第十九話 盾に刻まれた罪は、誰かを焼くためではない
リオが目を覚ました時、最初に匂ったのは焦げた粥だった。
次に、薬草。
それから、濡れた革、白盾石、雨上がりの土、そしてリュミナの不満。
「焦げている」
「焦げていません」
ミナの声が返す。
「底が少し香ばしくなっただけです」
「それを焦げたと言う」
「リュミナ様が鍋から目を離させたからです」
「私は小鍋の容量を確認していただけだ」
「干し肉を追加しようとしていましたよね」
「容量確認には内容物が必要だ」
リオはゆっくり目を開けた。
視界に、低い天井が映る。白盾墓所の中ではない。どうやら墓所の外に張った簡易幕舎の中らしい。布越しに雨の後の青白い光が透けている。
身体が重い。
頭の奥に、まだ白い痛みが残っていた。
忘れられない者の光に触れたせいだ。自分のものではない罪や記憶が、まだ胸の内側に焦げ跡のように残っている。
母の死。
王妃の毒。
ミナの声。
グラントの罪。
オルドレイの実験。
名を消された白盾の騎士たち。
すべてが混じり合って、少し油断すると呼吸が浅くなる。
「起きましたか」
セリカの声がした。
彼女は幕舎の入口に座っていた。右腕には新しい包帯が巻かれている。その上から、白盾石の小さな欠片を革紐で結んでいた。
アールヴェ・アルヴァンの名が刻まれた欠片。
「どれくらい寝ていましたか」
リオが尋ねると、セリカは無表情で答えた。
「丸一日」
「そんなに」
「まだ寝ていろと言ったが、そろそろ起きると思っていた」
「なぜですか」
「腹が鳴った」
リオは反論しかけて、自分の腹が本当に小さく鳴ったのを聞いた。
リュミナが勝ち誇ったように言う。
「ほら見ろ。食べるべきだ」
ミナが椀を持って近づいてきた。
「薄めの粥です。胃に優しい薬草を入れました」
「ありがとうございます」
リオは身体を起こそうとして、眩暈に襲われた。
セリカがすぐに支える。
「無理をするな」
「すみません」
「謝るな」
「はい」
ミナが椀を差し出す。
粥は少し焦げていた。
けれど、その焦げの香りは悪くなかった。薪の火、薬草、干し肉の出汁、ミナの心配、リュミナの余計な干し肉追加未遂。それらが混じって、帰る途中の食事の匂いがした。
リオは一口食べた。
温かい。
胸の奥に残る白い痛みが、少しだけ和らいだ。
「美味しいです」
ミナの顔が明るくなる。
リュミナが厳粛に頷く。
「焦げは認めるが、肉があるので許す」
「評価基準が偏っています」
リオが笑うと、胸が少し痛んだ。
セリカはその様子を見て、声を低くした。
「まだ記憶が残っているのか」
リオは椀を見つめた。
「はい。全部ではありません。でも、触れたものの一部が焼きついています」
「忘れられない者の光か」
「忘却の獣とは逆でした。忘れられない。薄れない。時間が経っても痛みが現在のまま残る。あれを人に向ければ、心が壊れます」
ミナが薬草籠を抱きしめる。
「罪を覚えることは大事なのに」
「はい。でも、覚えさせ方を間違えれば、それも暴力になります」
セリカは自分の右腕を見た。
「アールヴェは、それを受け止めた」
リュミナの表情が静かになった。
彼女は白い花冠を膝の上に置き、墓所の方角を見た。
「私と王は、名を持たぬ神を祈りに変えようとした。だが、人間の罪や悲しみは重かった。忘れれば獣になる。忘れられなければ焼ける。その二つの間に、アールヴェが立った」
「盾として」
リオが言うと、リュミナは頷いた。
「私たちは、彼女に多くを受けさせた。あの女は笑っていたが、痛くないはずがない」
セリカの声が硬くなる。
「だから名を消されたのか」
リオは少し考えた。
「恐れられたのでしょう。忘却を拒み、忘れられない苦しみも受け止める盾。王家が罪を隠そうとした時、白盾の名は邪魔だった」
「それで反逆者にされた」
「おそらく」
セリカは長く黙った。
やがて、低く言った。
「王都へ戻ったら、白盾の記録を復元する」
「はい」
「アールヴェ・アルヴァンの名を、王国史に戻す」
「手伝います」
「当然だ。お前が香りで見つけた名だ」
「みんなで呼んだ名です」
セリカは少しだけ笑った。
「そうだったな」
幕舎の外から、ハルトの声がした。
「村長、リオ殿、入っても?」
「入れ」
ハルトが幕を開けて入ってきた。彼の外套は泥と白い石粉で汚れている。顔には疲労があるが、目はしっかりしていた。
「オルドレイたちの拘束は完了しました。逃亡魔術師九名、貴族関係者四名。全員、生存しています。ただ……」
「ただ?」
セリカが促す。
「数名が、自分の罪の記憶に耐えきれず錯乱しています。ミナさんの薬香で落ち着かせていますが、王都まで移送できるかどうか」
リオは椀を置こうとした。
セリカが即座に睨む。
「お前は行くな」
「でも」
「今のお前が近づけば、相手の記憶まで拾って倒れる。自分の状態を嗅げ」
リオは口を閉じた。
確かに、鼻の奥がまだ過敏だった。幕舎の外にいる捕縛者たちの恐怖や罪悪感が、薄い布越しにも届いてくる。今近づけば、また記憶に引き込まれるかもしれない。
ミナが言った。
「私が見ます。リオさんの調合記録はありますし、強い香りは使いません」
「お願いします」
リオは素直に頭を下げた。
ミナは少し驚いた顔をしてから、笑った。
「珍しく素直ですね」
「セリカの視線が怖いので」
「正しい判断だ」
セリカは当然のように言った。
ハルトは報告を続けた。
「墓所内の調査ですが、奥に記録室があります。白盾騎士団の名簿らしきものが見つかりました。多くは空白ですが、アールヴェの名が戻ったことで、一部の文字が浮かび始めています」
セリカが立ち上がりかける。
今度はリオが言った。
「セリカも休んでください」
彼女は動きを止めた。
リオは続ける。
「腕、まだ安定していません。白盾の力と呪いが混じっています。無理をすれば、忘れられない者の記憶を受けすぎます」
セリカは不満げだったが、反論はしなかった。
「……後で見る」
「はい」
ハルトは少し表情を緩めた。
「記録室には、こんな言葉もありました」
彼は紙片を差し出した。
白盾石の粉でこすり出した写しらしい。
“盾に刻まれた罪は、誰かを焼くためではない。
次に同じ刃を振るわぬため、持つ者の腕を重くするためである。”
リオはその文を読んだ。
胸の中の白い痛みが、少しだけ形を変えた。
忘れられない者の力は危険だ。
罪を永遠の現在にし、人を焼く。
だが白盾は、それを盾へ刻んだ。
忘れないために。
けれど焼き殺さないために。
王都の罪の回廊にも、必要なのはそれだ。
罪を晒して人を壊すのではなく、重さを持たせる。二度と同じ刃を振るわないように、腕を重くする。
「王都に伝えましょう」
リオは言った。
「罪の回廊の扱いを変える必要があります。ただ公開すればいいわけではない。忘却でも、焼き印でもない形に」
セリカが頷く。
「白盾の考えが要る」
リュミナが真剣な顔で言う。
「つまり王都にも盾が必要だ」
「そうですね」
「なら鍋も必要だ」
セリカが目を細める。
「なぜそうなる」
「重い話の後は食べる。覚えた」
ミナが幕舎の外へ出ようとしながら笑った。
「それは本当に大事かもしれません」
「ほら見ろ」
リュミナは得意げだった。
午後、リオはようやく外へ出た。
セリカに肩を借り、ゆっくり歩く。墓所の前には王都兵が見張りに立ち、逃亡者たちは離れた場所にまとめて拘束されていた。ミナが薬香を焚き、錯乱した者たちを一人ずつ落ち着かせている。
オルドレイは岩のそばに座らされていた。
両手は縛られ、目は虚ろだ。だが忘れてはいない。彼の周囲には、自分の罪から逃げたいという強烈な匂いが漂っていた。
リオが近づくと、オルドレイは顔を上げた。
「来るな……」
声は掠れていた。
「お前の香りは嫌だ」
「何もしません」
「嘘だ。お前は思い出させる」
「必要なら」
オルドレイは歯を鳴らした。
「私は、研究しただけだ。忘却石も、白盾も、王家が隠してきた力だ。知識を得る権利がある」
「知識を得ることと、人を壊すことは違います」
「綺麗事を……」
「はい」
リオは静かに言った。
「でも、あなたはその綺麗事を踏み越えた結果に耐えられなかった」
オルドレイの顔が歪む。
「忘れさせろ」
「できません」
「お前ならできるだろう!」
「できるかもしれません。でも、しません」
「なら、私はこのまま焼かれるのか!」
リオは彼を見た。
王都でリオを嘲笑した魔術師。
忘却石を扱い、逃亡し、白盾墓所を荒らし、忘れられない者を武器にしようとした男。
許す必要はない。
だが、焼き尽くして終わらせることも、白盾の答えではない。
「焼かれないように、薬香を使います」
リオは言った。
「でも罪は消しません。王都で証言してもらいます。あなたが何を研究し、誰を傷つけ、何を起こそうとしたのか」
オルドレイは笑った。
壊れかけた笑いだった。
「証言……私に自分の恥を語れと」
「はい」
「残酷だな、調香師」
「忘却よりは」
オルドレイは黙った。
リオはミナに頼み、弱い赤鈴草の香りを渡した。
それは罪を薄めるものではない。
ただ、罪の記憶に焼き殺されないよう、呼吸を残す香りだ。
オルドレイはそれを憎むように見つめながらも、拒まなかった。
夕方、セリカは墓所の記録室へ入った。
リオ、ミナ、リュミナ、ハルトも同行した。
記録室は墓所の奥にあった。円形の小部屋で、壁一面に白盾石の板がはめ込まれている。そこには白盾騎士団の誓い、名簿、戦いの記録、そして王家との対立が刻まれていた。
多くは空白だった。
だがアールヴェの名が戻ったことで、いくつかの文章が読めるようになっている。
“アールヴェ・アルヴァン。白盾騎士団長。初代王の盾、白竜リュミナの友。”
“彼女は忘却の神と忘れられない者の二つを受け、盾の誓いを定めた。”
“王が忘れたがる時、盾は記録せよ。”
“民が罪に焼かれる時、盾は受け止めよ。”
“竜が怒りに飲まれる時、盾は名を呼べ。”
リュミナは最後の文に触れた。
「名を呼べ……」
彼女は小さく笑った。
「私は逆に、呼ばれる側になっていたな」
セリカが石板を読んでいる。
その表情は硬い。
“後の王、白盾の記録を危険視す。罪を記録する盾は、王権を縛るものなりと。”
“白盾騎士団、解体。”
“アールヴェ、王命に背き、記録を墓所へ封ず。”
“その名を消す呪い、王家と神官により施行。”
“されど名は完全には消えず。竜の記憶、血の誓い、焼き栗の香りに残る。”
リオは最後の一文で思わず息を止めた。
焼き栗。
歴史の記録としてはあまりに小さなもの。
だが、それが名を残した。
大きな誓いだけではなく、日常の冗談や食べ物や叱り声が、忘却に穴を開けたのだ。
リュミナは真顔で言った。
「焼き栗は重要だった」
セリカも今回は否定しなかった。
「そうらしい」
ミナは石板を写しながら、声を震わせていた。
「記録します。全部。戻り香の家にも写しを置きます」
ハルトは敬礼するように背筋を伸ばした。
「王都へも正式に届けます。白盾の名誉回復は、必ず」
セリカは長く沈黙した。
やがて、アールヴェの石板へ手を置く。
「私は、あなたを知らなかった」
声は静かだった。
「家の名も、誓いも、盾の意味も知らなかった。ただ、目の前のものを守るしかなかった」
白盾石がかすかに光る。
「これから知る。だが、あなたのようになれるとは言わない。私は私のやり方で、村を守る」
リュミナが横から言う。
「アールヴェも、きっとそう言う」
「なぜわかる」
「口が悪かったから」
「理由になっていない」
その時、記録室の奥にあった小さな盾が、壁から外れた。
白盾石でできた丸い盾。
大きくはない。セリカの腕に合うほどの大きさだ。中央にはアールヴェの名と、空白の円が刻まれている。
リオはその香りを嗅いだ。
これは武器ではない。
記録の器だ。
罪や痛みを受け止め、焼き尽くさず、忘れさせず、持つ者の腕を重くする盾。
セリカは盾を手に取った。
その瞬間、右腕の黒紋が白い光に包まれた。
痛みが走ったのか、彼女の眉が歪む。
だが、すぐに呼吸が整った。
黒紋が消えたわけではない。
ただ、白い盾紋の中に収まっている。
呪いは消滅したのではなく、意味を変えた。
「重いな」
セリカは言った。
リュミナが頷く。
「盾だからな」
「物理的にも重い」
「鍛えろ」
「お前に言われたくない」
リオはそのやり取りを聞きながら、胸の奥が少し軽くなるのを感じた。
完全な解決ではない。
セリカの腕にはこれからも重さが残る。アールヴェの名が戻ったことで、新しい責任も生まれる。白盾の記録は王都に衝撃を与えるだろう。罪の回廊の改革も、忘れられない者の扱いも難しい。
だが、彼らはまた一つ、戻る道を見つけた。
翌朝、一行は白盾墓所を後にした。
オルドレイたちを王都へ移送する部隊が到着し、ハルトはその護送につくことになった。リオたちは一度リューネ村へ戻り、白盾の記録と香りを整理する。
出発前、リュミナはアールヴェの石像の前に立った。
手には、昨夜焼いた栗が一つある。
「食べるか?」
セリカが呆れる。
「石像が食べるか」
「香りは届く」
リュミナは焼き栗を石像の台座に置いた。
「私は食べたかったが、今回は譲る」
リオは笑った。
石像はもちろん動かない。
だが、風が吹いた。
雨を拒んでいた白い石の谷に、柔らかな湿り気を含んだ風。
そこに、かすかな笑い声が混じった気がした。
――味を覚えたら面倒になると言っただろう。
リュミナは胸を張った。
「もう覚えている」
セリカが小さく笑った。
その笑いは、彼女自身のものでもあり、どこかアールヴェに似ているようにも感じられた。
リオは小瓶を取り出し、白盾墓所の朝の香りを閉じ込めた。
白い石。
焼き栗。
雨。
盾に刻まれた罪。
そして、戻った名。
ラベルにはこう書いた。
“アールヴェの朝。”
帰り道、白盾峠には雨が降った。
今度は、石のいくつかが雨を受け入れていた。
完全ではない。
まだ乾いたままの岩も多い。
だが水は、少しずつ白い石の隙間へ染み込み始めている。
ミナがそれを見て言った。
「土地も、少しずつ戻るんですね」
リオは頷いた。
「はい。人と同じで」
リュミナが小鍋を抱え直す。
「戻ったら、栗入りのスープを試す」
セリカが即座に言う。
「やめろ。味が迷子になる」
「試さねばわからない」
「わかる」
リオは笑った。
胸の奥の白い痛みは、まだ消えていない。
だが、そこに新しい香りが重なった。
盾。
焼き栗。
雨を受け入れ始めた石。
忘却でも、永遠の焼き印でもない。
重いけれど、持って歩ける記憶。
その香りを抱えて、一行はリューネ村へ帰っていった。




