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追放された宮廷調香師は、辺境の村で竜の眠りを解く――香りだけで呪いも戦争も終わらせます  作者: たむ


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第二十六話 王妃の小箱は、手の記憶で開く

王都へ向かう馬車の中で、リクはほとんど話さなかった。


行きの朝、リューネ村は晴れていた。薬草畑の露は光り、戻り香の家の煙突からは朝食の煙が上がり、リュミナは最後まで「栗の皮は本当に食べない」と主張していた。セリカは村の留守をエルマ婆と鍛冶屋に預け、ミナは薬草帳の写しと声守草の若葉を持った。


リオは鞄に小瓶を詰めた。


“今日の名はリク。”


“待つ練習。”


“半分残した栗。”


“証言しない日。”


“まだ開けない手紙。”


そして、空の小瓶を一つ。


王妃エレオノーラがリク――あるいはリオンへ残したという手紙の香りを入れるための瓶だった。


ヴァルツ元記録官は、別の馬車に乗っている。


記憶院の監督官と、ハルトが付き添っていた。彼の手は、リオが調合した“手の記憶を辿る香り”を薄く染み込ませた布で包まれている。頭では忘れていても、手が覚えているかもしれない。王妃の金木犀の箱がどこにあるかを。


リクは窓の外を見ていた。


王都へ近づくにつれ、彼の匂いは変わった。


リューネ村でまとい始めていた薪や薬草や泥の匂いの下から、王都の煤、石畳、安宿、古いパン、そして金木犀の庭の香りが浮かび上がってくる。


「気分は?」


リオが尋ねると、リクは短く答えた。


「悪い」


「休みますか」


「休んでも王都は近づく」


「それはそうですね」


リクは少しだけ笑いかけ、すぐに口を閉じた。


ミナが温かい薬草茶を差し出す。


「喉と胃に効きます。無理に飲まなくてもいいです」


リクは受け取り、少し飲んだ。


「苦い」


「効きます」


「大人はだいたいそう言う」


リュミナが横から言った。


「苦いものは、食べ物として弱い」


「薬です」


ミナが返す。


「なら仕方ない」


リュミナは妙に納得した。


セリカは馬車の中で王都からの書類を読んでいた。


白盾記録院の草案、王女の治療予定、エルヴィンの審理日程、ヴァルツの監督条件。彼女は文字を追うたびに眉間の皺を深くしていく。


「王都は紙が多い」


「村長も最近、書類が増えましたね」


リオが言うと、セリカは苦い顔をした。


「王都との正式な契約が増えたせいだ。白竜協定、薬草支援、戻り香の家の運営、記憶院との連絡、鍋の管理報告」


「鍋も報告対象なんですか」


「リュミナが王命で送られた鍋だと言い張るからだ」


リュミナは胸を張った。


「事実だ」


「王命は鍋の送付であって、お前の食事量の正当化ではない」


「解釈の違いだ」


リクが少し笑った。


馬車の中に、その笑いが小さな灯りのように残った。


王都の城門が見えたのは夕方だった。


城壁は以前と同じように高く、冷たい。だが、門前の空気は変わっていた。かつては兵士の命令と商人の怒号、税吏の苛立ちが混じっていた。今はそこに、噂と警戒が濃く漂っている。


白竜が来る。


戻り香の家の調香師が来る。


王家の隠された子が来る。


誰が流したのか、情報はすでに広がっていた。


門の前に集まった人々の視線が、馬車へ突き刺さる。


リクの肩が強張った。


「見るなよ」


彼は低く呟いた。


リオは小瓶を開けた。


“今日の名はリク。”


焼きパン、スープ、金木犀の影、怒りと手紙。


リクはその香りを嗅ぎ、少しだけ呼吸を戻した。


「ここでは、リクさんです」


リオが言うと、リクは窓の外を睨んだまま頷いた。


「今日はリク」


セリカが短く言った。


「誰かが勝手に別の名で呼べば、私が止める」


リュミナが続ける。


「私も噛む」


「噛むのは最後にしてください」


「最後ならよいのか」


「よくありません」


城門では、ハルトが先に手続きを済ませていた。


王都兵たちは一行を見ると、緊張した面持ちで道を開けた。数人がリュミナに気づいて膝をつきかけたが、彼女は面倒そうに言った。


「膝より食べ物を用意しろ」


兵士たちは困惑し、セリカが頭を抱え、リクが少し笑った。


王城へ入ると、メリッサ侍女長が出迎えた。


彼女は以前と同じく黒い侍女服を隙なく着こなし、背筋を伸ばしていた。だが、リクを見る目には、抑えきれない感情があった。


「ようこそお越しくださいました」


彼女は深く頭を下げた。


「リク様」


リクは少し身構えた。


「様はいらない」


「承知いたしました、リクさん」


その訂正は、見事な速さだった。


リクは拍子抜けしたような顔をする。


メリッサは続ける。


「アリアンヌ様は、お会いしたいとおっしゃっています。ただ、リクさんが望まれるまでお部屋には参りません」


リクは黙った。


リオは口を挟まなかった。


やがてリクは言った。


「先に、箱」


「はい」


メリッサの表情がわずかに引き締まる。


「ヴァルツは?」


ハルトが答える。


「記憶院の監督官と共に、王妃様の私室前で待機しています」


王妃の私室。


薄紫のカーテン。


薬草茶。


菫。


リオが王妃の導きに気づいた場所。


もう一通の手紙があるなら、そこから始まるのは当然かもしれなかった。


王妃の私室へ向かう廊下は、以前より明るかった。


白布をかけられていた絵は外され、花瓶には菫と金木犀の枝が飾られている。金木犀は季節外れだが、温室で咲かせたものだろう。香りは淡く、まだ若い。


リクはその匂いを嗅いで、足を止めた。


「大丈夫ですか」


ミナが尋ねる。


「……嫌じゃない」


リクは少し驚いたように言った。


「王城の匂いは嫌だけど、これは嫌じゃない」


メリッサが静かに言った。


「王妃様が、お好きでした。金木犀は、秋の短い間しか香らない。だからこそ、忘れにくいのだと」


リクは黙って廊下を進んだ。


王妃の私室の前には、ヴァルツが立っていた。


手を布で包み、顔色は青い。王城に戻ったことで、彼の罪の記憶も強くなっているのだろう。彼はリクを見ると、深く頭を下げた。


「リクさん」


「……うん」


リクはそれだけ返した。


ヴァルツは震える手で扉へ触れた。


「私は、覚えていません」


彼は言った。


「どこへ隠したのか。なぜ、その場所を選んだのか。頭では、何も」


リオは彼の手の布に香りを一滴足した。


手の記憶を辿る香り。


古いインク。


銀刃。


王妃の菫。


金木犀。


木箱。


罪悪感。


「考えないでください」


リオは言った。


「手が動くままに」


ヴァルツは頷いた。


扉が開く。


王妃の私室に入った瞬間、リオは胸の奥が締めつけられた。


この部屋には、エレオノーラの香りがまだ残っている。


人は死んでも、使っていた部屋にはしばらく息が残る。けれど王妃の部屋の香りは、ただ残っているだけではない。メリッサが守り、香を焚き、布を替え、花を飾り、記憶を腐らせないように手を入れてきた香りだった。


リクは部屋の中央で立ち尽くした。


「知ってる」


彼は呟いた。


「ここ、来たことある」


メリッサの目が潤む。


「幼い頃、王妃様があなたをよくこちらへ」


リクは顔をしかめた。


「言わないで。まだ、見てる」


「失礼いたしました」


メリッサはすぐに黙った。


ヴァルツの手が動いた。


最初に書机へ。


引き出しを開ける。


何もない。


次に本棚へ。


薬草書の背をなぞる。


違う。


壁掛けの裏。


違う。


窓辺の花台。


手が止まる。


ヴァルツの呼吸が荒くなった。


「ここ……?」


リオは匂いを読む。


金木犀が強い。


花台の下。


だが、ただの隠し引き出しではない。香りで封じられている。無理に開ければ、中身の記憶が傷つくかもしれない。


リオはリクを見た。


「ここに近づけますか」


リクは喉を鳴らし、頷いた。


一歩。


二歩。


花台の前に立つ。


そこには、季節外れの金木犀が飾られていた。


リクは花に触れない。


ただ、匂いを嗅ぐ。


「庭の匂いとは違う」


彼は言った。


「でも、近い。大人が思い出そうとして作った匂い」


リオは小さく頷いた。


「よくわかりましたね」


「なんとなく」


「それで十分です」


ヴァルツの手が花台の縁を押す。


動かない。


今度は引く。


動かない。


彼は焦ったように息を乱した。


「駄目です。手が、ここだと言うのに」


リオは花台の下を見た。


小さな彫刻がある。


金木犀の花。


菫。


白薔薇。


そして、片目の取れた木馬。


「リクさん」


リオは静かに言った。


「この木馬に覚えは?」


リクは顔を近づけた。


指先で彫刻に触れる。


その瞬間、部屋の香りが変わった。


白い噴水。


金木犀。


幼い笑い声。


木馬の軋む音。


アリアンヌの手。


リクは震えながら言った。


「片目が取れてる」


花台の内側で、かちりと音がした。


しかし引き出しはまだ開かない。


次の鍵が必要だ。


ミナが彫刻を見て言った。


「花が三つあります。金木犀、菫、白薔薇。王妃様、王女殿下、そして……?」


「リクさん」


リオは答えた。


「王妃様が彼のために選んだ花が、金木犀なら」


リクは首を振った。


「俺、花なんて知らない」


「でも、覚えているかもしれません」


「わかんない」


「急がなくていいです」


リクは苛立ったように拳を握った。


「急がなくていいばっかりだな」


「はい」


「でも、ここまで来た」


「はい」


「開けたい」


「では、試しましょう」


リオは金木犀の香りを薄く立てた。


強くしない。


押し開けない。


リクが自分で思い出せるように、ほんの少しだけ道を照らす。


リクは目を閉じた。


「母さん……」


その言葉が部屋に落ちた。


リオは息を止めた。


リク自身も驚いた顔をした。


「今の、勝手に」


メリッサが口元を押さえる。


ヴァルツは深く頭を垂れた。


リクは花台の彫刻に手を当てたまま、震える声で続けた。


「母さんは、俺の髪に花をつけた。姉さんが笑った。俺は嫌がった。花は……」


彼は眉を寄せる。


「金木犀じゃない。小さい、白い……いや、黄色? 匂いが薄い」


リオは香りを探る。


王妃の菫ではない。


王女の白薔薇でもない。


金木犀でもない。


もっと小さな、庭の端に咲く花。


メリッサが静かに言った。


「月見草でございます」


リクが目を開く。


「月見草……」


「王妃様は、あなたを“夜に咲く子”と呼んでおられました。表の庭ではなく、月の下で咲く花のように静かで、けれど強いと」


リクの手が震える。


「そんなの、知らない」


「はい」


メリッサは涙を流しながらも、声を乱さなかった。


「でも、残っております」


リオはすぐに鞄から月見草の乾燥花を探した。


薬草として少量持っていた。香りは淡い。夜気、柔らかな土、閉じた花弁の内側の静けさ。


それを金木犀と合わせる。


リクの手元へ。


花台が、小さく震えた。


最後の鍵。


リクは唇を噛む。


そして、言った。


「リク」


何も起きない。


彼は目を閉じる。


「リオン」


部屋の空気が揺れる。


でも、まだ開かない。


リクは涙を浮かべた。


「どっちも俺だ」


その瞬間、花台の下の隠し引き出しが開いた。


中には、小さな箱があった。


金木犀の木で作られた箱。


蓋には月見草の彫刻。


縁には細い銀の蔓。


鍵穴はない。


リクは震える手で箱を持ち上げた。


「これ……」


メリッサが静かに言った。


「王妃様の小箱です」


リクは蓋を開けようとしたが、動かない。


リオは箱を嗅いだ。


封印はまだある。


しかし、これは外から開けるものではない。


「リクさん。無理に開けないでください」


「どうするんだよ」


「この箱は、たぶん持ち主が一人で開けるものではありません」


「は?」


リオは箱の彫刻を見る。


金木犀。


月見草。


菫。


白薔薇。


そして、二つの小さな手。


「アリアンヌ殿下が必要です」


リクの顔が変わる。


「姉さんが?」


「はい。姉弟二人に向けた箱かもしれません」


リクは箱を抱きしめた。


「じゃあ、今は開かない?」


「はい」


怒るかと思った。


だがリクは、しばらく黙った後、小さく息を吐いた。


「……待つ練習か」


リオは微笑んだ。


「そうですね」


リクは箱を見つめる。


「難しいな」


「はい」


「でも、今度は何があるか知ってる。箱があるって知ってる」


「それは、大きいです」


リクは頷いた。


その時、王妃の私室の扉が静かに開いた。


アリアンヌが立っていた。


薄い外套を羽織り、顔色は悪い。おそらく近くの部屋で待機していたのだろう。入るかどうか、ずっと迷っていたに違いない。


リクは箱を抱えたまま彼女を見た。


「……来たのか」


アリアンヌは小さく頷いた。


「扉の外で待っていました。入っていいか、わからなくて」


リクは箱を見た。


それからアリアンヌを見る。


「これ、一人じゃ開かないって」


アリアンヌの目が箱に向く。


彼女の唇が震えた。


「母上の……」


「知ってる?」


「いいえ。でも、夢で見たことがある気がします」


リクは少し考えた。


「開ける?」


アリアンヌはすぐには答えなかった。


「あなたが望むなら」


「ずるい」


「え?」


「俺に決めさせるの、ずるい」


アリアンヌは言葉に詰まった。


リオは二人を見守った。


セリカも、ミナも、リュミナも、メリッサも、ヴァルツも何も言わない。


リクは深く息を吸った。


「俺は、開けたい。でも怖い」


アリアンヌの目から涙が落ちる。


「私も」


「じゃあ、怖いまま開ける?」


「……うん」


二人は小箱を机の上に置いた。


リクが右手を。


アリアンヌが左手を。


箱の蓋に刻まれた二つの小さな手の彫刻へ重ねる。


リオは香りを整えた。


金木犀。


月見草。


菫。


白薔薇。


リューネ村のスープをほんの少し。


戻れるように。


箱が開いた。


中には、二通の手紙があった。


一通はアリアンヌへ。


もう一通はリオンへ。


いや、封筒にはこう書かれていた。


“リオンへ。

もし別の名で生きているなら、その名のあなたへ。”


リクはその文字を見た瞬間、息を止めた。


そして、泣いた。


声を殺さずに。


「母さん……」


誰もその言葉を訂正しなかった。


王妃の部屋に、月見草の香りが広がる。


夜に咲く子。


隠された名。


消えなかった手紙。


待つ時間の果てに、ようやく開いた小箱。


リオは空の小瓶を取り出した。


この香りは、まだ名前をつけられない。


リクが決めるべきものだからだ。


彼はただ、そっと瓶に閉じ込めた。


香りは残る。


母がいなくなっても。


名が封じられても。


読む準備ができる日まで、小箱の中で待ち続けることがある。


そして今、その待っていた言葉が、ようやく息をし始めた。

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