第二十二話 金木犀の庭は、地図にない
リクは、朝ごとに名前を変えなかった。
一日目もリク。
二日目もリク。
三日目の朝には、寝癖だらけの髪で台所へ現れ、リュミナの椀を指さして言った。
「それ、俺の分より肉が多い」
リュミナは椀を抱え込んだ。
「竜の分だ」
「今は子どもの姿だろ」
「魂が竜だ」
「胃袋だけだろ」
「お前、口が悪いな」
「そっちに言われたくない」
セリカはそのやり取りを聞きながら、炉のそばで革手袋を嵌めていた。
「馴染むのが早いな」
リオは調香台の上で小瓶を整理しながら頷いた。
「子どもは、帰る場所を嗅ぎ分けるのが早いのかもしれません」
「お前は遅かったな」
「否定できません」
ミナが焼きパンを切り分けながら言った。
「リオさんは、帰る場所があるって気づくまで時間がかかっただけです」
「優しい解釈ですね」
「事実です」
リュミナが肉を一切れリクの椀へ移した。
「ほら」
リクは目を丸くした。
「いいのか」
「今日はお前の名が逃げなかった。褒美だ」
リクは不満そうに眉を寄せながらも、その肉を大事そうにスープへ沈めた。
「名が逃げるって何だよ」
「私もよくわからない」
「わからないまま言うなよ」
「でも逃げなかったのは事実だ」
リクは何か言い返そうとして、やめた。
椀を見つめ、小さく言った。
「……今日もリクだ」
リオはその声を聞きながら、心の中で記録した。
リク。
三日目。
朝の肉一切れ。
名はまだ揺れているが、本人が選んだ名として残る。
戻り香の家では、リクのために特別な調香はまだ行っていなかった。
本人が拒んでいるからだ。
リオは無理をしなかった。名札も棚の奥にしまい、リクの前では出さない。アリアンヌからの手紙も届いていたが、リクに読むかどうか尋ねる前に、まず封を見せるだけにした。
リクは封筒を見て、顔をしかめた。
白薔薇と菫の香り。
王女の手紙。
「読まない」
「わかりました」
リオはすぐに引っ込めた。
リクは少し拍子抜けしたようだった。
「いいのかよ」
「はい」
「王女なんだろ」
「そうですね」
「偉い人の手紙だろ」
「でも、あなた宛てです。読むかどうかは、あなたが決めていい」
リクは黙った。
しばらくして、ぼそりと言った。
「じゃあ、置いといて」
「はい」
手紙は戻り香の家の小さな引き出しにしまわれた。
鍵はかけない。
だが誰も勝手に開けない。
その夜、リクは引き出しの前に十分ほど立っていた。開けなかった。翌朝も、開けなかった。けれど毎日一度は見に来る。
それもまた、戻るための準備なのだろう。
四日目の昼、リクは村の子どもたちと外へ出た。
最初は警戒していたが、そばかすの少年が木弓の作り方を教えると言うと、少しだけ興味を示した。王都の下町育ちのリクは、雪解けの森を歩くのが下手だった。泥に足を取られ、枝に外套を引っ掛け、そのたびに不機嫌そうに舌打ちした。
だが、夕方には子どもたちと一緒に戻ってきた。
手には曲がった小枝の弓。
顔には泥。
髪には枯葉。
匂いには、かすかな笑いの跡。
「ひどい顔だな」
セリカが言うと、リクは胸を張った。
「森の訓練だ」
そばかすの少年が横から言う。
「二回転んだ」
「一回だ!」
「沢にも落ちた」
「落ちてない、足を調べただけだ」
リュミナが興味深そうに聞く。
「沢は食べられるものがあるか」
「魚がいた」
「なぜ捕らなかった」
リクとそばかすの少年は顔を見合わせた。
そして、翌日、勝手に沢へ魚を捕りに行こうとしてミナに見つかり、二人とも叱られた。
リュミナも一緒に叱られた。
「なぜ私まで」
「提案したからです」
ミナの声は優しかったが、逃げ場がなかった。
リュミナはしばらく黙り、最後に言った。
「ミナはアールヴェに似てきた」
セリカが吹き出しそうになった。
ミナは少し誇らしそうにした。
そうして、リクは少しずつ村の匂いを身につけていった。
王都の煤と古いパンの匂いは消えない。
だが、そこに薪、泥、森、山羊、薬草、スープが混じり始める。
名前の下に名前がある少年。
けれど、今の彼の上にも新しい記憶が積もっていく。
五日目の夜、リクは初めて夢を見て叫んだ。
戻り香の家の寝室から、短い悲鳴が響いた。
リオが駆けつけた時、リクは寝台の上で膝を抱えていた。目は開いているが、現実を見ていない。ミナが灯りを持ち、セリカが入口に立ち、リュミナが寝台の横でじっと彼を見ている。
「リクさん」
リオは低く呼んだ。
リクの肩が震える。
「リクさん。ここは戻り香の家です。リューネ村。あなたは寝台にいます」
リクは口を動かした。
「庭……」
「庭?」
「金木犀の庭。地図にない。姉さんが、泣いてた」
リオは息を止めた。
金木犀。
王女の幼い庭の香り。
「誰が泣いていましたか」
リクの目から涙が落ちた。
「わからない。顔が白くて、半分黒くて、でも小さかった。今の王女じゃない。子どもだった」
アリアンヌの幼少期。
霊廟に触れ始めた頃か。
「あなたは、そこにいたのですか」
「いた。たぶん。噴水の下に隠れてた。姉さんが、誰かに連れていかれる。俺、叫ぼうとした。でも、声が出なくて」
ミナが自分の喉に手を当てた。
声を奪われる夢は、彼女にも痛いほどわかるのだろう。
リクは震える声で続けた。
「誰かが言った。忘れろって。お前はここにいちゃいけないって。名前を置いていけって」
「名前を……」
リオは静かに赤鈴草の香りを焚いた。
「今の名前を言えますか」
リクは息を荒げる。
「リク」
「もう一度」
「リク」
「ここはどこですか」
「戻り香の家」
「何を食べましたか」
「……夜、豆のスープ。リュミナが肉を三つ取った」
リュミナが小声で言う。
「二つだ」
セリカが即座に返す。
「三つだ」
リクの目に少し光が戻った。
「三つだった」
リュミナは不満そうに黙った。
現実の記憶が戻ってきた。
リオは安堵し、香りを弱めた。
「今はここにいます。夢は夢です。でも、必要なら明日、その庭の香りを一緒に見ます」
リクはすぐに首を振った。
「嫌だ」
「では見ません」
「でも……」
彼は毛布を握る。
「見ないと、ずっと来る気がする」
その気持ちは、リオにもわかった。
封じた香りは、封じたままでも漏れる。
向き合うことを急いではいけない。だが、逃げ続けることもまた苦しい。
「少しだけにしましょう」
リオは言った。
「扉を全部開けるのではなく、隙間から庭の匂いを見るだけです。嫌になったら止める。必ず」
リクはしばらく黙り、頷いた。
「明日」
「はい。明日」
リュミナが真剣に言った。
「明日の朝は肉を多めにする。夢の後は食べる」
「それは本当?」
リクが聞く。
「本当だ」
ミナも頷いた。
「本当です。体力を使いますから」
リクは少しだけ安心したように、毛布を引き上げた。
「じゃあ、肉多め」
「はい」
翌朝、戻り香の家の台所では、リクの椀に肉が多めに入った。
リュミナは自分の椀をじっと見ていた。
「私の方が少ない」
セリカが言う。
「今日はリクの日だ」
「竜にも日が必要だ」
「毎日だろう」
「そうかもしれない」
朝食の後、調香室にリクが入った。
彼は落ち着かない様子で棚を見回した。小瓶、薬草、香炉、布、筆記具。王都の魔術室とはまるで違う。ここには鋭い金属臭や強制的な魔力の匂いが少ない。代わりに木、火、薬草、食べ物、雨がある。
「変な部屋」
リクは言った。
「よく言われます」
リオは机の上に何も置かず、まず空の小皿だけを出した。
「今日は記憶を取り出すのではなく、庭の匂いが本当にあるか確かめます」
「どうやって」
「あなたが覚えているものを一つずつ言ってください。僕とミナさんが香りにします。無理に奥へは入りません」
リクは椅子に座った。
リュミナは床に座り、セリカは壁際に立つ。ミナは記録帳を開いた。
「金木犀」
リクが最初に言った。
「黄色い花。秋。甘いけど、少し苦い」
リオは金木犀の乾燥花を取り出す。
王都から薬草種と一緒に届いたものだ。香りを立てると、リクの肩が少し震えた。
「噴水」
「石ですか、水ですか」
「白い石。水は冷たい。底に銅貨が落ちてる」
ミナが白い小石と銅貨を用意する。水を一滴。
「木馬」
「大きさは」
「子ども用。赤い鞍。片目が取れてる」
リオは古い木片と革、赤い染料の香りを加えた。
リクの呼吸が速くなる。
「大丈夫ですか」
「まだ」
「止めてもいいです」
「まだ」
次に、リクは言った。
「姉さんの手」
調香室が静かになった。
「どんな匂いでしたか」
リクの目が揺れる。
「菫じゃない。白薔薇でもない。薬っぽい。冷たい。いつも少し血の匂いがした。でも、俺に触る時は、金木犀の花を握ってから来た」
ミナが目を伏せた。
アリアンヌは幼い頃から霊廟の封印に関わっていた。手に血の匂いがあったということは、その頃からすでに記憶を捧げられていたのだろう。
リオは王女の手紙に残る白薔薇と菫の香りを使わず、代わりに薬草、冷たい水、金木犀を重ねた。
「次は?」
リクは唇を噛む。
「名前」
リオは手を止めた。
「聞こえますか」
「聞こえない。でも、姉さんが呼んでる。リクじゃない。リクじゃ……ない」
彼の身体が震え始めた。
リオはすぐに香りを弱めようとした。
だが、リクが机を掴んだ。
「待って」
「危険です」
「聞こえるかもしれない」
「急がなくていい」
「でも、逃げたらまた夢に来る!」
リオは彼の目を見た。
恐怖。
怒り。
そして、知りたいという強い匂い。
「わかりました」
リオは頷いた。
「ただし、僕が止めると言ったら止めます」
「わかった」
「リュミナ様、もし僕が遅れたら」
「噛む?」
「いいえ、叩いてください」
「わかった」
セリカが言う。
「私もいる」
「心強いです」
リオは最後に、リクの割れた名札を布の上に置いた。
リクの顔が強張る。
「それ……」
「触りません。香りだけ見ます」
名札から、二重の匂いが立つ。
リク。
下町。
煤。
焼きパン。
そして下層。
金木犀の庭。
姉の手。
白い石の噴水。
消された名前。
リオは香りの層をそっと開く。
無臭の封印が出てくる。
忘却ではない。
守るための封印。
誰かが、この名を隠した。
奪うためか。
守るためか。
その判断はまだできない。
封印の奥から、子どもの声がした。
――リ……
リクが息を止める。
「聞こえた」
リオは香りを安定させる。
――リ……オン……
リオの心臓が跳ねた。
リオン。
リクが呆然と呟く。
「リオン……?」
名札の割れた部分が小さく震えた。
消えかけていた文字の跡が浮かぶ。
“リオン”
ミナが記録帳を握りしめる。
「リオン……」
リクは顔を歪めた。
「違う」
「リクさん」
「違う! 俺はリクだ!」
香りが乱れる。
金木犀が一気に強くなり、調香室の壁が揺れたように見えた。
リオはすぐに赤鈴草を焚く。
「リク! 戻って!」
リクは耳を塞ぐ。
「呼ぶな!」
「リク!」
セリカが強く呼んだ。
「リク! 戻り香の家! 肉多めのスープ!」
リュミナが叫ぶ。
「リク! 私の肉を奪った者!」
「奪ってない!」
リクが反射的に叫んだ。
リュミナは真顔で頷いた。
「戻った」
リオは香りを閉じた。
調香室に金木犀の残り香だけが漂う。
リクは荒く息をしていた。
涙が頬を伝っている。
「俺は……」
彼は震える声で言った。
「俺は、リクだ」
リオは頷いた。
「はい」
「でも、リオンって呼ばれた」
「はい」
「じゃあ、どっちなんだよ」
リオは静かに答えた。
「今は、どちらもあなたの近くにあります」
「答えになってない」
「すみません。でも、急いで一つに決める必要はありません」
リクは拳で目をこすった。
「姉さんって、王女なのか」
「可能性は高いです」
「俺、王族なのか」
「まだわかりません」
「王族だったら、リクじゃなくなるのか」
「いいえ」
リオははっきり言った。
「リクとして食べたスープも、転んだ森も、リュミナ様とパンの焦げ目で喧嘩した朝も、消えません」
リュミナが頷く。
「私の肉を狙った記憶も残る」
「狙ってないって!」
リクは泣きながら怒鳴った。
だが、その怒鳴り声には少し現実の匂いが戻っていた。
ミナがそっと布を差し出す。
リクは今度は受け取った。
「アリアンヌ殿下の手紙」
リオは言った。
「読むかどうか、今決めなくていいです」
リクは布で顔を拭きながら、小さく言った。
「……あとで見る」
「はい」
「一人じゃなくて」
「誰と?」
リクはしばらく黙り、部屋を見回した。
リオ。
ミナ。
セリカ。
リュミナ。
最後に、彼は視線を逸らして言った。
「みんなで」
ミナが優しく微笑む。
「はい」
その日の夕方、アリアンヌの手紙が開かれた。
戻り香の家の台所で。
スープの匂いがある場所で。
リクが一人で読まなくていいように。
手紙には、丁寧な文字でこう書かれていた。
――リク、と呼んでよいのかわかりません。
リクの肩が揺れた。
リオは静かに続きを読んだ。
――あなたが今その名を選んでいるなら、私はその名を呼びます。
――もし、あなたの中にリオンという名が眠っているなら、それもまた私にとって大切な名です。
――私は、あなたを覚えています。
リクが息を止めた。
――金木犀の庭。白い噴水。片目の取れた木馬。あなたは私の弟でした。
――けれど、王家はあなたを隠しました。私を霊廟へ繋ぐため、王家の血を分散させないため、そしてエルヴィンを正統な継承者として育てるために。
――母上は反対しました。父上も最後にはあなたを逃がそうとした。けれど、記録官と神官たちはあなたの名を封じ、下町へ移しました。あなたが生き延びるように。王家から遠ざけるように。
――それが救いだったのか、さらなる罪だったのか、私にはわかりません。
リクの手が震える。
ミナがそっと彼の椀を近づけた。
湯気が上がる。
リオは読み続けた。
――私はあなたを探せませんでした。霊廟に縛られ、忘却の声に沈み、あなたの名も消えかけていた。
――それでも、金木犀の匂いだけは時々夢に出ました。小さな手が私の袖を掴んで、「姉さん」と呼ぶ夢です。
――ごめんなさい。
――あなたをリオンに戻したいとは言いません。王都へ戻れとも言いません。王族として生きろとも言いません。
――ただ、あなたが望むなら、いつか会いたい。
――リクとしてでも、リオンとしてでも、どちらでもない名としてでも。
――私は、あなたの姉です。たぶん、その資格がまだ残っているなら。
最後に、金木犀の花が一つ、手紙に挟まれていた。
リクは手紙を見つめていた。
長い沈黙が続く。
リュミナも何も言わない。
セリカも、ミナも、リオも待った。
やがて、リクは小さな声で言った。
「ずるい」
誰も否定しなかった。
「こんなの、怒れないじゃん」
リオは静かに言った。
「怒っていいと思います」
リクは目を上げる。
「いいのか」
「はい」
「姉さんにも?」
「はい」
「王様にも?」
「はい」
「死んだ人にも?」
王妃や、名を封じた者たちのことだろう。
リオは頷いた。
「はい。怒りも残していい」
リクは涙をこぼした。
「じゃあ、怒る」
「はい」
「でも、手紙は捨てない」
「はい」
「金木犀も」
「はい」
リクは手紙を抱きしめた。
「今日は、リクでいい」
リオは微笑んだ。
「はい。リクさん」
リュミナがスープを差し出した。
「泣いた後は食べる」
リクは涙を拭きながら言った。
「それ、本当に便利だな」
「真理だ」
今度は誰も否定しなかった。
夜、リオは新しい小瓶にラベルを書いた。
金木犀。
焼きパン。
白い噴水。
リクとリオン。
怒りと手紙。
まだ会えない姉。
彼は少し考え、ラベルにこう書いた。
“今日の名はリク。”
それは完成した香りではない。
これから変わっていく香りだ。
明日もリクかもしれない。
いつかリオンと呼ばれる日が来るかもしれない。
あるいは、二つを抱えて別の名を選ぶかもしれない。
戻り香の家は、その日まで待つ場所だった。
外では春の夜風が吹いている。
金木犀の季節にはまだ遠い。
けれど、リクの枕元には、手紙に挟まれていた小さな花が置かれていた。
眠る少年の周りに、かすかな甘い香りが漂う。
リオはそっと灯りを消した。
名前は、急がない。
香りは残る。
そして残った香りは、いつか本人が選ぶ名へ続いていく。




