第十六話 西風は、白い盾の名を運ぶ
戻り香の家に最初の春雨が降ったのは、開所から七日目のことだった。
雪ではない雨。
リューネ村の者たちは、その違いをよく知っている。雪は世界を閉じ込める。音を吸い、匂いを眠らせ、足跡を白く覆う。だが春雨は、閉じ込められていたものをほどく。土の奥から湿った匂いを引き出し、屋根の雪を崩し、小川に声を戻す。
リオは朝から戻り香の家の調香室にいた。
窓を細く開けると、雨の匂いが入ってくる。王都の雨とは違う。王都の雨は石畳と煤と人の多さを含んでいるが、リューネの雨は土、針葉樹、古い雪、山羊の毛、薬草棚の乾いた葉を少しずつ起こしていく。
机の上には、小瓶が並んでいた。
王都から届いた忘却石の粉末を封じたもの。封竜具の鎖の破片。名を捨てた騎士の回復記録。王女アリアンヌの治療香の試作品。ミナが調合した赤鈴草の新しい配合。リュミナが勝手に置いた干し肉。
最後のものをリオがつまみ上げると、ちょうど扉が開いた。
「それは重要標本だ」
リュミナが言った。
白い髪の先から雨粒を垂らしている。外套も靴も履いていない。裸足のまま雨の中を歩いてきたらしく、床に小さな泥の足跡がついた。
リオは干し肉を皿へ戻した。
「調香室に食べ物を置かないでください」
「これは香りの記録だ」
「食べかけです」
「食べた記憶も含む」
「含まなくていいです」
リュミナは不満そうに鼻を鳴らしたが、すぐに窓の方へ顔を向けた。
銀色の瞳が細くなる。
「西風が濃くなった」
リオも窓辺に立った。
雨の中に、確かに別の匂いがあった。
無臭ではない。
むしろ、匂いを失いかけたものが必死に何かを保とうとしているような、ざらついた空白。そこに混じるのは、古い鉄、白い石、乾いた革、そして墓に供えられた花。
「西方旧砦の方角ですね」
「墓の匂いだ」
リュミナは言った。
「ただの死者ではない。名前を呼ばれずに長く置かれた者たちの匂い」
リオは手元の記録を見た。
アルヴァン家の古い墓所。
建国期、初代王と白竜リュミナの契約に関わった騎士たちが眠る場所。王都の改竄記録では、その墓所は「反逆騎士の処分地」とされていた。だが王妃の手紙と霊廟の記録を照合した結果、まったく違う可能性が浮かび上がった。
白い盾の騎士。
初代王の隣にいた女騎士。
リュミナの鱗を磨きすぎて怒られた、セリカの先祖かもしれない人物。
名前は、まだ見つかっていない。
「セリカには?」
リオが尋ねると、リュミナは頷いた。
「もう気づいている。腕が匂う」
「腕?」
「呪いではない。血の匂いが起きている」
その時、調香室の扉がまた開いた。
ミナが薬草籠を抱えて入ってくる。
「リオさん、村長が呼んでいます。西の件で……あ、リュミナ様、また裸足です」
リュミナは視線を逸らした。
「竜は靴を履かない」
「人の姿で泥を持ち込むと、掃除が大変です」
「泥も土地の記憶だ」
「掃除しますよ」
ミナは優しく言った。
リュミナはしばらく抵抗するように黙っていたが、やがて小さく頷いた。
「後で拭く」
「今です」
「……ミナは最近強い」
「声が戻りましたから」
ミナはそう言って微笑んだ。
その笑みの香りには、薬草と雨と、少しの誇らしさがあった。
三人が村長宅へ向かうと、セリカはすでに地図を広げていた。
村長宅の卓上には、王都から届いた西方旧砦周辺の写し地図、アルヴァン家に関する古文書の断片、そして封蝋のついた国王からの書簡が並んでいる。窓の外では雨が屋根を叩き、炉には小さな火が入っていた。
セリカは右腕に革手袋を嵌めていた。
黒い紋様は見えない。だがリオには、彼女の腕からいつもより強く古い鉄の匂いが立っているのがわかった。
「来たか」
セリカは顔を上げた。
「王都から追加の報告が届いた。逃亡した魔術師たちは、西方旧砦に入った可能性が高い。数は十名前後。忘却石の欠片を複数所持。目的は不明だが、旧砦の地下にあるアルヴァン墓所を探っているらしい」
ミナが不安そうに言う。
「墓所で何をするつもりでしょう」
セリカは地図の一点を指した。
「ここだ。白盾峠。王国建国以前からある古い砦で、初代王の西方遠征の拠点だったと言われている。だが王都の正史では、白盾騎士団が反逆し、処分された場所になっている」
リオは古文書の断片を手に取った。
文字は欠けている。
“白盾の女騎士――王と竜の誓約を――”
“忘却を斬る剣ではなく、受け止める盾を――”
“その名を記すことを禁ず。名が残れば、契約が――”
「名を記すことを禁ず……」
リオは呟いた。
「誰かが意図的に彼女の名を消したのでしょうか」
「おそらくな」
セリカの声は冷たい。
「王家が忘却を都合よく使い始めた時、白盾の騎士たちは反対したのかもしれない。だから反逆者にされた」
リュミナが地図を見つめている。
「思い出せそうで、思い出せない」
彼女は苛立ったように額へ手を当てた。
「白い盾。銀の縁。雨の日に、私の翼を布で拭いた女。人間のくせに口が悪かった」
セリカが眉を動かした。
「私の先祖らしいな」
「お前より少し背が低い」
「余計な情報だ」
「だが、名がない。名の場所だけが穴になっている」
リオはリュミナの表情を見た。
これまで彼女は、失われた記憶を少しずつ取り戻してきた。リナの花冠、初代王の温かい手、王都との巡礼の道。だが白盾の女騎士については、名の部分だけが妙に深く削られている。
単なる忘却ではない。
名を狙って消した跡。
「逃亡者たちは、その名を利用しようとしているのかもしれません」
リオが言うと、セリカが視線を上げた。
「どう利用する」
「忘却石は、記憶の空白に入り込みます。もしアルヴァン墓所に“名を消された騎士”の記憶が残っているなら、その空白は強力な入口になる。彼女が契約の重要人物だったなら、白竜や忘却の神に干渉するための鍵にもなり得ます」
ミナが息を呑む。
「つまり、リュミナ様の契約をまた歪めることができるかもしれない?」
「可能性はあります」
リュミナの瞳が冷える。
「なら、行く」
セリカも短く言った。
「私も行く」
リオは予想していた。
それでも胸が重くなる。
戻り香の家は始まったばかりだ。村の患者もいる。王都とのやり取りもある。だが西方旧砦を放置すれば、もっと大きな忘却が広がるかもしれない。
セリカはリオを見た。
「お前は残れ、と言いたいが」
「言っても聞かないと思われていますか」
「思っている」
「正しいです」
セリカはため息をついた。
「ただし条件がある。今回は無茶をしない。倒れる前に言う。香りを使いすぎない。危険な夢の中へ勝手に飛び込まない」
「最後は状況によります」
「ほら見ろ」
「努力します」
「努力では足りない」
ミナが手を上げた。
「私も行きます」
リオとセリカが同時に彼女を見る。
ミナは先に言った。
「止めても行きます」
リオは言葉を失った。
セリカは小さく笑った。
「成長したな」
「リオさんに置いていかれないためには、先に言う方がいいと学びました」
「賢い」
「村の患者さんは、薬草師のエルマおばあさんに任せられます。戻り香の家も、基本的な香りなら私の記録で対応できます。でも忘却石や記憶の傷は、現場で見ないとわかりません」
リオは彼女の目を見た。
そこに不安はある。
だが、怯えだけではない。
声を取り戻した少女は、今度は誰かの声や名が奪われる前に動こうとしている。
「わかりました」
リオは頷いた。
「一緒に行きましょう」
リュミナが言った。
「では鍋は誰が持つ」
セリカが即答する。
「持たない」
「西方は寒いかもしれない」
「携帯食で足りる」
「足りない」
「足りろ」
ミナが控えめに言う。
「小鍋なら……」
リュミナの顔が輝いた。
セリカは頭を抱えた。
「余計なことを」
リオは笑ってしまった。
笑いながらも、西から来る風を感じていた。
雨の向こうの無臭。
古い墓の匂い。
名を消された騎士の、まだ見つからない香り。
出発は三日後と決まった。
それまでに、リオは戻り香の家で必要な準備を進めた。忘却石対策の記憶固定香。赤鈴草と雪留め草を強めた薬香。リュミナの契約に反応する白花香。セリカの血筋と革手袋を元にしたアルヴァン香。ミナの声を守る喉香。
そして、自分のための小瓶も作った。
母の雨の香りは、もう前のように閉じ込めていない。代わりに、母の失敗作の香りと、リューネ村のただいまの香りを混ぜたものを用意した。
逃げるためではない。
戻るために。
二日目の夜、王都からさらに一通の手紙が届いた。
差出人は、エルヴィン王子だった。
封蝋は王族のものではない。裁判待ちの拘束者として許された簡素な封。リオは少し迷ったが、開いた。
紙には短い文章だけが書かれていた。
――白盾峠へ行くと聞いた。
――あそこには、私も一度だけ行ったことがある。姉上を救う手がかりを探していた頃だ。
――墓所の扉には、王家の血ではなく、アルヴァンの血と竜の息が必要だった。私は開けられなかった。
――ただ、扉の前で声を聞いた。
――「盾は、忘れるためにあるのではない」
――意味はわからない。
――君なら、わかるのかもしれない。
――腹立たしいが、そう思う。
最後に、小さく追記があった。
――姉上がスープを飲むようになった。
――リュミナに礼を言うべきか迷っている。
――噛まれそうなので、まだ言わない。
リオは手紙を読んで、少し笑った。
エルヴィンはまだ拘束され、裁きを待っている。罪が消えるわけではない。だが、彼もまた少しずつ記憶の中で何かを動かし始めているのだろう。
「盾は、忘れるためにあるのではない……」
リオは呟いた。
背後でセリカが言った。
「何を守るためにあるか、という話か」
彼女はいつの間にか調香室の入口に立っていた。
リオは手紙を差し出した。
セリカは読み、眉を寄せる。
「エルヴィンが聞いた声。白盾の騎士かもしれないな」
「はい」
「盾は、受け止めるものだ。忘れるためではなく、耐えるためにある」
セリカは自分の右腕を見た。
「アルヴァンが盾の家なら、私はずいぶん剣ばかり振ってきた」
「でも、村を守りました」
「守るために斬ることもある」
「はい」
「だが、斬るだけでは足りないのだろうな」
彼女の声には、珍しく迷いがあった。
リオは香油の瓶を手に取った。
「腕、診ましょうか」
セリカは一瞬だけ目を細めた。
「話を逸らしたな」
「いえ、必要なことです」
「便利な男だ」
それでも彼女は椅子に座り、革手袋を外した。
右腕には薄い黒紋が残っている。以前より淡くなったが、西風が吹くたびに少しだけ濃くなる。アルヴァン墓所が近づくにつれ、この腕は何かを受け取ろうとしているのかもしれない。
リオは青い香油に赤鈴草と白盾峠の地図から採った古い紙の香りを加えた。
「痛みますか」
「痛むというより、呼ばれている」
「怖いですか」
セリカは黙った。
そして、小さく答えた。
「少しな」
リオは頷いた。
「僕も怖いです」
「お前はいつも怖がっているのに進むな」
「セリカもです」
「私は村長だからだ」
「僕は調香師だからです」
セリカは少し笑った。
「なら仕方ないな」
香油を塗ると、黒紋がわずかに静まった。
しかし完全には消えない。
むしろ、奥に白い光のような筋が一瞬だけ浮かんだ。
リオは息を呑む。
「今、見えましたか」
「ああ」
セリカは自分の腕を見下ろす。
「盾の紋章に似ていた」
西へ行けば、この紋章の意味もわかるかもしれない。
だが、わかることは必ずしも救いではない。
それでも、行くしかなかった。
出発の朝、戻り香の家の前に村人たちが集まった。
今度は追放でも、王都への緊急行でもない。けれど、見送りの空気には緊張があった。王都から逃げた者たちが相手であり、忘却石が関わっている。危険なのは誰もが知っている。
ミナは村の老婆エルマに薬草帳の写しを渡していた。
「この配合は喉の薬です。これは記憶固定香。強すぎると頭痛が出ますから、少量で」
老婆は笑った。
「わかっているよ。あんたが帰るまで、家は守っておく」
「はい」
そばかすの少年がミナに干し林檎を渡した。
「今度は多めにした」
ミナは受け取って微笑む。
「ありがとう」
少年は顔を赤くしながら言った。
「ちゃんと帰ってこいよ」
「うん。ただいまって言うために帰る」
その言葉を聞いたリオは、胸元の“ただいま”の小瓶に触れた。
リュミナは村の子どもたちから干し肉を受け取っていた。
「白竜様、これも!」
「これも持っていって!」
「お腹空いたら食べて!」
リュミナは非常に厳粛な顔で受け取っている。
「お前たちは賢い。将来よい人間になる」
セリカが呟く。
「賄賂で神託を出すな」
ハルトも同行することになった。
王都調査隊の代表としてだ。彼は馬に荷を積みながら、リオへ言った。
「今回は、王都側としてきちんと動きます。リューネ村に負担を押しつけないように」
セリカが遠くから言う。
「その言葉、記録しておくぞ」
ハルトは背筋を伸ばした。
「はい!」
リオは戻り香の家を振り返った。
看板。
煙突。
薬草棚。
台所。
まだ新しい木の匂い。
帰る場所。
ここを出るのは不思議な気分だった。王都から追放された時は、行き先がなかった。王都へ戻った時は、戻るべき場所が揺らいでいた。だが今は違う。
出発は、帰る場所があるからできる。
セリカが馬に乗り、手綱を引いた。
「行くぞ」
リュミナが荷台の小鍋を確認する。
「小鍋はある」
ミナが薬草籠を背負う。
「香りもあります」
ハルトが頷く。
「道は西へ」
リオは深く息を吸った。
春雨の後の土。
村人の見送り。
干し肉。
薬草。
革手袋。
白竜。
そして、西から来る名のない風。
「行ってきます」
彼が言うと、村人たちが声を揃えた。
「行ってらっしゃい」
その声は、香りのように背中を押した。
一行はリューネ村を出た。
西へ。
白盾峠へ。
名を消された騎士の墓所へ。
忘却の残り火が揺れる場所へ。
その道の先で、リオたちはまだ知らない。
白盾の女騎士の名が、ただの歴史ではなく、セリカの右腕に残る呪いそのものと結びついていることを。
そして忘却を利用しようとする逃亡者たちが、墓所で求めているものが、白竜を縛る鎖ではなく――
かつて初代王さえ恐れた、“忘れられない者”の目覚めであることを。




