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追放された宮廷調香師は、辺境の村で竜の眠りを解く――香りだけで呪いも戦争も終わらせます  作者: たむ


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第二十一話 王都から来た少年は、自分の名を疑う

夕食前に来た患者は、少年だった。


年は十二、三ほど。王都の下町でよく見かける灰色の上着を着ているが、袖口だけが妙に上等だった。靴は泥だらけで、髪は雨と汗で額に張りついている。痩せてはいるが、目だけは強い。人を疑うことに慣れた子どもの目だった。


少年は戻り香の家の入口に立ったまま、中へ入ろうとしなかった。


背後にはハルトがいた。王都調査隊の制服ではなく、旅装だ。馬を急がせて来たのだろう。外套には泥が跳ね、顔には疲労がにじんでいる。


「リオ殿」


ハルトは短く頭を下げた。


「急ぎの相談です。この子を診ていただきたい」


少年は不機嫌そうに言った。


「診てもらうなんて言ってない」


声は少し掠れていた。


ミナが暖炉のそばから立ち上がる。


「寒かったでしょう。中へどうぞ」


「入らない」


「どうして?」


「名前を聞かれるから」


その言葉で、部屋の空気が変わった。


戻り香の家では、最初に必ず名前を聞く。


忘却に抗うためでもあり、村の門と同じ約束でもあった。けれど少年にとって、その行為は安心ではなく、刃に近いものらしい。


セリカが奥から出てきた。


「名乗れないのか」


少年は彼女を睨んだ。


「名乗れる」


「なら名乗れ」


「嫌だ」


セリカは少しだけ眉を上げた。


「理由は」


少年は唇を噛む。


「言ったら、違うって言われる」


リオは少年の匂いを読んだ。


濡れた石畳。下町の煙。古いパン。血のついた布。王城の菫。白薔薇ではない。だが王家に近い香りが、ほんの微かに混じっている。


そして、奇妙な二重の匂い。


一つの身体に、二つの名前の残り香が重なっている。


リオは椅子を引いた。


「では、名前を聞かずに始めましょう」


セリカがリオを見る。


だが、何も言わなかった。


少年は警戒したまま、少しだけ顔を上げる。


「いいのかよ。ここ、名前を聞く家なんだろ」


「はい。でも、名前を聞くのは縛るためではありません。あなたが今それを怖がっているなら、先に別のことを聞きます」


「何を」


「お腹は空いていますか」


リュミナが即座に頷いた。


「よい質問だ」


少年は初めて、少し戸惑った顔をした。


「……空いてる」


「では、スープを」


「いらない」


腹が鳴った。


部屋中に、かなりはっきり響いた。


少年の顔が真っ赤になる。


リュミナは真剣な表情で言った。


「身体は正直だ」


ミナが笑いをこらえながら、椀を用意した。栗入りではない。今日は根菜と鶏肉の薄いスープだった。喉に優しい薬草が入っている。


少年はまだ入口に立ったままだったが、湯気の匂いに負けたのか、少しずつ中へ入ってきた。


リオはその動きを見守った。


一歩。


二歩。


戻り香の家の床板が軋む。


少年は椀を受け取ると、熱さも気にせず食べ始めた。最初は警戒していたが、一口、二口と進むにつれ、肩の力が少しだけ抜ける。


「ゆっくり」


ミナが言う。


「喉を傷めます」


少年は答えず、椀を抱える。


リュミナが満足そうに言った。


「食べる者は戻れる」


「今は格言っぽいですね」


リオが言うと、リュミナは胸を張った。


「私は学んでいる」


ハルトが部屋の隅で息を整えた。


「この子は、王都の罪の回廊の前で倒れていました」


セリカの顔が鋭くなる。


「罪の回廊は管理下に置かれたはずだ」


「はい。現在は国王直属の記憶院が管理し、一般公開は制限されています。ただ、関係者の証言確認のため、一部の市民が呼ばれることがあります。この子は呼ばれた者ではありません。いつの間にか回廊の入口にいて、王女殿下の名を呼んでいたそうです」


少年の手が止まった。


リオはハルトを見る。


「アリアンヌ殿下の?」


「はい」


少年は低く言った。


「呼んでない」


ハルトは静かに答える。


「呼んでいた。何度も」


「違う」


「では、何と言っていた?」


少年は答えない。


リオは椀から立つ湯気を見た。


少年の周囲の二重の名前。


王女の香り。


罪の回廊。


これはただの記憶障害ではない。


「何があったのですか」


リオが問うと、ハルトは懐から小さな布包みを出した。


中には、割れた名札が入っていた。


木製の小さな札。孤児院や下町の労働宿で使われる識別札に似ている。だが、半分に割れていて、文字の一部が欠けていた。


読めるのは、


“リ――”


だけ。


ハルトは言った。


「この子は自分を“リク”と名乗りました。ですが、名札には別の文字の痕跡があります。記憶院の香読みによれば、札に残る名は“リオ”に近い可能性があると」


リオは一瞬、息を止めた。


少年がこちらを睨む。


「違う。俺はリクだ」


「わかりました」


リオは静かに言った。


「今は、リクさんと呼びます」


少年――リクは、疑うようにリオを見る。


「本当に?」


「はい。あなたが今そう呼ばれたいなら」


「でも、違ったら?」


「違うとわかった時に、考えましょう」


リクは椀を握りしめた。


「みんな、それを言わない。お前は本当は誰だって聞く。リクじゃないかもしれないって言う。じゃあ、俺は誰なんだよ」


その声には怒りがあった。


だが、怒りの奥には恐怖がある。


自分の名が信じられない恐怖。


ミナがそっと椅子を勧めた。


「座ってください。名前は逃げません」


リクは一瞬反発しそうになったが、結局座った。


リュミナが向かいに座り、じっと彼を見る。


リクは眉をひそめた。


「何だよ」


「お前は二つの匂いがする」


「は?」


「一つはリク。もう一つは、まだ湿っている」


リクは嫌そうな顔をした。


「意味わかんねえ」


「私も少ししかわからない」


「じゃあ言うなよ」


リュミナは少し考え、頷いた。


「それもそうだ」


セリカが咳払いした。


「ハルト。王女殿下はこの件を?」


「ご存じです。ですが、この子が王女殿下を見ると混乱するため、まずリオ殿へ預けるようにと」


「なぜアリアンヌ殿下を見ると?」


ハルトは言葉を選んだ。


「この子は、王女殿下を見た瞬間、“姉さん”と呼びました」


部屋が静まり返った。


リクが椀を強く握った。


「呼んでない」


「呼んだ」


「呼んでない!」


椀が揺れ、スープが少しこぼれた。


ミナが布を差し出す。


リクはそれを受け取らない。


リオは少年から立ち上る香りを慎重に読む。


姉。


王女。


リク。


別の名。


孤児院の煤。


王城の古い廊下。


子守唄。


白薔薇ではなく、薄い金木犀。


そして、忘却ではなく、上書きの匂い。


「リクさん」


リオはゆっくり言った。


「あなたの記憶は、消されたというより、別の名前で覆われています」


「どういう意味だよ」


「誰かがあなたに“リク”という名前を与えた。それ自体は嘘ではない。けれど、その下にもう一つ、呼ばれていた名前がある」


「俺はリクだ」


「はい。今のあなたはリクです」


「じゃあそれでいいだろ」


「それでいいかどうかを決めるのは、あなたです」


リクは言葉に詰まった。


リオは続ける。


「ただ、もし下にある名前があなたを苦しめているなら、無理に掘り起こす必要はありません。でも、誰かがあなたの名前を奪って別のものを被せたのなら、それを知る権利はあります」


リクは黙った。


彼の手は震えていた。


セリカが壁にもたれながら言った。


「すぐに決めなくていい」


リクが彼女を見る。


「大人はすぐ決めろって言う」


「私は村長だから、普通の大人より少し面倒だ」


「何だよそれ」


「つまり、待つのも仕事だ」


リュミナが頷く。


「食べ終わるまで待て」


「それはあなたの都合です」


ミナが言う。


しかしリクは、少しだけ笑いそうになった。


その夜、リクは戻り香の家に泊まることになった。


彼は最初、強く拒んだ。王都に帰ると言った。ハルトが「夜道は危険だ」と諭しても聞かなかった。だがリュミナが「夜食に焼きパンがある」と言うと、動きが止まった。


「……泊まってやってもいい」


「賢明だ」


リュミナは満足げに頷いた。


ミナは彼のために小さな寝台を用意した。リクは寝台に座ると、部屋の隅にある香棚をじっと見た。


そこには小瓶が並んでいる。


“ただいま。”


“白盾の名。”


“思い出して食べるもの。”


“アールヴェの朝。”


“王国が忘却から戻った夜。”


リクは一つ一つのラベルを読んで、最後に小さく言った。


「変な名前ばっかり」


「香りの名前ですから」


リオが答えると、リクは少し考えた。


「俺の匂いにも名前をつけるのか」


「必要なら」


「変な名前にするなよ」


「努力します」


「努力って信用できない」


「よく言われます」


リクは毛布をかぶった。


だが、すぐには眠らなかった。


「なあ」


「はい」


「もし俺がリクじゃなかったら、リクはどこへ行くんだ」


リオは答えに迷った。


軽く言えることではなかった。


「消えません」


彼はゆっくり言った。


「あなたがリクとして生きた時間は、消えません。別の名前が見つかったとしても、リクだった時間は残ります」


「二つ名前があってもいいのか」


「いいと思います」


「面倒じゃん」


「人はだいたい面倒です」


リクは毛布の中で少し笑った。


「おっさんみたいなこと言う」


「まだそこまで年ではありません」


「じゃあ兄ちゃん?」


「それでお願いします」


リクはしばらく黙り、それから小さく言った。


「兄ちゃんの名前は?」


「リオ・クラウゼンです」


リクは毛布から目だけを出した。


「俺の名札と似てる」


「そうですね」


「気持ち悪い」


「少しわかります」


「怒らないのかよ」


「僕も少し気持ち悪いので」


リクは今度こそ笑った。


その笑いは短かったが、リオには確かに匂った。


煤けた下町の奥にある、小さな台所の匂い。


誰かが彼をリクと呼び、焼きパンを半分渡した記憶。


それは嘘ではない。


リクはリクとして愛されたことがある。


問題は、その前に何があったかだ。


深夜、リオは調香室でリクの名札を調べた。


ミナも眠らずに付き合っている。セリカは戻り香の家の外で見張り、リュミナは寝台近くで丸くなっていた。本人は警護だと言っていたが、半分は夜食の残りを守っているのだろう。


リオは割れた名札を布の上に置いた。


「木は王都南区の安宿でよく使われる安材です。でも、文字を刻んだ刃は上等。王城の文具室で使われる銀刃に近い」


ミナが眉をひそめる。


「下町の名札なのに、王城の道具で名前が刻まれた?」


「はい。そして香りは二層です。表面にはリク。古いパン、煤、安宿、下町の子どもたち。下層には……」


リオは目を閉じた。


「金木犀。王妃の部屋ではない。王女殿下の幼い頃の庭。白い石の噴水。小さな木馬。誰かが泣いている」


ミナが小さく言った。


「王女殿下の弟は、エルヴィン殿下だけでは?」


「公式には」


リオは名札を見た。


王家の隠された子。


そう考えるのは早すぎる。


だが、アリアンヌを姉と呼んだ少年。


王女の庭の匂い。


リオと似た名の痕跡。


何かが繋がっている。


その時、名札の割れ目から、かすかに無臭の風が出た。


リオはすぐに赤鈴草の香りを焚く。


「まだ忘却石の影響が」


「いえ」


彼は首を横に振った。


「これは忘却ではなく封印です。名前を守るために隠したのか、奪うために隠したのかはまだわかりません」


ミナはリクが眠る部屋の方を見た。


「あの子、怖いでしょうね」


「はい」


「名前を知りたいけど、知ったらリクじゃなくなるかもしれないと思っている」


リオは頷いた。


「だから急ぎません」


「でも王都は急がせるかもしれません」


「そうですね」


アリアンヌはリクを見て何を思ったのか。


国王は知っているのか。


エルヴィンは。


リオの胸に、不穏な香りが広がった。


王家の秘密は、忘却の獣だけでは終わっていない。


翌朝、リクは戻り香の家の台所で焼きパンを食べていた。


リュミナと向かい合い、なぜか真剣にパンの焼き加減について議論している。


「もっと焼いた方がいい」


リュミナが言う。


「焦げるだろ」


「焦げは記憶だ」


「何でも記憶にするなよ」


「食べ物は記憶だ」


「それはちょっとわかる」


「賢い」


リクは褒められて微妙な顔をした。


セリカがリオに小声で言う。


「懐かれているな」


「リュミナ様にですか」


「食べ物経由でな」


ハルトは王都へ戻る準備をしていた。


だがリクは戻らないと言い出した。


「王都には行かない」


ハルトが困った顔をする。


「アリアンヌ殿下が心配している」


「知らない」


「国王陛下も」


「もっと知らない」


リオはリクの前に座った。


「ここにいたいですか」


リクはパンをちぎりながら言う。


「別に」


「では?」


「王都に戻ったら、みんな聞く。お前は誰だ。何を覚えている。王女を姉と呼んだのはなぜだ。名札を見せろ。夢を言え。匂いを嗅がせろ。俺は見世物じゃない」


その怒りは正しかった。


リオはハルトを見る。


ハルトは苦しそうに頷いた。


「王都でそうならないよう努めます。ですが……完全には止められないかもしれません」


リオは考えた。


戻り香の家は、戻るための場所だ。


なら、急いで王都へ突き返すことはできない。


「では、しばらくここにいましょう」


リクが目を上げる。


「いいのか」


「はい。ただし、条件があります」


「何」


「毎朝、今呼ばれたい名前を自分で言うこと。リクならリクでいい。変わったら、それも言う。言いたくない日は、言いたくないと言う」


リクは眉をひそめる。


「面倒くさい」


「名前は面倒です」


「またおっさんみたいなこと言った」


「兄ちゃんでお願いします」


リクは少し笑い、パンを口に入れた。


「……リクでいい。今日は」


「わかりました」


ハルトは安堵と不安の混じった顔で頭を下げた。


「王都にはそう伝えます」


「アリアンヌ殿下にも」


リオが言うと、リクの肩が少し強張った。


だが逃げなかった。


「伝えるだけなら」


「はい」


リュミナが椀を差し出した。


「スープも飲め。名前は腹が減ると逃げやすい」


リクは呆れながらも受け取った。


「それ本当かよ」


「たぶん」


「たぶんかよ」


セリカが壁際で言った。


「この家の真理はだいたいたぶんでできている」


ミナが笑った。


リオも笑った。


だが胸の奥には、リクの名札から立ち上った金木犀の香りが残っている。


王女の庭。


姉と呼ばれたアリアンヌ。


公式に存在しない少年。


そして“リ――”とだけ残った名。


戻り香の家に、新しい迷子が来た。


彼の名は、今日はリク。


明日もそうかもしれない。


違うかもしれない。


だが今は、椀を抱え、焼きパンを食べ、リュミナと焦げ目の議論をしている。


それだけは確かな記憶だった。


リオは小瓶を取り出し、朝の台所の香りを少しだけ閉じ込めた。


焼きパン。


スープ。


金木犀のかすかな影。


二つの名前の間で揺れる少年。


ラベルには、まだ何も書かなかった。


名前は、急がない方がいい。

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