第二十三話 王女からの招待状は、栗の匂いがした
第二十三話 王女からの招待状は、栗の匂いがした
リクは、手紙を何度も読まなかった。
一度読んだきり、金木犀の花と一緒に小さな布袋へ入れ、枕の下に隠した。誰かが触ろうとすると怒った。リュミナが「香りだけ嗅がせろ」と言った時は、本気で噛みつきそうな顔をした。
「私が噛む側だ」
リュミナは不満そうに言った。
「噛むとか言うからだろ」
リクは布袋を胸に抱えたまま睨んだ。
「これは俺のだ」
「わかっている。だから匂いだけ」
「もっと駄目だ」
「匂いは減らない」
「気分が減る」
リュミナは少し考えた。
「それは大事だ」
そう言って引き下がったので、リクは逆に戸惑っていた。
リオはその様子を見て、少し安心した。
リクはまだ混乱している。夜にうなされることもある。金木犀の香りを嗅ぐと、顔色を変えることもある。それでも、彼は手紙を捨てなかった。リオンという名を拒みながら、その名を完全に追い出そうともしていない。
名前の周りに、少しずつ場所を作っている。
それは香りを調合する作業に似ていた。
強すぎる香りは、他の香りを潰す。弱すぎれば、何も残らない。急いで混ぜれば濁り、無理に分ければ壊れる。必要なのは時間と、温度と、本人が息を吸えるだけの余白だった。
戻り香の家の棚には、新しい瓶が増えた。
“今日の名はリク。”
リクはそのラベルを見て、最初は嫌そうな顔をした。
「なんか日記みたいだ」
「日記に近いですね」
リオが答えると、リクは瓶をじっと見た。
「明日、違ったらどうするんだ」
「新しい瓶を作ります」
「無駄じゃない?」
「香りに無駄はあまりありません」
「干し肉を隠すのは?」
ミナが横から聞く。
リュミナが視線を逸らした。
「標本だ」
「それは無駄です」
「香りの未来投資だ」
セリカが壁際で書類を読んでいたが、顔を上げずに言った。
「未来の夕食から差し引くぞ」
リュミナは黙った。
リクはそれを見て笑った。
笑ったあとで、自分が笑ったことに驚いたような顔をした。
そういう日々が続いた。
王都からは、頻繁に手紙が来るようになった。
国王からは公文書。白盾記録の復元状況、罪の回廊改革の進捗、忘却石の残片回収報告。メリッサ侍女長からは、王妃の遺品に残る香りの目録。グラントの審理記録は、ミナに読むかどうか確認してから届けられた。彼女はまだ読まないと言ったが、封を捨てずに保管した。
アリアンヌからの手紙は、二通目が十日後に届いた。
今度は、封筒から金木犀と、微かな栗の香りがした。
リュミナがすぐ反応した。
「良い封筒だ」
リクは警戒した。
「何で栗?」
リオは封を見た。
宛名はこう書かれていた。
“リューネ村 戻り香の家
リクへ。
読みたい時に。”
リクはしばらく封筒を見ていた。
「……今は読まない」
「わかりました」
リオが引き出しにしまおうとすると、リクは慌てて言った。
「いや、そこじゃなくて」
「どこに置きますか」
「俺のところ」
「はい」
リクは封筒を受け取り、しばらく匂いを嗅いで、眉をひそめた。
「栗の匂いがする」
リュミナが身を乗り出す。
「やはり」
「嗅ぐな」
「嗅いでいない。感じただけだ」
「近い」
リュミナは少しだけ下がった。
リクは封筒を抱えたまま台所へ行き、しばらくして戻ってきた。
「読む」
その声には、決意よりも不機嫌が勝っていた。
「栗で釣るの、ずるい」
「確かに」
リオは笑いをこらえながら頷いた。
台所の卓に、みんなが集まった。
リクは今回、自分で封を開けた。
中には手紙と、小さな紙包みが入っていた。紙包みには、王都風に砂糖をまぶした焼き栗が三つ。
リュミナの目が光った。
リクは即座に二つを自分の前へ引き寄せ、一つだけリュミナへ差し出した。
「一個だけ」
リュミナはそれを両手で受け取った。
「お前は交渉ができる」
「取られたくないだけだ」
「それが交渉の始まりだ」
セリカがぼそりと言う。
「何を教えているんだ」
リオは手紙に目を落とした。
リクが読むか迷っていたので、今回はリオが声に出すことになった。
――リクへ。
――前の手紙を読んでくれてありがとう。読まなくてもよかったのに、読んでくれたことを覚えておきます。
リクは焼き栗を指で転がしながら聞いていた。
――あなたが怒っているなら、それは正しい怒りです。私にも、父上にも、王家にも、あなたの名を封じた者たちにも怒っていい。
――ただ、もし怒る相手を探すうちに自分を傷つけそうになったら、誰かに椀を渡してもらってください。リュミナに教わりました。泣いた後は食べる。怒った後も、たぶん食べる。
リュミナが満足そうに頷いた。
「王女は本当に進歩している」
リクは小さく笑った。
「たぶんって書いてる」
「謙虚だ」
リオは続きを読んだ。
――私は、あなたをリオンと呼びたい日があります。けれど、今は呼びません。あなたがリクでいる日を奪いたくないからです。
――王都の記録では、リオンという名は消されています。けれど、母上の私室にあった古い刺繍布に、あなたの名の一部が残っていました。金木犀の花の横に、細い糸で“リオ――”と。
――メリッサは、それを見て泣きました。私は泣けませんでした。泣く前に、怖くなったからです。
リクの指が止まる。
――あなたが本当に弟なら、私はあなたを守れなかった姉です。あなたが弟でなかったとしても、あなたは王家の都合で名を傷つけられた子です。
――どちらにしても、私は会うのが怖い。
――でも、会いたい。
沈黙が落ちた。
リオは手紙を置こうとしたが、リクが小さく言った。
「続き」
リオは頷き、読み続けた。
――無理に王都へ来てほしいとは言いません。
――もしあなたが望むなら、私がリューネ村へ行きます。王女としてではなく、アリアンヌとして。もちろん、セリカ村長が許可してくれるなら。
セリカが腕を組んだ。
「許可制は当然だな」
リュミナが栗を食べながら言う。
「肉も持ってくるならよい」
「村長は私だ」
「食事担当の意見も必要だ」
「いつから担当になった」
リクは手紙の最後を見た。
――追伸。
――焼き栗を同封します。リュミナに全部取られないようにしてください。
リュミナは真顔で言った。
「王女は私を誤解している」
リクが即答する。
「合ってるだろ」
部屋に笑いが広がった。
リクは笑いながらも、目に涙を浮かべていた。
彼は手紙を丁寧に畳み、焼き栗を一つ口に入れた。
「甘い」
「王都風ですね」
ミナが言った。
「村の栗とは違います」
リクは少し考え、残りの一つを見た。
そして、それを布に包んだ。
「食べないのか」
リュミナが問う。
「残す」
「なぜ」
「匂いが消えるの、嫌だから」
リュミナは真剣に頷いた。
「わかる」
リクは少しだけ彼女を見直したようだった。
その日の午後、リクは初めて自分から調香室へ来た。
「金木犀、もう一回嗅ぎたい」
リオは作業の手を止めた。
「大丈夫ですか」
「わかんない」
「では少しだけ」
「逃げたら止めて」
「はい」
リオは金木犀の香りを小皿に一滴だけ落とした。
リクは慎重に息を吸う。
肩が震える。
だが、今度は目を逸らさなかった。
「庭がある」
「はい」
「噴水も」
「はい」
「姉さんは……泣いてる。でも、ずっと泣いてるわけじゃない。俺に焼き栗をくれたことがある」
「思い出しましたか」
「たぶん」
リクは眉をしかめる。
「王都の栗、甘い。俺は半分落として、姉さんが笑った。たぶん」
「よい記憶ですね」
「よいのかな」
「あなたが嫌でないなら」
リクはしばらく考えた。
「嫌じゃない。でも、胸が変」
「痛いですか」
「痛い。でも、ちょっと温かい」
リオは微笑んだ。
「それなら、急がずに置いておきましょう」
リクは頷いた。
「瓶、作る?」
「作りたいですか」
「少し」
リオは空瓶を出した。
リクは自分でラベルを書くと言った。
字は少し乱れていた。
“栗を落とした庭”
リオはそれを見て、胸が温かくなった。
金木犀。
白い噴水。
砂糖をまぶした焼き栗。
子どもの失敗。
姉の笑い。
王家の罪や封印の奥にも、こういう記憶は残っている。
それを見つけられるなら、リクは自分の名前を選ぶ時、ただ痛みだけで決めなくて済むかもしれない。
数日後、アリアンヌ王女のリューネ村訪問が正式に打診された。
王都は大騒ぎだったらしい。
王女を辺境の村へ送るなど危険だという者。
白竜のもとへ行かせるべきではないという者。
王女は審理前であり、自由に移動すべきではないという者。
一方で、王女自身は「王女としてではなく、記憶の傷を持つ者として戻り香の家を訪れる」と主張した。
国王は条件付きで許可した。
護衛は最小限。
村の許可を得ること。
リクが拒めば会わないこと。
そして、訪問の目的を政治利用しないこと。
セリカは書簡を読んで、深いため息をついた。
「面倒な客だ」
リオは尋ねた。
「断りますか」
「リクが嫌なら断る」
全員がリクを見た。
リクは椅子の上で膝を抱えていた。
「俺が決めるのか」
セリカは頷く。
「お前に会いに来る話だ」
「王女なのに?」
「この村では、名乗った者として扱う。王女だろうと竜だろうと、空腹の子どもだろうと同じだ」
リュミナが言った。
「竜は少し多めに扱え」
「黙れ」
リクはしばらく黙った。
窓の外では、春の風が薬草畑を揺らしている。
「会いたいか、わからない」
「はい」
リオは言った。
「怖い」
「はい」
「でも、来るなら……」
リクは手紙の布袋を握る。
「村の外じゃなくて、ここがいい」
「戻り香の家で?」
「うん。王城みたいなところじゃなくて。スープがあるところ」
リュミナが頷く。
「賢い」
ミナが優しく言った。
「では、ここで会いましょう。会いたくなくなったら、会わなくていいです」
「途中で逃げても?」
「はい」
「怒られない?」
セリカが言った。
「怒る者がいたら、私が追い出す」
リクは少し笑った。
「村長、怖いもんな」
「正しい認識だ」
こうして、アリアンヌ王女のリューネ村訪問が決まった。
村はまた騒がしくなった。
王女を迎えるための部屋をどうするか。
護衛をどこに泊めるか。
食事は何を出すか。
リュミナは当然のように栗入りスープを主張した。
セリカは「初対面にあの賛否のある料理を出すな」と言った。
ミナは「金木犀に合わせるなら、甘くない栗パンもいいかもしれません」と提案した。
リオは香りの準備をした。
強い治療香ではない。
金木犀。
菫。
白薔薇。
焼き栗。
リューネ村のスープ。
そして“今日の名はリク”の香りを薄く。
アリアンヌが来た時、彼女がリクを過去へ引き戻しすぎないように。
リクがアリアンヌを拒んでも、その拒絶が罪悪感に変わりすぎないように。
会うというのは、ただ顔を合わせることではない。
二人分の記憶が、同じ部屋で息をすることだ。
そのためには、空気を整える必要がある。
訪問前夜、リクは眠れなかった。
戻り香の家の台所で、彼はリオと向かい合って座っていた。炉の火は小さく、外は静かだった。
「明日、俺が何も言えなかったら?」
「黙っていてもいいです」
「逃げたら?」
「逃げ道を確認しておきます」
「泣いたら?」
「布を用意します」
「怒鳴ったら?」
「それも言葉です」
リクは卓の木目を指でなぞった。
「姉さんって呼べなかったら?」
リオは少し考えた。
「アリアンヌさん、と呼べばいいと思います」
「王女なのに?」
「ここでは、名乗った者として扱います」
リクは小さく笑った。
「セリカと同じこと言う」
「村の言葉が移りました」
「リオ兄ちゃんはさ」
リクは初めて、自然にそう呼んだ。
リオは胸の奥が少し温かくなった。
「はい」
「母さんのこと、思い出してよかった?」
リオはすぐには答えられなかった。
炉の火が小さく鳴る。
母の雨。
薬の匂い。
冷たくなる手。
森が寝ぼけているような失敗作。
「痛かったです」
リオは言った。
「今も痛い。でも、思い出してよかったと思います」
「何で」
「母が死んだ日の中に、母の言葉もあったからです。忘れてもいい。戻っておいで、と」
リクは静かに聞いていた。
「俺も、戻れるかな」
「どこへ?」
「わかんない。リクに。リオンに。庭に。ここに」
リオは微笑んだ。
「全部に、少しずつ戻れるかもしれません」
「欲張りじゃない?」
「人はだいたい欲張りです」
「またおっさんみたい」
「兄ちゃんでお願いします」
リクは今度ははっきり笑った。
翌朝、王女の馬車がリューネ村に着いた。
豪華な馬車ではなかった。
王家の紋章も小さく、護衛も少ない。ハルトが先導し、メリッサ侍女長が同行している。村人たちは遠巻きに見ていた。好奇心、警戒、同情、怒り。さまざまな匂いが混じる。
馬車の扉が開く。
アリアンヌ王女が降りた。
白い旅行用の外套。顔の黒紋は薄布で隠していない。髪は簡素に結われ、手には小さな籠を持っている。籠からは、焼き栗と金木犀の香りがした。
彼女は村の標柱の前で立ち止まった。
“王都の者を信じるな。”
“それでも、名を聞け。”
その下の子どもの落書き。
“お腹がすいたら鍋へ。”
アリアンヌはそれを見て、少しだけ笑った。
セリカが前に出た。
「リューネ村村長、セリカ・アルヴァンです。名を」
アリアンヌは深く頭を下げた。
「アリアンヌ・リュゼ・ヴァルクスです。王女としてではなく、リクに会いたい者として来ました」
セリカは短く頷いた。
「入村を認める。ただし、この村では王女の命令は通らない」
「はい」
「リクが会いたくないと言えば帰ってもらう」
「はい」
「食事は出す。残すなとは言わないが、無理に褒めなくていい」
アリアンヌは少し戸惑った。
メリッサが後ろで静かに微笑む。
リュミナが現れた。
「肉は持ってきたか」
「リュミナ様」
セリカが低く言う。
アリアンヌは籠を差し出した。
「焼き栗と、干し肉を少し」
リュミナの表情が明るくなった。
「入村を認める」
「お前が決めるな」
村人たちの間から小さな笑いが漏れた。
その笑いで、緊張が少しほどけた。
アリアンヌは戻り香の家へ案内された。
リクは中にいた。
台所の椅子に座り、両手を膝の上で握っている。顔色は悪い。けれど逃げていない。リオは彼の隣に立ち、ミナはスープの鍋を見ている。リュミナは扉の近くで籠を見つめ、セリカは壁際に腕を組んでいる。
アリアンヌが入ってきた瞬間、金木犀の香りが部屋に広がった。
リクの肩が震える。
王女も震えていた。
二人はしばらく何も言わなかった。
アリアンヌが先に口を開いた。
「リク」
その名で呼んだ。
リクの目が揺れる。
「……うん」
アリアンヌは泣きそうな顔で微笑んだ。
「会ってくれて、ありがとう」
リクは唇を噛んだ。
「まだ、会うって決めてない」
「そうね」
「ここにいるだけ」
「うん」
「姉さんって呼ぶかも、決めてない」
アリアンヌの目から涙が落ちた。
「うん」
リクは困ったように顔を歪めた。
「泣くなよ」
「ごめんなさい」
「謝るなよ」
「ごめ……」
アリアンヌは言いかけて、止まった。
リクは小さく息を吐いた。
「座れば」
王女は椅子に座った。
ミナが二人の前にスープを置く。
普通の根菜スープ。
栗入りではない。
だが横の皿には、焼き栗が少し乗っている。
リュミナは不満そうだったが、セリカが睨んで黙らせた。
リクはスープを見た。
アリアンヌも見た。
二人は同じタイミングで椀を持った。
その仕草が、少し似ていた。
リクはそれに気づき、顔をしかめた。
アリアンヌは気づいて、泣き笑いのような顔をした。
リオは静かに香りを整えた。
金木犀が強くなりすぎないように。
菫が母の影を呼びすぎないように。
焼き栗が、痛みではなく小さな笑いへ繋がるように。
長い沈黙の後、リクが言った。
「栗、落としたことある?」
アリアンヌは息を呑んだ。
そして、頷いた。
「あなたが落とした。噴水に」
「俺?」
「うん。拾おうとして、袖まで濡らした」
リクは眉を寄せた。
「それで?」
「私が笑ったら、あなたが怒った」
「……覚えてる気がする」
アリアンヌの手が震える。
「そう」
「でも、全部じゃない」
「うん」
「俺、リクだから」
「うん」
「リオンでもあるかもしれないけど」
「うん」
「まだわかんない」
「待つ」
アリアンヌは言った。
「どれだけでも」
リクは目を伏せた。
「王族って、待つの苦手そう」
アリアンヌは小さく笑った。
「たぶん、とても苦手」
「じゃあ練習しろよ」
「はい」
それは、姉弟の再会というには不格好だった。
抱き合うこともない。
涙の和解もない。
名前もまだ定まらない。
けれど、二人は同じ卓でスープを飲み、焼き栗を一つずつ食べた。
それだけで、今日としては十分だった。
リュミナが小声で言う。
「やはり食事は偉大だ」
セリカが小声で返す。
「今日は認める」
ミナは目元を拭きながら笑った。
リオは小瓶を取り出した。
金木犀。
根菜スープ。
焼き栗。
震える二つの手。
呼ばれた名はリク。
まだ呼ばれない名はリオン。
待つと決めた姉。
逃げずに椀を持った弟。
ラベルには、こう書いた。
“待つ練習。”
香りは残る。
急がず、押しつけず、消さずに。
その日の戻り香の家には、春の光が差し込んでいた。
そして、金木犀の季節ではないのに、確かにどこかで小さな花が咲いたような匂いがした。




