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追放された宮廷調香師は、辺境の村で竜の眠りを解く――香りだけで呪いも戦争も終わらせます  作者: たむ


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第十七話 白盾峠には、雨を拒む石がある

西へ向かう道は、王都へ向かった旧街道とは違っていた。


旧街道は、忘れられた巡礼の匂いがした。白檀、雪割草、古い足跡、呼ばれなかった名前。あの道には、長く眠っていた記憶が薄氷の下に閉じ込められていた。


だが白盾峠へ続く道には、もっと乾いた匂いがあった。


雨の後だというのに、土が湿らない場所がある。馬の蹄が泥を踏む音のすぐ横で、石だけが乾いている。苔も生えず、草も根を張らず、ただ白っぽい岩肌が古い骨のように露出していた。


「雨を拒んでいる」


リュミナが言った。


彼女は馬車の荷台に座り、小鍋を膝に抱えている。鍋を抱える必要はまったくないのだが、本人は「守護している」と主張していた。


セリカが馬上から振り返る。


「石が雨を拒むのか」


「この石は記憶を弾いている。雨には空の記憶がある。雲、風、山の匂い。それが染み込まない」


リオは馬車から降り、白い石に触れた。


冷たい。


だが、ただの冷たさではない。手のひらの記憶まで薄くなるような、奇妙な無感覚がある。霊廟の忘却とは違う。忘却の獣の空白は、香りを喰う口だった。ここにあるのは、何も受け入れまいとする盾のような拒絶。


「白盾石かもしれません」


ハルトが地図を開きながら言った。


「王都の古い鉱物記録にありました。白盾峠で採れた石は、呪いや精神干渉を弾く性質があると。今では採掘地も記録も失われていますが」


「盾の素材か」


セリカが呟く。


リオは頷いた。


「忘却を防ぐために使われたのかもしれません。ただ、拒む力が強すぎる。香りも入りにくいです」


ミナが石の近くにしゃがみ、薬草籠から小さな根を取り出した。


「このあたり、薬草がほとんどありません。あるのは根の浅い草だけです。土地が記憶を受け取らないから、植物も深く育てないのかも」


リュミナが鼻を鳴らす。


「嫌な土地だ。食べ物が弱い」


「また食べ物ですか」


「土地の良し悪しは食べ物に出る」


セリカが珍しく頷いた。


「それは一理ある」


「ほら見ろ」


リュミナは得意げに胸を張った。


一行は白い石の続く峠道を進んだ。


西方旧砦までは二日。途中に人里はない。かつては砦へ物資を運ぶ道があったはずだが、今は崩れ、道標も倒れている。王都から逃亡した魔術師たちは、馬車ではなく少人数で山道を抜けたらしい。ところどころに焦げた香符や、忘却石を包んでいた黒布の切れ端が落ちていた。


リオはそれを拾い、匂いを嗅いだ。


「焦っていますね」


セリカが問う。


「逃亡者がか」


「はい。忘却石を制御できていない。布から無臭の漏れが多いです。本来なら封印香で抑えるべきですが、急いでいるせいか処理が荒い」


ハルトが顔をしかめる。


「放っておけば危険ですか」


「周囲の小さな記憶から削ります。道、地名、旅の目的。長く近くにいれば、人の名前も」


ミナがすぐに赤鈴草の小袋を配った。


「全員、首元へ。香りが薄くなったらすぐ言ってください」


ハルトの部下たちは素直に従った。王都兵たちは以前なら辺境の薬草師の指示など聞かなかったかもしれない。だが彼らは、石橋や王都で何が起きたかを知っている。声を取り戻したミナが作る薬香を、彼らは剣や盾と同じように扱っていた。


昼過ぎ、峠道の途中で古い石碑を見つけた。


半分地面に埋もれている。白盾石でできているのか、雨にも風にも削られず、表面は不自然なほど滑らかだった。文字はほとんど残っていない。いや、残っていないのではなく、文字の部分だけが意図的に空白になっている。


リオは膝をついて見た。


「削られていません」


「どういうことだ」


セリカが隣に立つ。


「普通、文字を消すなら表面に傷が残ります。でもこれは、文字そのものが最初から存在しなかったように抜けている」


ミナが小さく息を呑む。


「忘却で文字だけ消したんですね」


リオは頷いた。


「おそらく」


石碑には、断片的に読める部分だけが残っていた。


“――は王の前に立ち”

“その盾をもって名なきものを受け”

“白竜は三度その名を呼び”

“王は涙を――”

“されど後の王ら、その名を恐れ――”


肝心の名前がない。


白盾の騎士の名。


そこだけが、世界から切り抜かれていた。


リュミナは石碑の前に立ち尽くしていた。


彼女の白い髪が、風もないのにわずかに揺れる。


「思い出せない」


声は低かった。


「ここまで来ても、名がない」


リオは彼女を見る。


「無理に思い出さなくても」


「無理にでも思い出さねばならない名だ」


リュミナは石碑に手を触れた。


瞬間、白い火花が散った。


「リュミナ!」


リオが叫ぶ。


彼女は後ろへ弾かれたが、倒れなかった。銀の瞳が一瞬、竜のものへ変わる。白盾石が、彼女の記憶を弾いたのだ。


「触るな」


セリカが言った。


「危険だ」


リュミナは唇を噛む。


「私の記憶なのに」


その声には、苛立ちよりも深い悲しみがあった。


リナの花冠を思い出した時、彼女は痛みながらも温かさを得た。だが今回は違う。近づくほど、拒まれる。まるで忘れられた騎士自身が、名を呼ばれることを拒んでいるようだった。


セリカが石碑に手を伸ばした。


リオは止めかけたが、間に合わなかった。


彼女の右手が石に触れる。


今度は火花は散らなかった。


代わりに、セリカの腕の黒紋が白く光った。


空気が変わる。


雨の匂いが消え、乾いた戦場の匂いが立ち上った。


鉄。


馬。


白い盾。


血に濡れた草。


誰かの笑い声。


――竜の鱗は、そこまで磨けば十分です。


知らない女の声がした。


リュミナが目を見開く。


「その声……」


セリカは石碑に触れたまま動けなかった。


彼女の目は開いているが、今見ているのは目の前の峠ではない。リオはすぐに香りを読んだ。石碑に残っていた記憶が、セリカの血と腕の呪いに反応している。


「セリカ、戻ってください!」


リオが叫ぶ。


セリカの唇が動いた。


「白い……盾……」


ミナが赤鈴草の香りを焚く。


リオはセリカの革手袋の香りを開け、彼女の名前を呼んだ。


「セリカ・アルヴァン! リューネ村村長! ガルドの娘!」


リュミナも叫ぶ。


「セリカ! 私を殺さなかった者!」


セリカの身体が震えた。


そして、彼女は息を吸い込み、石碑から手を離した。


膝が崩れかける。


リオとミナが支えた。


「何を見ましたか」


リオが尋ねると、セリカはしばらく答えられなかった。


顔色が悪い。


右腕の白い光は消え、黒紋も薄くなっている。だが、その奥に新しい紋様が浮かんでいた。盾の形。中央に、空白の円。


「女がいた」


セリカは低く言った。


「白い盾を持った騎士。王の前に立ち、黒いものを受け止めていた。リュミナもいた。今よりずっと大きく、怒っていて、泣いていた」


リュミナが小さく震える。


「私は……泣いていたのか」


「たぶん」


「騎士の名は?」


セリカは歯を食いしばった。


「聞こえなかった。誰かが呼んでいたのに、その部分だけ音が抜けていた」


リオは石碑を見た。


名だけが消されている。


音も、文字も、香りも。


「完全に削られています」


「いや」


セリカは首を横に振った。


「完全ではない。名の形だけが残っていた」


「形?」


「口を開く動き。呼ぼうとする息。音になる直前の……匂い」


リオは息を呑んだ。


名前そのものではなく、名前を呼ぼうとした瞬間の香り。


それなら、辿れるかもしれない。


「その匂い、覚えていますか」


セリカは目を閉じた。


「雨の前の鉄。磨いた盾。笑う時の息。あと……焼きたての栗」


リュミナが瞬きした。


「栗」


「お前が食べようとして、騎士に怒られていた」


リュミナは真剣に考え込んだ。


「私は昔から賢い食欲を持っていたのだな」


「怒られていたと言った」


「食べ物に前向きだった」


セリカの顔に、ほんのわずか笑みが浮かんだ。


その瞬間、石碑の空白が小さく震えた。


リオは見逃さなかった。


笑い。


白盾の騎士を思い出す鍵は、厳粛な祈りや血の記憶だけではない。竜の食欲を叱る声。盾を磨く手。焼き栗。そうした小さな生活の香りが、名の輪郭を残している。


「今夜、ここで香りを作りましょう」


リオは言った。


セリカが眉を上げる。


「ここで?」


「はい。石碑に残る記憶は、墓所へ行く前の手がかりです。逃亡者たちが墓所を開こうとしているなら、僕たちも名の輪郭を持って行く必要があります」


ハルトが周囲を見回した。


「野営には危険では?」


「危険です。ですが、ここを通り過ぎる方が危険かもしれません」


セリカは少し考え、頷いた。


「わかった。ハルト、周囲を見張れ。ミナ、薬香を。リュミナ、お前は石碑に触るな」


「わかっている」


「それと小鍋を石碑に乗せるな」


「なぜわかった」


「顔に書いてある」


野営の準備が始まった。


白盾石の周囲は不自然に乾いているため、火は起こしやすかった。だが薪の燃え方もどこか硬い。炎が石に近づくと、熱の記憶さえ弾かれるように弱くなる。リオは石碑から少し離れた場所に小さな調香炉を置いた。


材料を並べる。


セリカの革手袋から削った粉。


リュミナの白い花冠の花弁をほんの少し。


王都から持ってきた白盾石の粉末。


ミナの赤鈴草。


ハルトの持つ王都兵の鉄油。


そして、道中で見つけた山栗。まだ季節ではないが、去年落ちて乾いたものが石の隙間に残っていた。リュミナが食べようとしたのを、ミナが慌てて止めた。


「これは調香用です」


「一つだけ」


「駄目です」


「半分」


「駄目です」


「匂いだけ」


「それなら」


リュミナは山栗を嗅ぎ、少し不満そうに戻した。


「古い」


「古い記憶を探すので」


リオは山栗を砕き、火で軽く炙った。


香りが立つ。


乾いた甘さ。


冬を越した木の実。


火の前で誰かが笑う声。


それに鉄と革と雨の前の風を重ねる。


セリカは石碑の前に座り、右腕を差し出した。


「私の血も使うか」


「必要なら」


「遠慮はするな」


「遠慮したいですが、状況次第です」


リュミナが横から言う。


「私の息も必要だろう」


「はい。ただし弱く。石に弾かれない程度に」


「竜に弱くというのは難しい」


「努力してください」


「努力する」


ミナが小声で言った。


「不安です」


「僕もです」


「リオさんが言うと、少し安心します」


「なぜでしょう」


「怖いまま進む人だから」


リオは少し笑った。


香りが調香炉の中で形を取り始める。


だが、何かが足りない。


名前を呼ぼうとする息。


名そのものではなく、名が生まれる直前の香り。


リオは石碑に近づき、手をかざした。直接触れれば弾かれるかもしれない。だが、香りなら隙間を探れる。


空白。


白盾石の拒絶。


その奥に、微かな震えがある。


誰かが名を呼ぶ。


口が開く。


舌が動く。


音は消えている。


しかし、その直前に感情がある。


信頼。


呆れ。


友情。


そして、別れを恐れる痛み。


リオは目を閉じた。


「リュミナ様」


「何だ」


「昔、あなたはその騎士と親しかった」


「たぶん」


「怒られましたか」


「おそらく」


「喧嘩しましたか」


「きっと」


「それでも、名を呼んでいた」


リュミナは黙った。


白い花冠を握る。


「呼びたい」


小さな声だった。


「名を覚えていないのに、呼びたい」


その言葉が、香りになった。


白竜の寂しさ。


リオはそれを調香炉へ受け取る。


セリカが右手を握りしめた。


「私もだ」


彼女は石碑を見た。


「先祖かもしれない女。反逆者にされ、名を消され、墓まで忘れられた者。私は何も知らない。だが、呼びたいと思う」


その感情も、香りになる。


血筋の呼び声。


ミナが赤鈴草を一枚、火へ落とした。


「名前が戻れるように」


ハルトも、ためらいながら鉄油を一滴加えた。


「王都兵として、消した側の記録を戻すために」


リオは最後に、自分の“ただいま”の小瓶を開けた。


名前は、帰るためのものだ。


香りが白く立ち上った。


雨を拒む石の上に、初めて湯気のようなものが漂う。


石碑の空白が震える。


文字ではない。


音でもない。


だが、石の表面に微かな線が浮かんだ。


三つの曲線。


一つの鋭い角。


それは文字の断片か、紋章の一部か。


セリカの右腕が光る。


盾の紋章の中央に、同じ線が浮かぶ。


リュミナが息を呑んだ。


「……ア」


全員が彼女を見る。


リュミナは額を押さえた。


「最初の音だ。ア……アー……」


石碑が軋んだ。


同時に、峠の奥から無臭の風が吹きつけた。


火が消えかける。


ハルトが叫ぶ。


「何か来ます!」


霧の中から、人影が現れた。


一人ではない。


五人、十人。


白い盾を持った騎士たち。


いや、騎士の形をした影だった。鎧は古く、顔はない。だが王都の名を捨てた騎士とは違う。彼らからは完全な空白ではなく、強い拒絶の匂いがした。


守るために、誰も通さない。


受け止めるために、すべてを弾く。


白盾の墓所を守る残影。


セリカが剣を抜く。


「敵か」


リオは香りを嗅ぐ。


殺意はない。


だが、通す気もない。


「試されています」


「何を」


「名を呼ぶ資格を」


白盾の影たちは、無言で盾を構えた。


その盾の中央には、空白の円。


セリカの右腕と同じ紋章。


リュミナが立ち上がる。


「私が話す」


「大丈夫ですか」


リオが問うと、彼女は頷いた。


「たぶん」


「たぶんは危険ですが」


「今は、それしかない」


リュミナは影たちの前へ歩いた。


白い髪が霧に揺れる。


彼女は小さな少女の姿のまま、しかし声だけは古い竜の響きを帯びて言った。


「私はリュミナ。リューネの守り手。名を失った白盾の友だ」


影たちは動かない。


リュミナは続ける。


「私は忘れた。お前たちの主の名を。友の名を。だから来た。思い出すために」


無音。


盾の列は崩れない。


リュミナの声が震えた。


「通せ。命令ではない。願いだ」


その瞬間、影の一体が前へ出た。


盾を掲げる。


空白の円が黒く光る。


リオは叫んだ。


「リュミナ様、下がって!」


遅かった。


盾から放たれた無臭の波が、リュミナを包む。


彼女の身体が硬直した。


「リュミナ!」


セリカが走る。


だがリュミナは手で制した。


「来るな」


彼女は歯を食いしばり、影の盾を見つめていた。


「これは攻撃ではない」


リオは香りを読んだ。


白盾の試練。


忘却を前にしても、名を呼びたいか。


忘れた罪を認められるか。


守るべきものを、力で奪おうとしないか。


リュミナの足元で、白い花冠が震える。


彼女はゆっくりと膝をついた。


「私は、お前の名を忘れた」


声が、雨の中に落ちる。


「私を守った者の名を忘れた。笑い声も、焼き栗も、盾を磨く手も、全部なくした。友だったのに」


白盾の影たちは動かない。


リュミナは拳を握る。


「だが、忘れたことを忘れない。私は思い出したい。痛くても、寒くても。もう、友を空白のままにしたくない」


その言葉が終わると、影の盾の黒い光が薄れた。


セリカが前に出る。


「セリカ・アルヴァン」


彼女は名乗った。


「白盾の血を引くかもしれない者だ。私はお前たちを知らない。家の歴史も、名誉も、罪も、ほとんど奪われた。だが、知らないまま剣を振るいたくない。守るべきものを知るために来た」


彼女は剣を鞘に収めた。


そして、右腕を差し出した。


「通さないなら、斬るのではなく受ける。盾の家だと言うなら、私にも受けさせろ」


影たちの盾が、かすかに揺れた。


リオは息を呑む。


セリカの右腕の白い紋章が、より鮮明になる。


空白の円の周囲に、三つの曲線。


石碑に浮かんだ断片と同じ。


その時、影の一体が盾を下ろした。


顔のない兜が、セリカへ向く。


声がした。


遠く、雨の奥から。


――血は薄れても、誓いは薄れぬか。


セリカは答えた。


「誓いの中身を知ってから決める」


沈黙。


そして、影の騎士が笑ったような気がした。


盾の列が二つに割れる。


霧の向こうに、古い石門が現れた。


白盾峠の墓所へ続く門。


その中央には、文字のない名札がかかっている。


だが、リオたちの調香炉から立ち上る香りが門へ届くと、名札に一文字だけ浮かんだ。


“ア”


リュミナが立ち上がり、震える声で呟く。


「ア……」


セリカが右腕を押さえる。


「まだ、足りない」


リオは調香炉の火を守りながら頷いた。


「墓所へ行けば、続きがあるはずです」


白盾の影たちは、再び無言で盾を掲げた。


今度は拒むためではない。


道を守るために。


夜の雨は、いつの間にか止んでいた。


白い石は相変わらず濡れていない。


だが石碑の周りだけ、ほんの少し土が湿っていた。


雨を拒んでいた土地が、最初の一滴を受け入れたのだ。


リオはその湿った土の香りを小瓶に移した。


名前を取り戻す前の、最初の香り。


瓶にラベルを書く。


“ア――”


まだ未完成の名。


けれど、空白ではない。

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