時々休むなら。


持てないほどではない。


香りは残る。


盾の表にも、裏にも。


そして、その重さを抱えて歩く人々の足元に、少しずつ道ができていく。

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