第十八話 墓所の扉は、盾を持たぬ者を拒む
白盾の影たちが開いた道は、峠の斜面をまっすぐ西へ下っていた。
道と呼ぶには細すぎた。白い石の間に、誰かが長い年月をかけて足を置き続けた跡だけが残っている。草は生えていない。雨は降ったはずなのに地面は乾いている。だが、ところどころに小さな水溜まりがあった。
その水溜まりだけが、周囲の拒絶を逃れたように空を映している。
リオはその一つに目を落とした。
水面に映ったのは、自分の顔ではなかった。
白い盾を背負った女騎士が、雨の中で笑っている。肩までの髪を乱暴に結び、鼻筋に泥をつけ、誰かに向かって怒鳴っている。
――竜に焼き栗を渡すな! 味を覚えたら面倒になる!
その声は水面に波紋が立つと消えた。
リオは顔を上げる。
リュミナが少し離れた場所で固まっていた。
「覚えがありますか」
「……面倒とは失礼な」
返事はそこだった。
セリカが呆れたように言う。
「否定するところが違う」
リュミナは真剣に眉を寄せた。
「だが、あの声は知っている。私を叱る声だ」
「よく叱られていたのですね」
「人間は竜に対して口うるさい」
セリカが淡々と返す。
「お前が食い意地を張っていたからだろう」
「食べ物は世界の記憶だ」
「便利な言葉にするな」
ミナが小さく笑った。
その笑い声に反応するように、道端の白い石がかすかに震えた。笑いがここに記憶として染み込んでいく。雨を拒む石も、完全に何も受け入れないわけではないのだと、リオは思った。
ただ、選んでいる。
何を残し、何を弾くかを。
しばらく進むと、谷が開けた。
そこに、白盾墓所があった。
山の斜面をくり抜いた巨大な石の壁。その中央に、半円形の扉がある。扉は白盾石でできていて、周囲には無数の盾が彫られていた。盾の一つ一つには名が刻まれているはずだったのだろう。だが多くは空白になっている。
名を消された墓。
名を残すために作られ、名を奪われた場所。
扉の前には、三体の石像が立っていた。
一つは王冠を戴いた男。初代王だろう。
一つは翼を広げた白竜。
そして中央に、白い盾を構えた女騎士。
ただし、顔は削られていなかった。
顔は残っている。
凛々しいというより、気の強そうな顔だった。口元には皮肉げな笑み。左頬に小さな傷。髪は後ろで乱雑にまとめられ、鎧の上から大きな盾を背負っている。
リュミナは石像の前で足を止めた。
「いた」
彼女は呟いた。
「この顔だ」
セリカも石像を見上げていた。
その横顔には、自分の知らない血縁を前にした者の戸惑いがあった。
「私に似ているか」
リュミナは少し考えた。
「口の悪そうなところが」
「そこか」
「あと、立ち方」
セリカは何も言わなかった。
だがリオには、彼女の匂いが少し変わったのがわかった。
遠いものが、少し近くなる匂い。
セリカは自分の右腕を押さえた。
「この人の名を、私は知らない」
リオは石像の台座を見る。
そこにも文字があった。
“白盾の――”
“王の罪を受け、竜の怒りを受け、民の悲しみを受けた者”
“その名は、忘却を拒むため――”
肝心の部分が、やはり抜けている。
だが石碑と違い、ここには名前の前後に深い香りが残っていた。
雨。
盾。
焼き栗。
竜の鱗。
王の涙。
そして、強い笑い声。
「名そのものは消されています。でも、周囲の記憶が濃い」
リオは言った。
「墓所の奥に行けば、もっと近づけるかもしれません」
ハルトが扉を調べる。
「開きません。鍵穴もない」
ミナが扉の紋様を見た。
「盾が三つあります。王冠、竜、空白の盾」
リュミナが頷く。
「王家の血、竜の息、アルヴァンの盾。エルヴィンの手紙通りだ」
セリカは静かに言った。
「王家の血はない」
一行は黙った。
今回、王族は同行していない。アリアンヌもエルヴィンも王都にいる。国王の血を持ってくるという発想もあったが、それは行わなかった。王家の問題をまた血だけで解こうとすることへの警戒があった。
リオは扉に近づいた。
「本当に必要なのは、王家の血ではないかもしれません」
「どういう意味だ」
セリカが問う。
「王冠の紋様はありますが、ここは白盾の墓所です。王を通すための扉ではなく、王の罪を受け止めた騎士たちの場所。なら、王家の血そのものではなく、“王の罪を認める記録”が鍵になる可能性があります」
ハルトが背負い袋から封筒を取り出した。
「国王陛下から預かった書状があります。万一、墓所で必要になったら使えと」
セリカが眉を上げる。
「先に言え」
「すみません。封を開けるなと言われていました」
リオは書状を受け取った。
王印が押されている。
開くと、中には短い文章と、一枚の小さな布が入っていた。布には国王の血が一滴染みている。
文章にはこうあった。
――白盾の墓所に眠る者たちへ。
――王家は、あなた方の名を奪った。盾を反逆と呼び、誓いを罪と呼び、忘れぬ者たちを葬った。
――私は、その罪を認める。
――この血は命令ではない。鍵でもない。謝罪の印として置く。
――もしなお、王家の者を拒むなら、それもまた正しい。
国王らしい、短い文だった。
セリカはしばらく黙っていた。
「悪くない」
それだけ言った。
リオは布を王冠の紋様の前に置いた。
「リュミナ様」
「わかっている」
リュミナは扉の前に立ち、静かに息を吐いた。
竜の息。
白い霜ではなく、温かい霧のような吐息だった。そこにはリューネ村のスープ、リナの花冠、霊廟の白薔薇、そして失われた友を呼びたいという願いが混じっていた。
竜の紋様が淡く光る。
最後に、セリカが進み出た。
空白の盾の紋様の前で、彼女は右腕の革手袋を外した。
黒紋と白い盾紋が重なった腕。
彼女は剣を抜かず、手のひらを扉へ当てた。
「セリカ・アルヴァン」
声は低く、よく通った。
「白盾の名を知らぬ子孫。村長。元騎士。私は剣しか持っていない。盾は持っていない」
扉は沈黙している。
セリカは続けた。
「だが、知りに来た。守るとは何か。受け止めるとは何か。名を奪われた者たちが、何を残そうとしたのか」
彼女は一度、目を閉じた。
「通せ。命令ではない。願いだ」
リュミナが小さく息を吸った。
先ほど彼女が白盾の影に言った言葉と同じだった。
扉の空白の盾が震える。
だが、開かない。
代わりに、扉全体から冷たい声が響いた。
――盾を持たぬ者は通れぬ。
セリカの表情が変わらない。
「だから言っただろう。持っていないと」
――ならば去れ。
「断る」
即答だった。
リオは思わず彼女を見た。
白盾の声も、少し沈黙したように感じた。
セリカは扉に手を当てたまま言う。
「私は盾を持っていない。だが、村を守った。白竜を殺さず、王都の命令を拒み、子どもの前に立った。右腕は呪われた。今も痛む。だが、守るべきものの前から退かなかった」
彼女の声が少しだけ強くなる。
「盾とは金属か。紋章か。血筋か。それがなければ、守ったことにならないのか」
扉から風が吹く。
拒絶の風。
セリカの手が弾かれそうになる。
リオは一歩踏み出しかけたが、リュミナに止められた。
「待て」
「でも」
「これはセリカの扉だ」
セリカは歯を食いしばった。
右腕の紋様が激しく光る。
黒と白。
呪いと盾。
彼女は膝をつきかけながらも、手を離さなかった。
「私は盾を持っていない。なら、これから持つ。だが最初の盾は、知らない誰かのためではない」
彼女は背後を振り返った。
リューネ村の方角。
「村だ。私の後ろにいる者たちだ。ミナ、リュミナ、リオ、王都から来た者たち、名前を聞かれるまで入れない門。あれが私の盾だ」
ミナが息を呑む。
リュミナが静かに頷く。
「だから通せ。白盾の墓所。私は盾を借りに来たのではない。盾の意味を、返してもらいに来た」
沈黙。
長い沈黙。
やがて、扉の中央から乾いた音がした。
ぱきり。
白盾石に亀裂が入る。
空白の盾の紋様に、光が満ちていく。
そして、声がした。
今度は冷たくなかった。
――ならば、受けよ。
扉が開いた。
中から、白い霧が流れ出す。
雨を拒んだ石の奥に、湿った土と古い花の匂いが眠っていた。
リオは息を吸った。
墓所の匂い。
だが死の匂いだけではない。
守り続けた者たちの眠り。
名を奪われても、誓いだけを残した者たちの香り。
一行は墓所へ足を踏み入れた。
中は広い円形の空間だった。
壁には無数の盾がかけられている。錆びた鉄盾、革盾、木盾、白盾石で作られた盾。どれも使い込まれ、傷だらけだった。中央には白い石棺が一つ。その周囲に、名札のない小さな墓標が円を描くように並んでいる。
だが、墓所は荒らされていた。
石棺の蓋がずれている。
墓標のいくつかが倒され、床には黒布と砕けた忘却石の粉が散らばっている。
ハルトが短剣を抜く。
「先客がいます」
奥から声が聞こえた。
「遅かったな、追放調香師」
広間の反対側、崩れた祭壇の前に男が立っていた。
宮廷魔術師の黒衣。痩せた顔。鋭い目。年は四十前後。彼の周囲には数名の逃亡魔術師と、顔を布で隠した貴族風の男たちがいる。
リオはその男を知っていた。
宮廷魔術師団の研究主任、オルドレイ・ザーム。
王都では、精神魔術と古代封印の専門家として知られていた。リオを宮廷で何度も「香水屋」と嘲笑した人物の一人でもある。
「オルドレイ師」
リオは静かに言った。
「あなたが逃亡者の中心でしたか」
オルドレイは笑った。
「逃亡者? 違うな。我々は王国の堕落から知識を守っている。国王は軟弱になり、王女は壊れ、第二王子は失敗した。ならば、真に力を理解する者が引き継ぐしかない」
セリカが剣を抜く。
「墓荒らしの言い訳にしては長い」
オルドレイは彼女を見た。
「セリカ・アルヴァン。やはり来たか。白盾の血がなければ、奥の記録は開かないのでな」
セリカの目が冷える。
「私を待っていたのか」
「君の腕の呪いは、ただの呪いではない。白盾の封印を逆流させたものだ。三年前の討伐隊で、君が生き残った理由もそこにある。白盾の血が、竜の呪いを受け止めた」
リオは息を呑んだ。
セリカの呪い。
それは白竜の呪いだけではなく、白盾の力でもあった。
受け止めるための盾が、歪んで彼女の腕に宿った。
オルドレイは石棺を指した。
「この墓所には、初代王すら恐れた者の記録がある。白盾の女騎士ではない。彼女が封じたものだ」
リュミナが低く唸る。
「何を起こした」
「まだ起こしていない。名が足りないからな」
オルドレイの背後の祭壇には、石板が置かれていた。
そこには空白の名前が刻まれている。
“ア――”
リオたちが石碑で取り戻した最初の音と同じ。
「君たちが一音を戻してくれたおかげで、封印が緩んだ」
オルドレイは笑った。
「礼を言うよ」
ミナが顔を青ざめさせる。
「私たちが……」
リオは首を横に振った。
「違います。名を戻すこと自体は間違いではない。彼らはそれを利用しただけです」
「同じことだ」
オルドレイは言った。
「記憶は力だ。名は鍵だ。香りなどと情緒的に扱うから、お前は甘いのだ、リオ・クラウゼン」
「あなたは何を起こそうとしているのですか」
リオが問うと、オルドレイは目を輝かせた。
「忘れられない者」
その言葉で、墓所の空気が変わった。
リュミナが一歩下がる。
「その名を、どこで」
「霊廟の断片記録だ。忘却の獣が“忘れさせるもの”なら、その反対も存在する。忘れられない者。すべての罪、痛み、記憶を永遠に刻みつける存在。白盾の女騎士は、それを受け止め、ここに封じた」
セリカが眉をひそめる。
「忘却よりましとは思えんな」
「ましではない。強いのだ」
オルドレイは両手を広げた。
「国王は罪を公開し、王国を弱らせる。だが、忘れられない者を使えば、すべての敵に罪を刻める。反逆者は自分の罪に焼かれ、貴族は隠した不正に潰れ、他国は過去の戦争に縛られる。忘却の獣が支配の道具になり損ねたなら、今度は記憶そのものを武器にすればいい」
リオは静かに言った。
「それは、忘却と同じです」
オルドレイの笑みが消える。
「何?」
「忘れさせて支配するのと、忘れられないようにして壊すのは、同じです。どちらも人から戻る道を奪う」
「綺麗事を」
「ええ。たぶん」
リオは鞄に手を伸ばした。
「でも、それを守るために来ました」
オルドレイが指を鳴らした。
魔術師たちが一斉に黒い粉を撒く。
忘却石の粉。
空気から香りが削られる。
同時に、墓所の盾が震え始めた。名を失った白盾の残影たちが、忘却石に反応して苦しんでいる。盾は守るために作られた。しかし忘却石は、その守るべき名そのものを削る。
リュミナが叫ぶ。
「やめろ!」
彼女が白い光を放つ。
だがオルドレイは石棺の上に手を置き、笑った。
「竜よ、力を使え。白盾の墓所は竜の息に反応する。お前の怒りが封印を開く」
リュミナが歯を食いしばり、光を抑える。
セリカが前へ出た。
「なら私が行く」
彼女が駆けた。
だが床から白盾の残影が立ち上がり、彼女の前に立ちはだかった。味方のはずの影たちが、忘却石に乱され、誰を通すべきかわからなくなっている。
セリカの剣が盾に弾かれる。
「くそっ」
リオは香炉を取り出した。
「ミナさん、赤鈴草を!」
「はい!」
ミナが薬草を渡す。
リオは石碑で作った“ア――”の香りを開ける。まだ未完成の名。そこへ赤鈴草、白盾石の粉、リューネ村のただいまの香りを加える。
「名を思い出す前に、守るものを思い出させます!」
香りが墓所に広がる。
しかし白盾石の壁が、それを弾く。
ここは盾の墓所。
外からの香りを受け入れにくい。
リオは焦った。
このままでは届かない。
その時、セリカが叫んだ。
「リオ! 私の腕を使え!」
「何を」
「この腕は受け止める。香りも通せるはずだ!」
「危険です!」
「知っている!」
セリカは剣を地面に突き立て、右腕を差し出した。
「やれ!」
リオは一瞬だけ迷った。
だが、セリカの目を見て決めた。
彼は調合した香りを、セリカの右腕の盾紋へ垂らした。
瞬間、セリカの身体が大きく震えた。
黒紋と白紋が絡み合い、腕全体が光る。
香りが、彼女の腕を通って墓所へ広がった。
盾が香りを弾くのではなく、受け止め、内側から返す。
白盾の残影たちの動きが止まる。
彼らの盾に、薄い文字が浮かび始めた。
名ではない。
誓いだ。
“忘れさせぬためではない”
“壊さぬために受ける”
“罪を盾に刻み、民に刃を向けぬ”
“王を止める盾であれ”
オルドレイの顔が歪む。
「余計なことを!」
彼が石棺へ忘却石の欠片を押し込む。
墓所全体が震えた。
石棺の蓋がさらにずれる。
中から、黒ではなく、白すぎる光が漏れた。
その光を浴びた瞬間、リオの脳裏に無数の記憶が流れ込んだ。
罪。
痛み。
恥。
後悔。
自分のものではない記憶まで。
王都の貴族が飢饉の救済金を盗んだ夜。
騎士が命令に従って村を焼いた朝。
母を見捨てた子。
友を売った商人。
嘘をついた神官。
そして、リオ自身。
母を救えなかった日。
王妃の異変にもっと早く気づけなかった日。
魔狼を囮にした時、死ぬかもしれないと分かっていたのに笑った自分。
すべてが、焼き印のように胸へ刻まれる。
忘れられない。
忘れられない。
忘れられない。
リオは膝をついた。
「リオさん!」
ミナの声が遠い。
忘却は空白だった。
だがこれは違う。
過剰な記憶。
逃げ場のない記録。
痛みが一瞬も薄れず、永遠に現在として燃え続ける。
これが、忘れられない者。
白盾の女騎士が受け止め、封じたもの。
セリカも苦しんでいた。
右腕から白い光が溢れ、彼女の全身へ記憶が流れ込んでいる。だが彼女は倒れなかった。歯を食いしばり、石棺を睨んでいる。
「これを……盾で……受けたのか」
リュミナが悲鳴に近い声で叫んだ。
「思い出した!」
彼女の銀の瞳から涙がこぼれる。
「白盾は、これを受けた! 私と王を守るために! 民に流れ込むはずだった罪と痛みを、全部!」
石棺の中の光が強まる。
オルドレイは歓喜に顔を歪めていたが、次第に恐怖へ変わっていく。
「違う……制御できるはずだ……」
白い光が彼にも触れた。
彼の顔が引きつる。
「やめろ……私は、研究のために……必要で……」
彼自身の罪が彼へ返っているのだ。
嘲笑した者。
実験で壊した者。
忘却石を使い、記憶を削った助手たち。
彼は自分の罪に耐えられない。
「止めろ! 止めろおお!」
リオは立ち上がろうとした。
だが、記憶の重さで身体が動かない。
その時、ミナの歌が聞こえた。
かすれた、けれど真っ直ぐな歌。
戻るための歌。
赤鈴草の香り。
リューネ村の薬草。
彼女は震えながら歌っていた。
自分の喉を守る香りを焚きながら、それでも歌っていた。
リュミナがその歌に合わせて、白い花冠を掲げる。
「名を呼ぶ!」
彼女は叫んだ。
「ア……アー……アリ……」
石棺の光が揺れる。
セリカが右腕を押さえ、血を吐くように声を出す。
「アリ……アリス……?」
違う。
リオは香りで感じた。
近いが、違う。
もっと硬い音。
もっと盾のように短く、雨のように伸びる音。
リオは石碑で得た香りを思い出す。
雨の前の鉄。
磨いた盾。
笑う時の息。
焼き栗。
竜を叱る声。
王を叱る声。
罪を受け止めながら、それでも笑った女。
彼は声を絞り出した。
「ア――ル」
リュミナが目を見開く。
「アール……」
セリカの盾紋が輝く。
「アール……ヴァ?」
墓所の盾が一斉に鳴った。
名が近い。
だがまだ足りない。
石棺の白い光が暴れる。
忘れられない者が目覚めかけている。
その奥に、女騎士の声がした。
――違う。私の名を呼ぶな。まず、何を守るか言え。
セリカが顔を上げた。
「村!」
即答だった。
「リューネ村。ミナ。リュミナ。リオ。王都から来て名乗った者。忘れた者。戻りたい者。私の後ろにいる者すべて!」
リュミナが叫ぶ。
「谷! 花冠! 食べ物! 約束! 友!」
ミナが歌の合間に言う。
「声! 名前! 薬草帳! 帰ってくる人!」
ハルトが叫ぶ。
「証言! 妹! 王都兵の誓い!」
リオは胸を押さえ、叫んだ。
「香り! 忘れても戻れる道!」
その瞬間、石棺の白い光が一点へ収束した。
セリカの右腕。
盾紋の中央。
そこに、文字が浮かぶ。
“アールヴェ”
リュミナが泣きながら叫んだ。
「アールヴェ!」
墓所全体が震えた。
石像の女騎士の顔に、光が灯る。
そして、石棺の中から声が返った。
――やっと呼んだな、食いしん坊の竜。
リュミナが涙をこぼしながら笑った。
「アールヴェ……!」
白い光が柔らかくなる。
忘れられない者の暴走が、白盾の名によって押さえ込まれていく。痛みは消えない。罪も消えない。だが、それらは焼き印ではなく、盾に刻まれる記録へ変わり始めた。
セリカは右腕を掲げた。
「アールヴェ・アルヴァンの名において」
彼女は自分でも知らない言葉を口にしていた。
血に刻まれた誓いが、声になっている。
「記憶は刃ではなく、盾であれ。罪は民を焼く火ではなく、二度と繰り返さぬ印であれ」
白盾の残影たちが、一斉に膝をついた。
オルドレイは床に倒れ、震えていた。
「忘れたい……忘れたい……」
リオは彼を見た。
忘却を嗤い、記憶を武器にしようとした男が、自分の罪の記憶に耐えられず忘却を求めている。
リオは近づき、赤鈴草の香りを少しだけ嗅がせた。
「忘れさせません」
オルドレイの目が恐怖に見開かれる。
リオは続けた。
「でも、焼き殺させもしません。裁きまで、あなたの名で持っていってもらいます」
ハルトが兵士たちに命じ、オルドレイたちを拘束した。
墓所の白い光は静まっていく。
石棺の蓋は完全には開いていない。だが、その隙間から小さな白い盾の欠片が浮かび上がり、セリカの前に落ちた。
セリカはそれを拾う。
手のひらほどの白盾石。
中央には、アールヴェの名が刻まれている。
リュミナは石像の前に立ち、静かに言った。
「すまない。忘れていた」
石像は答えない。
だが、墓所の空気に焼き栗の匂いがふわりと混じった。
そして、あの声が聞こえた気がした。
――また竜に食わせるなよ。
リュミナは涙を拭きながら、真顔で言った。
「それは約束できない」
セリカが疲れ切った声で言う。
「そこは約束しろ」
リオは笑おうとして、膝から崩れた。
今度こそ、身体が限界だった。
ミナが慌てて支える。
「リオさん!」
「大丈夫です」
「大丈夫じゃありません」
「……少しだけ、休みます」
セリカが近づき、ため息をついた。
「帰ったら殴ると言ったが、今は寝かせる方が先だな」
リュミナが小鍋を抱え直す。
「泣いて、戦って、名を呼んだ。つまり食べるべきだ」
ミナは泣き笑いの顔で頷いた。
「そうですね。戻り香の家に帰ったら、温かいものを作りましょう」
リオは薄れゆく意識の中で、墓所の香りを感じていた。
白盾。
雨を拒む石。
焼き栗。
罪を刻む光。
アールヴェという名。
忘却でも、忘れられない苦しみでもない。
記憶を盾にするための香り。
彼は最後の力で小瓶を開け、その香りを少しだけ閉じ込めた。
ラベルには、あとでこう書こうと思った。
“白盾の名。”




