第二十五話 証言しない日にも、声はある
ミナが王都から届いた封書を開けたのは、七日後の朝だった。
それは特別な朝ではなかった。リューネ村には薄い霧が出ていて、薬草畑の葉先には小さな露が並んでいた。リュミナは朝食の干し肉の量をめぐってリクと口論し、セリカは白盾をつけた右腕で薪割りをしようとしてエルマ婆に叱られ、リオは調香室で“半分残した栗”の香りを薄める配合を考えていた。
そんな普通の朝に、ミナは台所の隅で封書を手に取った。
差出人は王国記憶院。
中身は、グラント・ローヴェルの公開審理に関する通知だった。
ミナはそれを、ずっと開けられなかった。
開ける義務はない。
証言する義務もない。
王都からの書状にも、国王の手紙にも、被害者が証言しない権利は尊重されると明記されていた。それでも封書は、棚の上にあるだけで匂いを放っていた。紙、王印、乾いた法廷、グラントの罪、ミナの失われた一年。
リオは調香室から出てきて、ミナが封に指をかけているのを見た。
「一緒に読みますか」
ミナは少し考えてから、首を横に振った。
「最初は、一人で読みます」
「わかりました」
「でも、近くにいてください」
「はい」
リオは台所の反対側に座った。
リュミナも干し肉を持ったまま静かになる。リクは何か言いかけたが、セリカが軽く肩に手を置くと黙った。
ミナは封を開いた。
紙を広げる。
彼女の指が震えている。
それでも、逃げなかった。
しばらく読んだ後、ミナは目を閉じた。
呼吸を整え、それから小さな声で言った。
「グラントさんは、私の声を奪った時のことを全部話したそうです」
誰も口を挟まなかった。
「命令だったこと。私が見てしまったこと。私が子どもだったことに気づいていたこと。娘さんと同じくらいの年だと思ったのに、その考えを消したこと。私が声を出せなくなって、泣いていたのを見たこと」
ミナの声が少し掠れた。
けれど止まらない。
「それを、全部、言ったそうです」
リオは黙って聞いていた。
証言は、癒しではない。
加害者が語ったからといって、被害者の痛みが軽くなるわけではない。むしろ、知らなかった細部が刃のように戻ってくることもある。
ミナも今、その刃に触れている。
「手紙には、私に出廷を求めるものではないと書いてあります。ただ、もし言葉を届けたいなら、記憶院が預かると」
リュミナが静かに言った。
「言葉を届けたいのか」
ミナはすぐには答えなかった。
窓の外で、薬草畑の葉が揺れる。
やがて、彼女は言った。
「まだ、会いたくありません」
「はい」
リオは頷いた。
「でも、何も言わないのも違う気がします」
セリカが椅子を引いて座った。
「手紙にするか」
「長くは書けません」
「短くていい」
ミナは紙を見つめた。
「何を書けばいいのか、わかりません」
リクが小さく言った。
「怒ってるって書けば」
全員が彼を見る。
リクは少し気まずそうにパンをちぎった。
「だって、怒ってるだろ」
ミナは驚いたように瞬きし、それから少し笑った。
「怒っています」
「なら、それでいいんじゃないの」
リクは視線を逸らす。
「俺も、姉さんに怒ってるって言った。まだ直接じゃないけど。手紙の端に書いた」
「そうなんですか」
「小さく」
リュミナが頷く。
「怒りも声だ」
ミナはその言葉に、はっとしたように顔を上げた。
怒りも声。
彼女は長い間、声を奪われた。
助けを呼ぶ声も、礼を言う声も、歌う声も、怒る声も。
なら、取り戻した声で最初に届ける言葉が、優しくある必要はない。
ミナは紙と筆を取り出した。
しばらく何も書けなかった。
リオは、薬草茶を淹れた。喉を温める香り。ミナの母の薬草帳に載っていた配合を少し変えたものだ。ミナはそれを一口飲み、筆を取った。
書いたのは、たった三行だった。
“私は、まだあなたを許しません。
私は、私の声でそう言えます。
忘れないでください。”
ミナはその紙を見つめた。
涙は出ていなかった。
代わりに、彼女の周囲には強い薬草の匂いが立っていた。苦く、澄んでいて、喉を通る時に少し痛む香り。
「これでいいでしょうか」
リオは言った。
「とても、ミナさんの言葉です」
ミナは紙を折り、封筒に入れた。
宛名は、記憶院経由でグラントへ。
リュミナが真顔で言った。
「よい声だ」
ミナは少し照れたように笑った。
「ありがとうございます」
その日の昼、ミナは戻り香の家の裏に新しい薬草を植えた。
赤鈴草ではない。
声守草。
喉の炎症を鎮め、声を出しすぎた者に効く薬草だ。かつてミナの母がよく使っていたが、リューネ村ではしばらく種が途絶えていた。王都から届いた種の中に混じっていたものを、ミナは大事に取っておいた。
「今日植えるんですか」
リオが尋ねると、ミナは頷いた。
「はい。手紙を書いた日なので」
「よい記録になりますね」
「咲いたら、声の薬を作ります。証言する人にも、証言しない人にも」
「証言しない人にも?」
ミナは土を指でならした。
「証言しない日にも、声はあると思うんです。言わないと決める声。まだ待ってと伝える声。怒っているけれど会わないという声」
リオは静かに頷いた。
「戻り香の家の約束に加えましょう」
「はい」
その夕方、リオは新しい小瓶を作った。
声守草の種。
薬草茶。
ミナの手紙の紙の匂い。
怒り。
静けさ。
まだ許さないという、まっすぐな声。
ラベルにはこう書いた。
“証言しない日。”
それは、裁きを拒む香りではない。
自分の傷を、他人の都合のために急いで差し出さないための香りだった。
数日後、記憶院から返書が届いた。
グラントがミナの手紙を受け取ったという知らせだった。
添えられていたのは、記憶院の事務的な報告だけで、グラント本人からの返事はなかった。ミナが「返事はいらない」と書いたからだ。
ただ、記録官の追記があった。
“グラント・ローヴェルは、手紙を読んだ後、長く沈黙した。
その後、審理記録に以下の一文を追加することを求めた。
『ミナ・リュースは、私を許さないと自分の声で言った。その声を、私は奪った。これを忘れない。』”
ミナはそれを読み、静かに紙を畳んだ。
「これで、今日は終わりです」
誰も続きを促さなかった。
リュミナだけが椀を差し出した。
「終わったなら、食べる」
ミナは笑って受け取った。
「はい」
春は深まっていった。
薬草畑には声守草の小さな芽が出た。
リクは毎朝、名前を言う習慣を続けている。
「今日はリク」
そう言う日が続いた。
ある朝だけ、少し迷ってから、
「今日は……リク。リオンは、隣」
と言った。
リオはそれを記録した。
“リオンは隣。”
リクは自分でラベルを見て、顔をしかめた。
「変な名前」
「あなたが言いました」
「言ったけどさ」
「嫌なら変えます」
リクはしばらく瓶を見て、首を横に振った。
「いい。隣なら、まあいい」
アリアンヌは二度目の訪問を控えていた。
前回よりも、王都の反発は少なかった。というより、国王が「治療上必要」と押し切ったらしい。王女は再び焼き栗を持ってくると手紙に書いていた。リュミナはそれを聞いて、非常に機嫌がよかった。
一方で、王都では裁きが続いている。
エルヴィンは白盾の記録を読み続け、時折アリアンヌへ手紙を書いているらしい。アリアンヌは返事を書いたり書かなかったりしている。国王は罪の回廊を“白盾記録院”へ改組する草案を出した。貴族たちは反発し、民会は賛否で割れ、王都の新聞屋たちは連日この話題で紙面を埋めた。
王国は揺れている。
けれど、揺れているということは、眠っていないということでもあった。
ある雨の日、戻り香の家に年老いた男が訪れた。
彼は王都の元記録官だった。
名前はヴァルツ。
王妃の私室を荒らそうとし、国王帰還の場で拘束された男だ。審理中の身ではあるが、記憶院の監督付きでリューネ村へ送られてきた。理由は、彼が何度も同じ言葉を繰り返しているからだった。
“私は王妃の最後の手紙を、もう一通隠した。”
リオはその名を聞いて、胸が強く鳴った。
王妃エレオノーラの手紙。
もう一通。
ヴァルツは戻り香の家の入口で、村の標柱を見上げていた。
“王都の者を信じるな。”
“それでも、名を聞け。”
彼は乾いた唇で言った。
「私は、信じられる者ではない」
セリカは冷たく答えた。
「だろうな。名は」
「ヴァルツ・エリオット。元宮廷記録官」
「入れ。信じはしないが、名は聞いた」
ヴァルツは深く頭を下げた。
その姿は、王妃の私室で見た時よりずっと老いていた。背中は曲がり、手は震え、目の下には深い隈がある。忘却ではなく、記憶に追われている者の匂いがした。
戻り香の家の台所に座ると、彼は薬草茶を前にしても手をつけなかった。
「王妃様は、死の前に二通の手紙を残しました」
ヴァルツは言った。
「一通は、リオ・クラウゼンへ。あなた方が見つけたものです。もう一通は……」
彼はリクを見た。
リクが身構える。
「リオン殿下へ」
部屋の空気が凍った。
リクは椅子から立ち上がりかけた。
「俺は」
言いかけて、止まる。
リオは彼の肩に手を置いた。
「リクさん。嫌なら席を外していいです」
リクは震えていた。
でも、逃げなかった。
「読むかどうかは、俺が決める」
ヴァルツは深く頭を下げた。
「その通りでございます」
リクは歯を食いしばる。
「今、持ってるのか」
「いいえ」
セリカの目が鋭くなる。
「何?」
ヴァルツは額に汗を浮かべた。
「私は手紙を隠しました。しかし、場所を忘却で封じました。誰かに奪われぬように、そうしたつもりでした。ですが、その封印を解く鍵を……私は自分から削ってしまった」
リオは匂いを嗅いだ。
嘘ではない。
だが、すべてを話しているわけでもない。
「なぜ今になって言うのですか」
リオが問うと、ヴァルツは目を伏せた。
「王妃様の私室で、あなたに罪の瓶を突きつけられた時、私は恐れました。自分の罪が暴かれることを。だから黙っていた。審理でも言えなかった」
「では、なぜ」
ヴァルツの声が震えた。
「白盾記録院の草案を読みました。罪は焼くためではなく、繰り返さぬために刻む、と。私は、自分の罪に焼かれるのが怖かった。だが、黙っていれば同じ罪を繰り返すことになる」
彼はリクへ向き直った。
「リク様。リオン殿下。どちらの名を選ばれても構いません。私は、あなたに渡されるべき言葉を隠しました」
リクは真っ青な顔で言った。
「様って呼ぶな」
「はい」
「リオンって呼ぶな」
「はい」
「でも……手紙は、あるんだな」
「あるはずです。王妃様の金木犀の箱に」
リオが息を呑む。
「金木犀の箱」
「王妃様が、幼いリオン様のために作らせた小箱です。王城のどこかに隠しました。場所は、香りで封じています。私の記憶からは消えていますが、手が覚えているかもしれません」
ミナが尋ねる。
「手が?」
ヴァルツは震える手を見た。
「私は記録官です。書いた文字、しまった書類、隠した棚。頭が忘れても、手が動きを覚えていることがある」
リオは頷いた。
身体の記憶。
セリカの腕、ミナの喉、リュミナの花冠。記憶は頭だけに残るものではない。
「王都へ行く必要がありますね」
セリカが言った。
リュミナが顔を上げる。
「また王都か」
「嫌か」
「食事次第だ」
リクは黙っていた。
彼が行くべきかどうか。
それが一番の問題だった。
手紙は彼宛てかもしれない。
だが、王都は彼にとって危険な場所でもある。名前を揺さぶり、王族として扱おうとする者も出るだろう。
リオはリクに言った。
「行くかどうかは、今決めなくていいです」
リクは首を横に振った。
「行く」
「リクさん」
「手紙が俺宛てなら、俺が行く」
「怖くないですか」
「怖い」
彼は即答した。
「でも、ここで待ってる方がもっと怖い。知らないまま待つのは、嫌だ」
リュミナが頷く。
「なら食べてから行く」
リクは少し笑った。
「今すぐじゃないだろ」
「準備は大事だ」
セリカは地図を広げ始めた。
「王都へは使節として行く。勝手に入れば揉める。国王とアリアンヌ殿下へ先に知らせる」
ミナが薬草帳を開く。
「リクの喉と眠りを守る香りを用意します。王都の匂いが強すぎるかもしれません」
リオはヴァルツの手を見た。
「そして、あなたの手の記憶を辿る香りを作ります」
ヴァルツは深く頭を下げた。
「お願いします」
「ただし」
リオは静かに言った。
「これはあなたを赦すためではありません。隠した手紙を見つけるためです」
「承知しています」
リクがぼそりと言った。
「俺も、まだ怒ってるからな」
ヴァルツは頭を下げたまま答えた。
「はい」
その夜、戻り香の家の棚に新しい空白が作られた。
まだ見つかっていない手紙のための場所。
リクはその空白を見て、しばらく黙っていた。
「母さんの手紙」
その言葉は、初めて彼の口から出た。
リオは何も言わなかった。
リクはすぐに付け加えた。
「たぶん」
「はい」
「まだ、母さんって言っていいのかわかんない」
「それも、急がなくていいです」
リクは棚の空白へ、小さな焼き栗の皮を置いた。
「目印」
「いいですね」
「リュミナに食べられないように、言っといて」
リュミナが遠くから言った。
「皮は食べない」
「中身は食うだろ」
「それは食べ物だからだ」
リクは少し笑った。
王都へ向かう準備が始まる。
金木犀の箱。
王妃のもう一通の手紙。
リクとリオン。
母と呼べるかもしれない人の言葉。
また、新しい扉が開こうとしていた。
だが今夜はまだ、戻り香の家の灯りの下にいる。
リオは小瓶を一つ作った。
声守草。
封書。
ミナの三行の手紙。
リクの「母さん、たぶん」。
ヴァルツの震える手。
そして棚に置かれた焼き栗の皮。
ラベルにはこう書いた。
“まだ開けない手紙。”
香りは残る。
読まれる前の言葉にも。
待たれている沈黙にも。
そして、いつか開けると決めた者の手の震えにも。




