第二十話 栗入りスープは、賛否を呼ぶ
リューネ村へ戻ると、村人たちはまず小鍋を見た。
次に、セリカの腕に括られた白い盾を見た。
最後に、リュミナの腕いっぱいに抱えられた栗を見た。
「……何があったんです?」
鍛冶屋が代表してそう聞いた。
セリカは馬から降り、短く答えた。
「墓を開けた。名を戻した。馬鹿を捕まえた」
「簡潔すぎます、村長」
ミナが苦笑する。
リュミナは栗を掲げた。
「重要なのはこれだ」
「違います」
リオは即座に言った。
「かなり重要だ」
「白盾の記録が最重要です」
「食べながら記録すればいい」
村人たちは顔を見合わせ、それから笑った。
王都から戻った時ほどの緊張はなかった。白盾峠へ向かう一行を見送った村人たちは、忘却石や逃亡魔術師の危険を知っていた。だから無事に戻っただけで、村の空気は大きく緩んだ。
だが、セリカの右腕にある小さな白盾を見た瞬間、何人かは笑いを止めた。
村長の腕の呪いを、彼らは知っている。
三年前から、彼女がどれだけ痛みを隠していたかも知っている。
その腕に、黒紋ではなく白い盾紋が光っている。
老婆エルマが近づいて、セリカの腕を見た。
「痛むのかい」
セリカは少し考えた。
「痛む」
村人たちの顔が曇る。
セリカは続けた。
「だが、前とは違う。これは傷というより……重さだ」
リオは頷いた。
「白盾の力は、痛みや罪を消すものではありません。受け止めて、形を変えます。無理をすれば危険ですが、セリカの腕の呪いは以前より安定しています」
「つまり、村長はまだ無茶できないってことだね」
エルマが言う。
セリカは顔をしかめた。
「私は無茶など」
村人たちが一斉に彼女を見た。
セリカは黙った。
リュミナが真顔で言う。
「セリカは無茶をする。リオもする。ミナは最近するようになった。私はしない」
「一番するのはあなたです」
ミナが言った。
「私は竜の標準範囲だ」
「その標準が危ないんです」
村の入口でそんなやり取りをしていると、そばかすの少年がリオの荷物を覗き込んだ。
「リオさん、また瓶が増えたの?」
「はい。白盾峠の香りです」
「どんな匂い?」
リオは少し迷い、小瓶を一つ取り出した。
“アールヴェの朝。”
栓をほんの少しだけ開ける。
白い石、雨、焼き栗、盾に刻まれた罪。
少年は鼻を近づけ、しばらく黙った。
「……変な匂い」
「そうですね」
「でも、嫌じゃない。なんか、謝らなきゃいけない時の匂いがする」
リオは驚いた。
「鋭いですね」
少年は照れくさそうに鼻をこすった。
「この前、ミナに内緒で干し林檎を一つ食べた時、こんな感じだった」
ミナが振り返る。
「え?」
少年は顔を真っ赤にした。
リュミナが真剣に言う。
「食べ物の罪は重い」
「あなたが言うと説得力が変な方向にありますね」
リオは小瓶の栓を閉じた。
白盾の香りは、確かにそういうものだった。
罪を暴いて焼く匂いではない。
謝らなければならないと気づく匂い。
腕が少し重くなり、それでも動けなくなるほどではない匂い。
戻り香の家では、その夜から記録作業が始まった。
ミナが白盾墓所の写しを整理し、リオが香りの分類を行い、セリカがアールヴェの盾に触れて浮かぶ断片を語る。リュミナは横で焼き栗を食べながら、時々記憶を補足した。
「アールヴェは、よく王を叱っていた」
「初代王をですか」
リオが聞くと、リュミナは頷いた。
「王が会議を抜け出して川で魚を捕っていた時、盾で尻を叩いていた」
ミナの筆が止まる。
「それも記録しますか?」
セリカが少し考えた。
「する」
リオは意外そうに見る。
セリカは淡々と言った。
「王も叱られる存在だったと残すのは、大事だ」
「なるほど」
リュミナは満足げに言う。
「アールヴェはよく叱る。私も王も叱られた。平等だ」
「よい騎士ですね」
「口が悪かった」
「ますます誰かに似ていますね」
セリカがリオを見る。
「誰のことだ」
「さあ」
記録を進めるうち、白盾騎士団の本来の役割も少しずつ見えてきた。
彼らは王家の親衛隊ではなかった。
王を守るだけではなく、王を止めるための騎士団だった。
王が忘却を都合よく使おうとした時、罪を消して民へ責任を押しつけようとした時、白盾は記録を持って立ちはだかる。王が民の痛みを見落とした時、白盾はその痛みを盾に刻み、王の前へ差し出す。
だから王家は恐れた。
剣で襲ってくる反逆者よりも、盾を持って「忘れるな」と立つ者の方が、ずっと都合が悪かったのだ。
「王都は嫌がるでしょうね」
ミナが言った。
「白盾の記録が復元されれば、王を監視する仕組みの正当性になります」
リオは頷いた。
「国王陛下は受け入れるでしょう。でも貴族や官吏の一部は抵抗するはずです。罪の回廊の改革と合わせれば、かなり大きな変化になります」
セリカはアールヴェの盾を見下ろした。
「白盾を復活させろと言われるかもしれないな」
「言われたら?」
リオが尋ねると、セリカは即答した。
「断る」
「断るんですか」
「王都の組織に戻すために名を取り戻したわけではない。必要なのは肩書きではなく、役割だ。リューネ村にも、王都にも、各地にも、忘れるなと言う者がいればいい」
リュミナが頷いた。
「鍋と同じだ。一つでは足りない」
セリカは言い返しかけ、少し黙った。
「……例えは変だが、まあそうだ」
リュミナは勝ち誇った顔をした。
翌日、王都へ送る第一報がまとめられた。
白盾騎士団長アールヴェ・アルヴァンの名。
忘れられない者の存在。
白盾墓所の保護。
逃亡者オルドレイ一派の拘束。
忘却石残滓の危険性。
そして、白盾の誓い。
“罪は焼くためでなく、繰り返さぬために刻む。”
リオは報告書に、香りの瓶を三つ添えた。
一つは“白盾の名”。
一つは“アールヴェの朝”。
一つは“盾の重さ”。
最後の香りは、セリカの腕の盾紋に触れた時の記憶をもとに作った。嗅ぐと、胸が少し重くなる。だが呼吸はできる。誰かに謝らなければならないこと、守らなければならないもの、背を向けてはいけない痛み。それらを思い出させる香り。
強すぎれば危険だ。
だが薄く焚けば、罪の回廊の改革に役立つかもしれない。
リオは瓶に注意書きを添えた。
“裁きの前に長時間使用しないこと。
個人を追い詰める用途に使わないこと。
必ず食事と休息の時間を設けること。”
ミナがそれを読んで笑った。
「最後、リュミナ様の影響ですね」
「でも大事です」
「はい」
リュミナは当然の顔で言った。
「白盾も腹は減ったはずだ」
その日の夕方、リューネ村では栗入りスープの試作が行われた。
リュミナがどうしても譲らなかったためである。
大鍋ではなく、小鍋で試すことをセリカが条件にした。村人たちは興味半分、不安半分で集まった。ミナは薬草の配合を調整し、リオは香りの変化を記録する係になった。
栗。
干し肉。
根菜。
少しの山羊乳。
冬越し豆。
薬草。
火が入ると、甘く丸い香りが立ち上った。
リュミナは目を輝かせた。
「勝利の匂いだ」
セリカは眉を寄せる。
「甘い肉の匂いがする」
「それがよい」
「私はまだ判断を保留する」
ミナが味見をする。
少し考える。
「……悪くないです」
リュミナが勝ち誇る。
セリカも渋々一口飲んだ。
「……悪くはない」
「ほら見ろ」
「だが毎日は嫌だ」
「では三日に一度」
「月に一度」
「交渉を続けよう」
リオも一口飲んだ。
確かに、不思議な味だった。
栗の甘さが肉の塩気とぶつかり、薬草がそれをまとめている。洗練されてはいない。だが、どこか忘れがたい。白盾墓所で焼き栗の香りが名を繋いだことを思うと、この奇妙なスープにも意味があるような気がした。
「これは、記録に残りますね」
リオが言うと、セリカが顔をしかめた。
「料理としてか?」
「記憶として」
リュミナは椀を抱え、満足そうに言った。
「アールヴェも食べればよかった」
その言葉に、場が少し静かになった。
リュミナは椀を見つめる。
「私は、あの女と食べたものをあまり思い出せない。焼き栗は戻った。でも、他にもあったはずだ。川魚、硬いパン、王が焦がした肉」
「初代王も焦がすのですか」
ミナが言うと、リュミナは頷く。
「よく焦がした。アールヴェが怒った」
セリカが呟く。
「想像しやすい」
リュミナはスープを一口飲んだ。
「だから、これを覚えておく。アールヴェと食べたものではないが、アールヴェを思い出して食べたものだ」
リオはその言葉を聞き、小瓶を取り出した。
栗入りスープの湯気を閉じ込める。
ラベルにはこう書いた。
“思い出して食べるもの。”
その瓶は、戻り香の家の棚に置かれることになった。
患者に使うためではない。
村の記録として。
白盾の名が戻った後、リューネ村で初めて作られた、少し妙な料理の記憶として。
数日後、王都から返書が届いた。
国王からの正式な感謝状と、白盾記録を王国史へ復元するための調査団派遣の知らせ。そして、王女アリアンヌからの私信。
リオ、セリカ、ミナ、リュミナは戻り香の家でそれを読んだ。
――アールヴェ・アルヴァンの名を、王城の白竜画の下に戻す準備が始まりました。
――宮廷画家は困っています。塗り潰された部分を削ると、下から彼女の盾が出てきたそうです。顔はほとんど残っていませんが、口元だけが残っていて、メリッサが「ずいぶん勝ち気な方ですね」と言いました。
セリカが小さく笑う。
――罪の回廊について、白盾の誓いを取り入れる案が出ています。罪をただ晒すのではなく、被害者の言葉、加害者の証言、再発を防ぐ誓いを合わせて記録する。リオの“盾の重さ”の香りは、使用量を制限しながら試験する予定です。
――エルヴィンは、白盾の記録を読んでから三日間黙っていました。その後、「王を止める盾が昔からあったのなら、なぜ誰も父上を止めなかった」と言いました。メリッサは「あなた様もこれから誰かに止められる練習をなさいませ」と答えました。
リオは思わず笑った。
――私は、白盾の記録を読んで怖くなりました。忘れられない者の力は、私が求めた忘却と反対のようで、同じ危うさを持っています。忘れさせることも、忘れられなくすることも、人を壊す。
――だから、戻り香の家のことを考えます。
――忘れても戻れる場所。覚えていても休める場所。
――いつか、王都にもそういう場所を作りたい。
――その時は、栗入りスープの作り方を教えてください。リュミナが喜びそうなので。
リュミナは真剣に頷いた。
「王女は進歩している」
セリカが言う。
「栗入りスープで判断するな」
ミナは手紙の最後を読んだ。
――追伸。
――グラントの審理が始まりました。彼はミナさんの名を何度も証言しています。忘れないために。ミナさんが望まないなら、返事は不要です。ただ、伝えるべきだと思いました。
ミナはしばらく黙っていた。
リオも、セリカも、リュミナも何も言わなかった。
やがてミナは手紙をそっと畳んだ。
「返事は、まだ書きません」
「はい」
リオは頷いた。
ミナは窓の外を見る。
「でも、忘れていないことは、覚えておきます」
その言葉で十分だった。
春は少しずつ進んだ。
戻り香の家には患者が増えた。
忘却石の影響で道に迷う癖が残った商人。
罪の回廊の公開を見て、自分の父が関わった不正を知り、眠れなくなった貴族の娘。
名を捨てた騎士だった男の一人は、自分の馬の名しか思い出せなかったが、その馬の鞍の匂いを頼りに、少しずつ厩舎時代の記憶を取り戻し始めた。
リオとミナは、すべてを治せたわけではない。
戻らない記憶もあった。
思い出さない方が今はよい痛みもあった。
だから戻り香の家では、新しい約束が作られた。
“忘れたことを責めない。”
“思い出すことを急かさない。”
“罪は消さないが、焼き尽くさない。”
“泣いた後は、できれば温かいものを食べる。”
最後の一文はリュミナが主張し、セリカが渋々認めた。
ある日の夕暮れ、リオは戻り香の家の前に立っていた。
看板の下で、春の風が吹く。
リューネ村の標柱には、相変わらず二つの言葉が刻まれている。
“王都の者を信じるな。”
“それでも、名を聞け。”
その下に、最近、子どもたちが小さな文字を勝手に彫った。
“お腹がすいたら鍋へ。”
セリカは見つけた時、頭を抱えた。
リュミナは誇らしげだった。
リオはそれを消さなかった。
記録とは、公式な文章だけではない。
子どものいたずらも、村の冗談も、栗入りスープの賛否も、白竜の食欲も、すべてが忘却に抗う小さな盾になる。
西の空が赤く染まる。
遠く王都では、罪の回廊が少しずつ形を変えている。アリアンヌは治療を続け、エルヴィンは裁きを待ち、国王は記録を読み、グラントは証言を重ねている。白盾の名は王国史に戻りつつある。
リューネ村では、薬草が芽を出し、戻り香の家に灯りがともる。
リオは小瓶を開けた。
“ただいま。”
雪解けと薪と木の看板の香り。
そこへ、今日の夕暮れの香りを少し加える。
栗入りスープ。
白盾。
薬草。
村の笑い声。
そして、まだ知らない誰かが帰ってくるための余白。
香りは残る。
忘却にも、焼きつく痛みにも、飲み込まれずに。
残った香りを誰かが受け止めるなら、物語は続いていく。
リオは戻り香の家の扉を開けた。
中から、ミナの声がした。
「リオさん、薬草棚を見てください。リュミナ様が干し肉を隠しています」
「標本だ」
リュミナの声。
「食べかけの標本は禁止です」
セリカの声も続く。
「リオ、そいつを止めろ。あと夕食前に新しい患者が来る。名は聞いた。王都からだ」
リオは笑った。
「今行きます」
扉の内側には、温かい匂いが満ちていた。
帰る場所の匂い。
そして、新しい物語が始まる匂いだった。




