第二十四話 待つ者にも、香りは積もる
アリアンヌ王女は、その日リューネ村に泊まらなかった。
リクが望まなかったからだ。
「今日は、ここまで」
彼はスープを半分残し、焼き栗を一つだけ食べて、そう言った。
アリアンヌは一瞬だけ唇を震わせたが、すぐに頷いた。
「わかった」
「怒らないのか」
「怒らない」
「王女なのに?」
「王女でも」
「姉さんでも?」
アリアンヌの目が揺れた。
リクは自分でその言葉を言ってしまったことに気づき、顔を赤くした。
「今のは、違う」
「うん」
「呼んだわけじゃない」
「うん」
「うんばっかり言うなよ」
アリアンヌは少し笑った。
「ごめ……」
言いかけて、また止まる。
リクはそれを見て、小さく息を吐いた。
「謝るのも、今は少しでいい」
「うん」
「だから、また来ればいい」
その言葉が部屋に落ちた時、リオは金木犀の香りがほんの少しだけ強くなるのを感じた。
アリアンヌは俯いた。
涙が落ちた。
だが、今度は拭わなかった。
「また来ます」
「約束は重いぞ」
セリカが壁際から言った。
「破れば、村に入れない」
アリアンヌは真剣に頷く。
「守ります」
リュミナが籠の中身を確認しながら言った。
「次は肉を多めに」
「リュミナ様」
リオが咳払いする。
アリアンヌは涙の残る顔で小さく笑った。
「はい。肉も」
「よい返事だ」
「お前が約束を増やすな」
セリカはため息をついた。
メリッサ侍女長は、部屋の隅でそのやり取りを静かに見ていた。いつものように姿勢は整っているが、目元が少し赤い。王妃エレオノーラが生きていたなら、この光景をどう見ただろうか。リオはふとそんなことを思った。
王家の隠された少年。
霊廟に沈んだ王女。
白竜。
辺境の村長。
声を取り戻した薬草師。
追放された調香師。
そして、食べ物の約束を重視する竜。
あまりにも不格好だ。
けれど、エレオノーラ王妃なら、きっと「香りは整いすぎない方が残るものです」と言って笑った気がした。
アリアンヌが帰る前、リクは彼女に布袋を一つ渡した。
「これ」
アリアンヌは驚いて受け取る。
「開けても?」
「あとで」
「わかった」
「王城で一人で開けるなよ」
「どうして?」
「泣きそうだから」
アリアンヌは少し困った顔をした。
「では、メリッサと一緒に開けます」
メリッサが静かに頭を下げる。
「お任せください」
リクはそれで納得したらしく、椅子から降りた。
見送りには行かない、と最初は言っていた。
だが馬車が村の入口へ向かう頃、彼は結局、戻り香の家の扉のところまで出てきた。
アリアンヌは振り返らなかった。
たぶん、振り返れば戻りたくなるからだろう。
リクも何も言わなかった。
ただ、片手を少しだけ上げた。
アリアンヌは見ていない。
しかしメリッサが馬車の窓からそれに気づき、静かに微笑んだ。
馬車が去った後、リクはすぐに家へ戻った。
「疲れた」
「はい」
リオは頷いた。
「よく頑張りました」
「頑張ってない」
「そうですか」
「スープ飲んだだけ」
「それも大事です」
リュミナが真剣に頷く。
「非常に大事だ」
リクは少し笑い、それから椅子に座ったまま眠ってしまった。
ミナが毛布をかける。
「本当に疲れたんですね」
「記憶に触れるのは、身体を使いますから」
リオは静かに言った。
「今日は深く開けなかった。それでも、二人分の名前が同じ部屋にいた」
セリカは外を見た。
王女の馬車はもう見えない。
「待つ練習、か」
「はい」
「待つ方も、待たせる方も疲れるな」
「そうですね」
「だが、必要だ」
セリカは白盾を右腕に結び直す。
「盾も、たぶん待つものだ。すぐ斬るのではなく、受ける。すぐ決めるのではなく、持つ」
リオは頷いた。
「アールヴェの言葉みたいですね」
「やめろ。重くなる」
「もう十分重そうです」
「だから言うな」
その夜、アリアンヌから早馬で短い礼状が届いた。
驚くほど早かったので、村人たちは「王女は馬車の中で書いたのでは」と噂した。実際、封筒にはまだ旅の揺れの跡のような乱れがあった。
手紙には、こう書かれていた。
――リクから受け取った布袋を、メリッサと一緒に開けました。
――中には焼き栗が一つ入っていました。
――半分だけ食べました。
――残り半分は、次に会う日まで取っておきます。
――待つ練習は、難しいです。
リクはそれを読んで、しばらく黙った。
「半分残すって、栗が硬くなるだろ」
「そうですね」
リオは言った。
「でも、残したかったのでしょう」
「変なの」
「はい」
「でも、ちょっとわかる」
リクは手紙を自分の布袋へ入れた。
その布袋は、最初の金木犀の手紙と、栗を落とした庭の香りを染み込ませた布と、今日の礼状で少し膨らんだ。
リクの名前は、まだリクのままだった。
けれど、その周囲にリオンの香りが少しずつ積もっていく。
押しつぶすほどではなく。
消えるほど薄くもなく。
待つための厚みとして。
それから数日、戻り香の家は忙しかった。
王女訪問の噂は、当然ながら王都よりも先に周辺の村へ広がった。人々は誇張して語った。王女が白竜に頭を下げた。王女がリューネ村の鍋を三杯飲んだ。王女がリクを王宮へ連れ去ろうとして村長に追い返された。白竜が王女の干し肉をすべて食べた。
最後の噂は、半分ほど真実だった。
「全部ではない」
リュミナは弁明した。
「かなり食べたでしょう」
ミナが言う。
「味見だ」
「何度も味見していました」
「味は時間で変わる」
リクは横から言った。
「それはちょっとわかる」
「お前は賢い」
「でも食いすぎ」
「そこはまだ学びが足りない」
セリカは二人を見て、頭を抱えた。
リオはその光景を見ながら、新しい香りを調合していた。
“待つ練習”の改良版。
最初の瓶は、アリアンヌとリクが同じ卓についた瞬間を閉じ込めたものだった。金木犀、根菜スープ、焼き栗、震える二つの手。だがそれは強すぎて、本人たち以外には扱いが難しい。
今回作るのは、もっと穏やかな香り。
離れていても約束を覚えていられる香り。
会えない時間を空白にせず、しかし苦しみで埋め尽くさない香り。
材料は、金木犀をほんのわずか。
焼き栗の皮。
リューネ村の薪。
王妃の菫を薄く。
白盾の朝の雨を一滴。
そして、リクがアリアンヌへ渡した焼き栗の残り香を布から少しだけ。
ミナが隣で記録する。
「これは誰に使う香りですか」
「まずはアリアンヌ殿下とリクさんに。うまくいけば、離れている家族や、会う準備ができていない人にも使えるかもしれません」
「再会の香りではなく、再会までの香りですね」
「そうです」
ミナは少し考えた。
「名前は?」
リオは小瓶を見た。
「“半分残した栗”でしょうか」
ミナは笑った。
「いいと思います」
「本当に?」
「はい。少し変で、でも忘れにくいです」
その時、リュミナが遠くから叫んだ。
「半分残すなら、半分食べる者が必要だ!」
「あなたの出番ではありません!」
ミナが返した。
戻り香の家には、こうして日々が積もっていった。
大きな事件がない日にも、記憶は作られる。
リクが初めて薬草畑の草取りを手伝い、途中で飽きてリュミナと虫を追いかけた日。
セリカが白盾を使った訓練を始め、盾の重さに不機嫌になった日。
ミナがリクに薬草の名前を教え、彼が「どれも長い」と文句を言った日。
リュミナが栗入りスープ第二案を提案し、村全体から却下された日。
リオが調香中に眠りかけ、セリカに本当に額を弾かれた日。
どれも王国史には載らない。
だが、忘却に抗う家には、そういう記憶こそ必要だった。
そんなある夕暮れ、王都から重い封書が届いた。
差出人は国王。
封蝋は黒と白の二重。
リオはそれを見た瞬間、香りの重さで内容を察した。
裁きの知らせ。
戻り香の家の台所に皆が集まった。
リクもいた。
彼はアリアンヌに関するものかと身構えている。リオは封を開け、まず国王の手紙を読んだ。
――リオ・クラウゼン、セリカ・アルヴァン、ミナ・リュース、白竜リュミナ、ならびに戻り香の家の者たちへ。
――王女アリアンヌ、第二王子エルヴィン、元典礼官グラント・ローヴェル、宮廷魔術師オルドレイ・ザーム、その他関係者の第一回公開審理が終わった。
部屋が静まる。
ミナの手が膝の上で固く握られる。
――王女アリアンヌは、自らの関与を認めた。忘却の獣を王都へ広げようとした罪、名を捨てた騎士たちへの命令、王妃毒殺を止められなかった責任について証言した。
リクが息を呑む。
リオは続きを読んだ。
――ただし、幼少より封印の器として扱われていた事実、王家と神官団による長期的な精神的損傷も同時に認定された。王女は当面、王位継承権を凍結され、記憶院の監督下で治療と証言を続ける。
リクは小さく言った。
「牢屋じゃないのか」
セリカが答える。
「罪は軽くない。だが、壊された者としての扱いも必要だという判断だろう」
リクは黙った。
――第二王子エルヴィンは、白竜捕縛計画、忘却石の軍事転用、リューネ村襲撃命令、複数の記録改竄を認めた。彼は王位継承権を永久剥奪され、審理継続中は王城西塔に拘禁される。
リュミナが鼻を鳴らす。
「西塔に肉はあるのか」
セリカが言う。
「そこを心配するな」
リオは続けた。
――エルヴィンは審理の中で、「姉を救うためという言葉を盾に、多くの者を傷つけた」と述べた。白盾の誓いを引用し、「私の罪は誰かを焼くためではなく、二度と王家が同じ刃を振るわぬために記録されるべきだ」と証言した。
セリカの表情が少し変わった。
白盾の言葉が、王都に届いている。
――グラント・ローヴェルは、ミナ・リュースの発声封印を含む全ての罪を認めた。彼は被害者に直接の返答を求めないこと、自らの記録を公開審理に残すこと、妻エリスと娘リリアの名を忘却の中へ戻さないことを望むと述べた。
ミナは目を閉じた。
リオは一度読むのを止めた。
「続けても?」
ミナは小さく頷いた。
――判決はまだ下されていない。ただし、被害者の証言を待たずに量刑を急ぐことはしない。被害者が証言しない権利もまた尊重される。
ミナは深く息を吐いた。
「証言しない権利……」
セリカが静かに言う。
「よかったな」
ミナは頷いた。
「はい。まだ、行けません。でも、行かないことも選べるなら……少し息ができます」
リオは手紙の最後を読んだ。
――オルドレイ・ザームは、当初、自らの研究の正当性を主張した。しかし白盾墓所で得た記憶の影響が残り、審理中に複数の実験被害者の名を口にした。記憶院は彼を監視下に置き、罪の記録と精神保護の両立を試みている。
――裁きは始まったばかりである。早急な赦しも、忘却も、見世物のような断罪も避けねばならぬ。
――私は王として、その重さを負う。
――だが王だけが負えば、また歪む。
――リューネ村の戻り香の家には、今後も助言を求めたい。
――アルヴァンの盾、白竜の記憶、薬草師の声、調香師の香り、そして名を選び直す者たちの時間が、王国に必要である。
手紙はそこで終わっていた。
部屋はしばらく静かだった。
炉の火が鳴る。
外では、春の虫が小さく鳴いている。
最初に口を開いたのは、リクだった。
「姉さん、また来られるのかな」
リオは答えた。
「たぶん」
「たぶんか」
「はい。治療と審理の合間になるでしょうけれど」
リクは布袋を握った。
「じゃあ、栗、残しておかないと」
リュミナが真剣に言う。
「それは難しい修行だ」
「お前にはな」
「私にもできる」
「本当かよ」
「少しなら」
「少しって何分?」
リュミナは黙った。
リクは笑った。
その笑いには、まだ不安が混じっている。
だが、未来を少しだけ考える匂いもあった。
夜、リオは国王からの手紙を記録棚へ納めた。
隣にはアールヴェの記録、リクの香り、アリアンヌの手紙の写し、グラントの審理通知、ミナがまだ開けない封書が並んでいる。
戻り香の家の棚は、ただ瓶を置く場所ではなくなっていた。
香りと手紙。
罪と約束。
まだ読めないもの。
まだ呼べない名。
半分残した栗。
それらすべてが、誰かを急がせないために置かれている。
リオは新しい小瓶を棚に置いた。
“半分残した栗。”
待つ者にも、香りは積もる。
待たせる者にも、待っている間に生まれる記憶がある。
いつか再会した時、人は過去だけで向き合うのではない。
待っていた時間の香りも、一緒に持っていくのだ。
外からリクの声が聞こえた。
「リオ兄ちゃん! リュミナが栗を隠した!」
「隠していない。保存だ!」
ミナの声が続く。
「保存なら棚に戻してください!」
セリカが低く言う。
「今すぐ出せ」
リオは笑いながら棚の扉を閉めた。
王国はまだ揺れている。
裁きは始まったばかり。
リクの名もまだ揺れている。
それでも、戻り香の家には灯りがあり、台所には声があり、棚には半分残した栗の香りがある。
香りは残る。
待つ時間にも。
そして、残った香りがある限り、明日も誰かは自分の名を選び直せる。




