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追放された宮廷調香師は、辺境の村で竜の眠りを解く――香りだけで呪いも戦争も終わらせます  作者: たむ


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第三十話 王都の夜に、鍋の湯気は低く残る

白盾記録院の開院から一夜明けても、王都は静かにならなかった。


むしろ、朝の方が騒がしかった。市場では新聞売りが声を張り上げ、広場では役人が号外を読み上げ、貴族街では馬車がせわしなく行き交っている。下町の酒場では、昨夜から議論が続いているらしい。


白盾記録院。


王を止める盾。


証言しない日にも声はある。


途中の者もここにいる。


その言葉は、一晩で王都中に広がっていた。


ただし、広がった言葉は必ずしも正確ではなかった。


「白竜が王都の鍋を認めた、という記事が出ています」


ハルトが朝食の席で新聞を広げ、困った顔で言った。


リュミナが顔を上げる。


「間違いではない」


セリカは新聞を奪うように取った。


「そこが見出しになるのがおかしい」


リクが横から覗き込む。


「“白竜、肉は少ないが努力は見えると評す”……本当に書いてある」


ミナが笑いをこらえる。


「料理人さん、喜んでいましたから」


リオは別の新聞を読んでいた。


そちらの見出しは重い。


“王家の罪、白盾記録院へ”

“王女アリアンヌ、継承権凍結のまま治療継続”

“第二王子エルヴィン、白盾誓約を引用”

“被害者代表登壇せず――証言しない権利とは”

“隠された少年リク、名の選択を主張”


最後の見出しを見て、リクは露骨に顔をしかめた。


「ほら、こうなる」


リオは新聞を畳んだ。


「読まなくていいです」


「でも書かれてる」


「はい」


「俺の名前、勝手に使うなって言ったのに」


セリカが低く言った。


「新聞屋を呼ぶか」


リクは少し驚いた。


「何すんの」


「名の扱いを訂正させる」


リオも頷いた。


「必要ですね。リクさんが昨日言ったことは、見世物にしないための言葉でした。それを見世物にするなら、白盾記録院の初日から誓いに反します」


ハルトがすぐに立ち上がった。


「記憶院へ報告します。国王陛下も、この件は重く見るはずです」


リクは新聞を睨んだまま言った。


「俺が怒ってもいい?」


セリカが即答した。


「いい」


リュミナが言う。


「怒った後は食べる」


「今食べてる」


「ならよい」


リクはパンをかじった。


怒りの匂いは強い。


だが、以前のように自分を傷つける鋭さだけではなかった。誰かに自分の名前を雑に扱われた時、それを拒むための怒り。ミナの「許さない」と同じように、それは声だった。


朝食後、記憶院の官吏と新聞組合の代表が宿舎へ呼ばれた。


リクは出たくないと言った。


それは尊重された。


代わりに、リオ、セリカ、ミナ、ハルトが対応した。リュミナも同席すると主張したが、理由が「新聞に食事評を正しく載せるため」だったため、セリカに止められた。


「名は本人のものです」


リオは新聞組合の代表へ言った。


「昨日のリクさんの言葉は、王家の隠された子として消費されることへの拒否でした。それを見出しで煽るのは、白盾記録院の趣旨に反します」


代表の男は汗を拭いた。


「しかし、市民には知る権利が」


セリカの白盾が机の上でかすかに鳴った。


「知る権利は、子どもの名を奪う権利ではない」


男は口を閉じた。


ミナが静かに続けた。


「証言しない日にも声がある、と私は言いました。リクさんの言葉にも、言わなかった部分があります。新聞は言葉を拾うなら、沈黙も傷つけないでください」


記憶院の官吏はその場で正式な勧告文を作成した。


以後、白盾記録院に関わる証言や発言を報じる際は、本人の名の選択を尊重すること。未成年者の過去の名や血筋を本人の意思に反して見出し化しないこと。証言しない権利を「沈黙」「拒否」「逃避」と表現しないこと。


完璧ではない。


新聞屋たちは抜け道を探すだろう。


だが、最初の盾は立った。


その報告を聞いたリクは、少しだけ肩の力を抜いた。


「本当に言ったんだ」


「はい」


リオが答える。


「怒っていいと言ったので」


リクは小さく笑った。


「じゃあ、今日は怒った日」


「瓶にしますか?」


「……ちょっと待て。何でも瓶にするな」


「失礼しました」


「でも、あとでならいい」


リュミナが頷く。


「怒りも保存食のようなものだ」


セリカが眉をひそめる。


「その例えは危ない」


「腐らせずに置く必要がある」


ミナが少し考えた。


「それは、意外と正しいかもしれません」


リクは嫌そうに言った。


「リュミナの言うこと、時々正しいから困る」


王都滞在の二日目、リオたちは白盾記録院の内部を見学した。


昨日の式では見られなかった記録室、証言室、休息室、香室、そして食堂。食堂が正式に設けられていることに、リュミナは非常に満足した。


「学習している」


彼女は何度も言った。


記録室には、旧罪の回廊から移された瓶が並んでいた。


だが配置は変わっている。


以前のように、罪の香りだけを封じた瓶を棚へ押し込む形ではない。今は一つの記録に、複数のものが添えられていた。


加害者の証言。


被害者の言葉、または証言しない意思の記録。


当時の命令書。


再発防止の誓約。


記憶調香師による香りの注釈。


白盾の重さを示す小さな白石。


ミナの記録もあった。


棚の前で、彼女は足を止めた。


“ミナ・リュース発声封印事件。”


その下に、三つの札。


“被害者本人は現時点で出廷を望まない。”


“本人の言葉――私は、まだあなたを許しません。私は、私の声でそう言えます。忘れないでください。”


“証言しない日にも、声はある。”


ミナは長い間、それを見つめていた。


リオは隣に立つ。


「大丈夫ですか」


「はい」


彼女は静かに答えた。


「私の声が、ちゃんとありました」


その声は震えていた。


けれど、折れてはいなかった。


少し離れた場所に、グラントの記録があった。


彼本人は別室で監督下に置かれており、ミナと会わないよう配慮されている。だが彼の証言は、棚に残っていた。


ミナはそこへは行かなかった。


「今日はここまで」


彼女は言った。


「はい」


リオは頷いた。


証言しない日にも声はある。


そして、見ない日にも選択はある。


リクは別の棚の前で立ち止まっていた。


王家の隠匿記録。


リオン王子名封印。


そこには、まだ多くの空白があった。


記憶院はリクの意思を尊重し、彼の私的記憶や王妃の手紙の内容を公開記録には入れていない。ただ、王家が幼い子どもの名を封じ、下町へ移したという制度的な罪だけが記録されている。


リクはその札を見ていた。


「リオン王子って書いてある」


リオは慎重に言った。


「制度上の記録として、そうせざるを得なかったのでしょう」


「俺の名前じゃないみたい」


「嫌ですか」


「嫌っていうか……遠い」


リクは少し考えた。


「リオンは夜の道だけど、王子っていうのは道じゃなくて服みたいだ。重いやつ」


セリカが言った。


「着なくてもいい服だ」


リクは彼女を見る。


「いいのか」


「今はな」


「今は?」


「いつか着るかどうか、お前が考える日が来るかもしれん。だが、誰かに着せられるものではない」


リクは棚を見た。


「じゃあ、今は畳んで置いとく」


リオは微笑んだ。


「よい表現ですね」


「瓶にするなよ」


「しません」


「今は」


「はい、今は」


リュミナが横から言う。


「服より鍋の方が大事だ」


リクは即座に返した。


「お前は全部そこに戻すな」


記録院の奥には、アールヴェ・アルヴァンの石板があった。


白盾墓所から写し取られた誓いが刻まれている。


“王が忘れたがる時、盾は記録せよ。”

“民が罪に焼かれる時、盾は受け止めよ。”

“竜が怒りに飲まれる時、盾は名を呼べ。”

“記憶は刃ではなく、盾であれ。”


セリカは石板の前に立った。


彼女の白盾が静かに光る。


「重いな」


リオが言った。


「盾がですか」


「名がだ」


セリカは石板を見つめた。


「アルヴァンの名を取り戻した。だが、戻った名は誉れだけではない。王を止めなかった時代、止めようとして消された歴史、守りきれなかったものも一緒に戻る」


リュミナが隣に立つ。


「アールヴェも、全部は守れなかった」


セリカは彼女を見る。


「覚えているのか」


「少しずつ。あの女は、よく悔しがっていた。守れなかった名を盾の裏に刻んでいた」


「盾の裏?」


セリカは自分の白盾を外し、裏を見る。


そこには何もない。


いや、白い石の表面に、光の角度で見える細い線があった。


まだ読めない。


リオは息を吸った。


「香りがあります」


「何の」


「名前です。まだ眠っている名前。アールヴェが守れなかった人々の名かもしれません」


セリカの表情が硬くなる。


「また厄介なものが出てきたな」


リュミナは静かに言った。


「盾は裏も重い」


その言葉で、セリカは長く黙った。


白盾記録院は始まりでしかない。


アールヴェの名が戻れば、彼女が守ろうとして守れなかった名も戻りたがる。王国の罪が記録されるなら、地方の古い痛みも声を上げ始める。忘却に封じられていたものは、一つ開けば次を呼ぶ。


それは恐ろしい。


だが、もう閉じることはできない。


閉じるのではなく、場所を作るしかない。


夕方、リオたちは王城の中庭へ出た。


開院式の翌日ということで、大きな宴ではなく、小さな食事が用意されていた。国王、アリアンヌ、エルヴィン、リューネ村の一行、記憶院の数名、メリッサ、ハルト。


エルヴィンは拘束中の身だが、監視付きで短時間の出席を許されたらしい。黒い簡素な服を着て、銀の枷をつけている。顔色は悪く、以前の冷たい自信はほとんどない。


リクは彼を見ると、少し身構えた。


エルヴィンもリクを見た。


二人の間に、奇妙な沈黙が落ちる。


エルヴィンが先に口を開いた。


「リク」


リクは目を細めた。


「今日はリク」


「そうか」


「リオンって呼んだら怒る」


「呼ばない」


エルヴィンは少しだけ苦い笑みを浮かべた。


「私は、君がいたことを知っていた」


リクの表情が変わる。


アリアンヌが息を呑んだ。


エルヴィンは続けた。


「幼い頃、断片的に。姉上に弟がもう一人いたこと。王妃が誰かを逃がしたこと。だが、忘却の封印で詳細は見えなかった。私は……それを深く追わなかった」


「何で」


リクの声は低い。


エルヴィンは目を伏せる。


「怖かったからだ。君が戻れば、私の立場が揺らぐと思った。姉上を救うための力が必要だと言いながら、私は自分の座も守っていた」


アリアンヌが震える声で言った。


「エルヴィン」


彼は首を横に振った。


「姉上、これは言うべきことです」


リクは拳を握っていた。


「じゃあ、お前も俺の名前を遠ざけたんだ」


「そうだ」


「ムカつく」


「当然だ」


「謝るなよ」


エルヴィンは一瞬だけ驚いた。


リクは続けた。


「今謝られたら、何か返さなきゃいけない気がする。だから、まだ謝るな」


エルヴィンは静かに頷いた。


「わかった」


リュミナが小声で言った。


「リクは待たせるのが上手くなった」


セリカが答える。


「自分が待っているからだろう」


エルヴィンはリュミナへ視線を向けた。


少し迷ったあと、深く頭を下げた。


「白竜リュミナ。私はあなたを兵器にしようとした」


「知っている」


「謝罪は」


「まだ聞かない」


エルヴィンは顔を上げる。


リュミナは肉の皿を見ながら言った。


「お前の謝罪を聞くには、私の腹と記憶の準備が足りない。今聞くと、噛むかもしれない」


セリカが低く言う。


「噛むのは駄目だ」


「だから聞かない」


エルヴィンは少しだけ、ほんの少しだけ笑った。


「わかりました」


「わかったなら肉を寄越せ」


「それは違う」


リクがすかさず突っ込んだ。


アリアンヌが笑い、すぐに涙ぐんだ。


国王はそれを見ていた。


王としてではなく、父として。


だが、その顔には安堵だけではない。自分が止められなかった子どもたちが、今、互いに不器用な距離を測っている。その重さを、彼は理解しているようだった。


食事の後、リオは中庭の片隅で小瓶を取り出した。


今日の香り。


新聞への怒り。


白盾記録院の棚。


ミナの声。


リクの名。


セリカの盾の裏。


エルヴィンの告白。


謝罪を待たせる力。


そして、少し上品すぎる鍋の湯気が夜に低く残る匂い。


名前をつけるなら。


リオが迷っていると、リクが横に来た。


「また瓶?」


「はい」


「今日の?」


「はい」


「名前、決めていい?」


「もちろん」


リクは少し考えた。


王都の夜。


白盾記録院。


怒り。


待つこと。


謝らせないこと。


鍋の湯気。


彼は言った。


「まだ聞かない」


リオはラベルに書いた。


“まだ聞かない。”


それは拒絶の香りではなかった。


準備ができるまで、自分の場所を守る香り。


謝罪も、赦しも、再会も、名前も、急がなくていいという香り。


リクはラベルを見て頷いた。


「いい」


「はい」


「でも、明日は帰りたい」


「リューネ村へ?」


「うん。王都は匂いが多すぎる」


リオは笑った。


「僕もそう思います」


リュミナが遠くから叫ぶ。


「リオ! この鍋の香りも持ち帰れ! 改善案を作る!」


セリカの声。


「王都の料理人を巻き込むな!」


ミナの笑い声。


アリアンヌの小さな笑い。


リクはそれを聞いて、少しだけ肩を緩めた。


「帰ろう」


「はい」


王都の夜はまだ騒がしい。


白盾記録院ができても、人々は争い、怒り、誤解し、名前を雑に扱うこともある。


それでも、盾は立った。


誰かが「まだ聞かない」と言える場所ができた。


そして、その言葉が記録されるようになった。


香りは残る。


怒りにも、待つことにも、まだ受け取れない謝罪にも。


その香りを抱えて、明日、彼らはまたリューネ村へ帰る。


戻り香の家には、きっと鍋の火が待っている。

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