第三十二話 夏の巡礼者は、名を二つ持っていた
夏は、薬草の匂いを濃くした。
リューネ村の春は短い。雪解けの泥がようやく乾いたと思うと、山の斜面はいっせいに緑を増やし、薬草畑には小さな花が次々に開いた。声守草は薄紫の花をつけ、赤鈴草は陽を浴びて透けるように赤くなり、ミナは朝から晩まで畑と戻り香の家を行き来していた。
リオは調香室の窓を開け放っていた。
夏の風が入る。
薬草。
干し草。
山羊の乳。
薪。
遠くの川魚。
そして、台所から漂ってくる鍋の匂い。
戻り香の家の中では、リクが木札に文字を書いていた。
“名を聞きます。
急かしません。
食事はあります。”
その下に、新しい一文を書き足そうとしている。
リオは覗き込んだ。
「何を書いているんですか」
リクは筆を止める。
「まだ決めてない」
木札には、途中までこう書かれていた。
“怒っても――”
「いい言葉になりそうですね」
「見るなよ」
「すみません」
リクは耳を赤くして、木札を伏せた。
リオンという名は、最近、少し静かになっていた。
消えたわけではない。
朝の名乗りでは、リクはまだ時々こう言う。
「今日はリク。リオンは夜の道。王子の服は畳んでる」
ある日は、
「今日はリク。リオンは窓開けて風通し中」
とも言った。
リュミナが「服に虫がつく前に干すのは正しい」と褒め、リクが「服の話じゃねえよ」と怒った。
だが怒りながらも、彼は笑っていた。
アリアンヌからは、定期的に手紙が届く。
長い時もあれば、短い時もある。
“今日はアリアンヌです。”
“今日は王女の仕事が多くて、アリアンヌが遠いです。”
“半分残した栗は、まだあります。少し硬くなりました。”
“エルヴィンが、白盾記録院で働く記録官たちに法律を教え始めました。本人は罰の一部だと言っていますが、少し楽しそうです。”
“グラントの判決が近いです。ミナさんに伝えるべきか迷いましたが、記憶院から正式に届くと思います。”
ミナはその最後の一文を読んでも、顔を青ざめさせなかった。
ただ、声守草の乾燥棚を少し長く整えていた。
彼女もまた、待つことを覚えている。
ある午後、戻り香の家に一人の巡礼者が来た。
巡礼者という言葉が、リューネ村で再び使われるようになったのは最近のことだ。
旧街道が少しずつ修復され、白竜と王都の契約が復元され、王都からも地方からも、名を失った者や、名を探す者がぽつぽつとリューネ村へ来るようになった。まだ正式な巡礼制度ではない。セリカは「観光気分で来る者は追い返す」と言っていたが、それでも、石橋に名を刻み、戻り香の家で香を焚く人は増えていた。
その巡礼者は、二十歳前後の若い女性だった。
旅装は埃にまみれ、靴は何度も修理されている。髪は短く切られ、肩には古い弦楽器を背負っていた。村の入口でセリカに名を問われると、彼女は少し笑って答えた。
「今は、ノアです」
セリカは眉を上げた。
「今は?」
女性は肩をすくめた。
「昔は別の名でした。けれど、その名は誰かがまだ使っているので」
セリカはしばらく彼女を見た。
嘘の匂いはない。
だが、複雑な事情の匂いがある。
「戻り香の家へ行け」
「入っても?」
「名は聞いた。今はノアだな」
女性は少し驚いたように目を開き、それから深く頭を下げた。
戻り香の家に入ると、リュミナがまず鼻を動かした。
「歌の匂いがする」
ノアは目を瞬かせた。
「白竜様は、歌も嗅げるんですか」
「よい歌は腹にも響く」
「それは光栄です」
リクが小声で言う。
「腹基準だ」
リュミナは当然のように頷いた。
「大事だ」
リオはノアを椅子へ案内した。
「戻り香の家へようこそ。僕はリオ・クラウゼンです」
「ノアです」
彼女はもう一度名乗った。
「ただ、本当は……いえ、本当という言い方も違うのかもしれません。昔の名は、エリナでした」
ミナが薬草茶を置いた。
「エリナさん?」
ノアは首を横に振る。
「その名で呼ばれると、少し痛いです。今はノアでお願いします」
「はい。ノアさん」
ノアは薬草茶の湯気を見つめた。
「私は、白盾の裏に名前が見つかった村の出身です」
セリカが扉のそばで動きを止めた。
「どの名だ」
「カシア村」
調香室の空気が変わった。
カシア村の十一名。
白盾の裏に刻まれていた名の一つ。
川魚を焼く煙と、雨漏りする屋根の匂い。
セリカは白盾に手を置いた。
「子孫か」
「たぶん」
ノアは苦く笑った。
「それを確かめに来ました。けれど、私には名が二つあります。村で生まれた時の名、エリナ。旅芸人に拾われてからの名、ノア。白盾記録院から届いた知らせには、カシア村の生き残りの血筋に“エリナ”という名が残っていると書かれていました」
リオは静かに尋ねた。
「その名を取り戻したいのですか」
ノアは答えに迷った。
「取り戻したい、とは少し違います。エリナという名は、村の人たちがつけてくれたものです。でも私を育てた旅芸人の一座は、ノアと呼んでくれた。その名で私は歌を覚え、人前に立ち、空腹の時にパンを分けてもらいました」
リュミナが真剣に言った。
「パンを分ける者はよい者だ」
ノアは少し笑った。
「はい。よい人たちでした」
リクは彼女をじっと見ていた。
「二つ名前があると、面倒だろ」
ノアは彼を見る。
「あなたも?」
「俺はリク。リオンは夜の道。王子は畳んだ服」
ノアは目を丸くした。
それから、不思議そうに笑った。
「いいですね。私もそう言えたらいいのに。エリナは……何でしょうね。沈んだ村の水面みたいなものかもしれない」
リオはその言葉を心に留めた。
沈んだ村の水面。
ノアは続けた。
「カシア村は、公式には洪水で消えたとされていました。でも白盾記録院の写しには、王国軍の退却路を確保するために堤を切ったと。村人は避難を知らされなかった。十一名が死んだ。記録は消された」
セリカの顔が硬くなる。
白盾の裏に刻まれた名。
アールヴェが守れなかった者たち。
その中に、また一つ、生きた声が来た。
ノアは手を膝の上で握った。
「私は、その村の最後の家の子だったらしいんです。幼くて覚えていません。旅芸人に拾われた時には、もうノアでした。けれど白盾記録院から知らせが来て、村の名と私の古い名が戻った」
「苦しいですか」
ミナが尋ねる。
ノアは頷いた。
「はい。ノアでいると、カシア村を捨てたような気がします。エリナに戻ると、私を育てた一座を捨てるような気がします」
リクがぼそりと言った。
「どっちも捨てなくていいんじゃねえの」
ノアは彼を見る。
リクは少し気まずそうに視線を逸らした。
「俺も、まだ途中だけど。リオンを捨てたら、姉さんが泣く。リクを捨てたら、俺がムカつく。だから、置き場所を分けてる」
ノアは静かに聞いていた。
「置き場所」
リュミナが頷く。
「名前にも寝床が要る」
セリカが小さく呟く。
「今日は妙に良いことを言うな」
「私はいつも」
「言わなくていい」
リオはノアへ言った。
「香りを作ってみますか。二つの名を一つに混ぜるのではなく、それぞれが息をできるように」
ノアは少し迷い、頷いた。
「お願いします」
調香室に、夏の光が差し込んでいた。
材料は、ノアが持ってきたものから始めた。
古い弦の切れ端。
旅芸人の一座で使っていた赤い布。
小さなパン屑を包んだ布。
それがノアの香り。
次に、白盾の裏から読み取ったカシア村の香り。
川魚。
湿った屋根板。
堤の土。
焦げた麦。
雨の夜。
そして、ノアが覚えていないはずなのに、手を近づけると涙をこぼした小さな木の匙。
「これ……」
彼女は震えた。
「知らないのに、手が覚えている気がします」
ミナが静かに言った。
「身体に残る記憶ですね」
ヴァルツの手が王妃の小箱を探したように。
セリカの腕が白盾の誓いを受け止めたように。
リクの喉が“母さん”という言葉を先に出したように。
記憶は頭だけではない。
リオは香りを二つの小皿に分けた。
一つはノア。
旅の赤布、パン、弦、歌。
もう一つはエリナ。
川魚、雨漏り、木の匙、堤の土。
二つは混ぜなかった。
間に、リューネ村の薪の香りを置く。
休む場所として。
「今は、こうして置いてみましょう」
リオは言った。
「ノアの香りと、エリナの香り。その間に、今日座っている場所の香りがあります。どちらか一つに決める必要はありません」
ノアは目を閉じた。
涙が流れる。
「エリナは、ずっと沈んでいると思っていました」
リオは静かに聞いた。
「でも、沈んでいるというより……水面の下に家があって、灯りがまだ残っているみたいです」
リクが小さく言った。
「なら、夜の道みたいに、必要な時だけ行けばいい」
ノアは涙の中で笑った。
「あなたは、名前の先輩ですね」
リクは顔を赤くした。
「先輩じゃない。途中」
「では、途中の先輩」
「変なの」
だが、嫌ではなさそうだった。
リュミナが言った。
「歌えるか」
ノアは驚いた。
「今ですか?」
「今だ。名前の香りが出た時の歌は残すべきだ」
ミナが少し心配そうに見る。
「無理なら」
ノアは首を振った。
「いえ。歌えます」
彼女は弦楽器を膝に乗せた。
古い木の胴から、乾いた旅の匂いが立つ。
最初の音は、少し震えていた。
けれど、やがて調香室の空気に馴染んでいく。
歌は、川の歌だった。
村を流れる川。
魚を焼く煙。
雨漏りの屋根。
旅立つ馬車。
名前を二つ持つ者が、どちらの岸にも手を振る歌。
リュミナはじっと聞いていた。
ミナは目を潤ませている。
セリカは白盾に手を当てていた。
リクは、珍しく何も言わなかった。
リオは歌の香りを小瓶に閉じ込めた。
ノアが歌い終えると、部屋には夏の午後の光と、川の匂いが残った。
「名前をつけますか」
リオが尋ねると、ノアはしばらく考えた。
「“二つの岸”」
リオはラベルにそう書いた。
“二つの岸。”
ノアはその瓶を受け取り、胸に抱いた。
「私は、ノアです」
彼女は言った。
「エリナは、沈んだ村の水面。でも、灯りがあります。たぶん、歌いに行ける」
リクが頷いた。
「うん。それでいいと思う」
ノアは微笑んだ。
「ありがとうございます、途中の先輩」
リクは顔をしかめた。
「その呼び方やめろ」
「考えておきます」
夕方、ノアは戻り香の家の前で一曲歌った。
村人たちが集まった。
カシア村の歌を知る者はいない。
けれど、川の匂いと雨漏りの屋根とパンを分ける旅の記憶は、誰かの胸に届いた。
歌い終えると、リュミナが真剣に言った。
「腹にも響いた」
ノアは深く頭を下げた。
「最高の褒め言葉として受け取ります」
リュミナは満足そうだった。
その夜、戻り香の家の木札に、リクが新しい一文を書き加えた。
“怒ってもいい。”
ミナがそれを見て微笑んだ。
「いいですね」
リクは少し照れたように筆を置く。
「ノアを見て思った。名前が二つあって怒ってもいいし、悲しくてもいいし、歌ってもいいんだろ」
リオは頷いた。
「はい」
木札はこうなった。
“名を聞きます。
急かしません。
怒ってもいい。
食事はあります。”
セリカはそれを読んで言った。
「最後の一文が強いな」
リュミナは胸を張った。
「当然だ」
リオは笑いながら、新しい小瓶を棚に置いた。
“二つの岸。”
その隣に、“夜の道”、“証言しない日”、“まだ聞かない”、“持てないほどではない”が並んでいる。
どの瓶も、答えではない。
どれも途中の香りだ。
けれど、途中の香りが増えるほど、戻り香の家は温かくなる。
夏の夜、窓の外では川が流れている。
リオはその音を聞きながら思った。
人には、一つの名だけでは足りない時がある。
一つの場所だけでは帰れない時がある。
それなら、岸を二つ持てばいい。
夜の道を渡り、必要な時に水面の灯りを見に行けばいい。
香りは残る。
名と名の間にも。
岸と岸の間を流れる川にも。
そして、その川のほとりで誰かが歌う声にも。




