第十五話 戻り香の家
春は、最初に土の匂いで来た。
リューネ村の雪はしぶとい。王都では路地裏の泥が顔を出す頃になっても、村の畑にはまだ白いものが残っている。それでも日当たりのよい斜面から雪はほどけ、凍っていた小川が細い音を立てて流れ始めた。
リオはその朝、村の外れに立っていた。
目の前には建てかけの小屋がある。丸太を組んだ壁。急勾配の屋根。煙突。奥には薬草を乾かす棚、手前には小さな診察台。さらに隣には、リュミナの強い要望により台所が増設されていた。
扉の上には、まだ看板がない。
「字は大きくしろ」
リュミナが言った。
彼女は台所側の窓枠に腰かけ、干し肉を噛んでいる。すっかり人の姿で村に馴染んでいるが、裸足で雪解けの泥の上を歩くので、村の老婆たちから毎日のように叱られていた。
「読めれば十分です」
リオが答えると、リュミナは首を横に振った。
「王都の者は目が悪い。大きく書け」
「それは視力の問題ではない気がします」
ミナが看板用の板を抱えてやってきた。
「文字は私が書きます。薬草店の看板を書いたことがありますから」
彼女の声は、もうほとんど掠れていない。
ただし長く話すと疲れるため、リオは休憩を挟むよう何度も言っている。ミナはそのたびに「わかっています」と答えるが、薬草や香りの話になると止まらない。声を取り戻した者は、話すことが生きることと近い場所にあるのだと、リオは最近よく感じていた。
「名前は、やっぱりこれでいいですか」
ミナは板を見せた。
そこには下書きで、こう書かれている。
“戻り香の家”
リオは頷いた。
「はい」
「診療所っぽくないな」
背後からセリカの声がした。
彼女は丸太を肩に担いでいる。村長であり、元騎士であり、いまは建築現場の監督のようでもあった。右腕の呪いは薄くなったが、完全には消えていない。無理をすると黒い紋様が浮かぶので、リオとミナが交代で香油を塗っている。
「診療所というより、帰ってくる場所にしたいので」
リオが言うと、セリカは少しだけ表情を緩めた。
「なら、いい」
リュミナが干し肉を飲み込む。
「台所があるから、いい」
「あなたの基準はそこだけですね」
「帰る場所には食べ物がある」
リオは反論しかけて、やめた。
それは本当に、その通りだった。
戻り香の家は、王都とリューネ村の共同事業という奇妙な形で始まった。
名目上は、忘却被害者の回復と記憶香の研究施設。王都からの資金援助があり、薬草と調香の知識を組み合わせ、忘却の影響を受けた者や、呪いによって声や記憶を損なった者を診る。
だが村人たちは、もっと単純に理解していた。
「迷った人が帰ってくる家」
それで十分だった。
最初の患者は、王都兵の一人だった。
名を捨てた騎士ではない。エルヴィン派に命じられ、忘却石の粉を運んでいた下級兵士だ。彼は自分が何を運んでいたのか知らず、しかし石の影響で故郷の妹の顔を思い出せなくなっていた。
王都の医官は異常なしと診断した。
だが彼は泣きながらリューネ村へ来た。
「妹がいたことは覚えています。でも顔がないんです。声も、名前も、輪郭だけが抜け落ちている」
リオはミナと共に、三日かけて彼の記憶香を作った。
洗濯石鹸。
小麦粥。
夏祭りの赤い布。
妹が好きだった酸っぱい木苺。
最後に、兵士自身の涙を一滴。
完全には戻らなかった。
けれど彼は四日目の朝、妹の名前を思い出した。
「ナナ」
たった二音。
それを思い出した瞬間、彼は床に崩れ落ちて泣いた。
ミナも泣いた。
リュミナは「泣いた後は食べろ」と言って、彼にスープを渡した。
その噂はすぐに広まった。
王都から、辺境から、時には貴族の使いまで、戻り香の家を訪れる者が現れ始めた。リューネ村の村人たちは戸惑い、警戒し、それでも相手の名を聞くようになった。
標柱には、あの言葉が残っている。
“王都の者を信じるな。”
“それでも、名を聞け。”
王都の使者が来るたび、彼らはまず名前を尋ねる。
名乗れない者は村へ入れない。
名乗った者は、少なくとも話を聞かれる。
厳しいが、正しい門だった。
看板が取り付けられた日の午後、王都から早馬が来た。
ハルトだった。
彼は王都兵の鎧ではなく、簡素な旅装をしている。王都での混乱の中、彼は証言者として何度も呼ばれ、今では国王直属の調査隊に配属されていた。本人は「出世というより、面倒な役回りです」と言っているが、顔つきは以前よりずっと引き締まっていた。
「リオ殿、セリカ村長」
ハルトは馬から降り、深く頭を下げた。
「王都から報告です」
セリカが腕を組む。
「悪い話か」
「悪い話と、面倒な話と、少しいい話です」
「順番が嫌だな」
ハルトは苦笑し、まず一通の封書を差し出した。
国王の印がある。
リオが開くと、中には正式な任命書が入っていた。
“記憶調香師リオ・クラウゼンを、王国記憶院特別顧問に任ず。ただし勤務地は本人の選択によりリューネ村を主とし、必要に応じ王都へ出仕するものとする。”
リオは何度も読み返した。
本人の選択により。
リューネ村を主とし。
セリカが覗き込み、ふっと笑った。
「逃げ道を塞がれずに済んだな」
「はい」
ミナが嬉しそうに言う。
「これで戻り香の家は正式に認められますね」
リュミナが問う。
「給金は出るのか」
「たぶん」
「では肉を買える」
「研究費です」
「肉も研究に必要だ」
ハルトは慣れたのか、真面目な顔で頷いた。
「実際、リュミナ様の食事記憶が忘却対策に有効だったという報告もありますので……」
セリカが頭を抱えた。
「王都の学者まで変なことを言い出したか」
ハルトは次に、別の封書を出した。
「アリアンヌ王女殿下からです」
リオは封を開けた。
紙から白薔薇と菫の香りがした。
文字は細く、まだ少し震えている。
――リオへ。
――戻り香の家の完成、おめでとうございます。
――私は王都で治療と審理の準備を受けています。私の犯したことが消えるわけではありません。ですが、毎朝、菫の香りとスープの香りを少し嗅いでいます。リュミナが言った通り、泣いた後は食べることにしました。
リオは少し笑った。
――エルヴィンは、まだ私と会うことを拒んでいます。ただ、昨日、扉の向こうから「エルと呼ぶな」と言いました。返事があるだけ、進歩なのだとメリッサは言います。
――父上は、罪の回廊の公開記録を読み続けています。読み終える前に倒れるのではないかと心配です。けれど父上は、「知らなかった罪を、もう知らぬままにしない」と言っています。
――私は、自分が救われるべきかまだわかりません。けれど、戻る道を残す仕事なら、手伝いたいと思います。
――いつか、リューネ村を訪れてもよいでしょうか。もちろん、肉を持っていきます。
リュミナが横から覗き込み、真剣に頷いた。
「よい王女だ」
セリカが言う。
「肉で判断するな」
「大事な判断基準だ」
手紙の最後には、こう書かれていた。
――忘れなかった人たちへ。
――まだ忘れたい私より。
リオは手紙を丁寧に畳んだ。
「返事を書かないと」
ミナが言った。
「戻り香の家の香りも入れましょう」
「はい」
ハルトは最後に、少し表情を硬くした。
「悪い話です」
セリカが目を細める。
「第二王子派か」
「一部が逃亡しました。封竜具の製造に関わった魔術師と、記録改竄を担っていた貴族数名。王都内で拘束しきれなかった者たちです」
リオは胸の奥が冷えるのを感じた。
「どこへ?」
「西方へ向かった可能性が高いです。国境近くの旧砦に、忘却石の残りを持ち込んだという情報があります」
ミナが息を呑む。
「まだ残っているんですか」
「霊廟の本体は鎮まりましたが、削り出された忘却石の欠片は各地に散っているようです。国王陛下は回収を進めていますが、全ては把握できていません」
セリカが低く言った。
「つまり、忘却の獣の残り火を使おうとする馬鹿がいる」
「はい」
リュミナが鼻を動かす。
「西から、嫌な風が来ている」
リオも同時に感じていた。
春の土の匂いの向こうに、ほんの微かな無臭の裂け目。
霊廟の黒い泉ほど強くはない。
だが、確かに忘却の残り香がある。
ハルトは続けた。
「国王陛下は調査隊を出す予定です。ですが、記憶や香りに関わるため、リオ殿の助言を仰ぎたいと」
セリカが即座に言う。
「リオはまだ休養中だ」
「承知しています。陛下も無理に出仕させるなと」
「ならいい」
ハルトは少し言いにくそうにリオを見た。
「ただ、西方旧砦の近くには、アルヴァン家の古い墓所があるそうです」
セリカの表情が変わった。
「何だと」
「建国期、初代王と白竜の契約に関わった騎士たちの墓所です。記録が改竄されていたため、詳細は不明ですが……逃亡者たちはそこを目指している可能性があります」
リュミナの銀の瞳が細くなった。
「白い盾の女騎士」
セリカは黙っていた。
彼女の右手が、無意識に革手袋を握る。
リオはその匂いを感じた。
驚き。
警戒。
そして、呼ばれているような感覚。
アルヴァンの血が、まだ終わっていない記憶に触れている。
「村長」
ミナが心配そうに言う。
セリカはしばらく沈黙したあと、深く息を吐いた。
「すぐには動かない。村の整備、戻り香の家、王都からの謝罪団への対応が先だ」
「はい」
リオは頷いた。
「ですが、調査は必要です」
「わかっている」
セリカはリオを見る。
「ただし、お前は倒れるまで働くな。次に無茶をしたら、本当に殴って寝かせる」
「最近、脅しが具体的ですね」
「実績を積んだ」
「恐ろしい」
リュミナが言った。
「西へ行くなら、携帯鍋が必要だ」
「もう旅支度を始めるな」
「準備は大事だ」
ミナが小さく笑った。
その笑いには、不安と同時に覚悟の香りがあった。
戻り香の家は、完成したばかりだった。
だが世界は、完成を待ってくれない。
王都の忘却は鎮まりつつある。けれど、忘却を利用したい者、罪を記録されることを恐れる者、白竜の力を再び狙う者は残っている。
物語は閉じていない。
ただ、新しい場所に扉ができたのだ。
その日の夕方、戻り香の家の開所祝いが行われた。
村人たちが集まり、王都から届いた大鍋の一つに火が入った。ミナは薬草入りのパンを焼き、リュミナは肉の量を厳しく監視し、セリカは王都から来た役人が余計な挨拶を始める前に短く切り上げさせた。
リオは看板の前に立った。
“戻り香の家”
その文字から、新しく削った木の匂いがする。
彼は小瓶を取り出し、看板の香りを閉じ込めた。
春の土。
新しい木。
薬草。
煙。
鍋の湯気。
村人の笑い声。
そして、これからここへ来るだろう迷子たちのための、まだ空いている場所。
「何の香りですか」
ミナが尋ねた。
リオは少し考えた。
「始まりの香り、でしょうか」
「いいですね」
リュミナが横から言う。
「鍋の香りも入っているか」
「入っています」
「ならよい」
セリカは腕を組み、看板を見上げた。
「妙な家ができたな」
「そうですね」
「王都と村と竜と薬草と、罪人と迷子が集まる家か」
「かなり妙ですね」
「だが、必要だ」
リオは頷いた。
「はい」
夕日が雪解けの水面に反射していた。
遠く王都では、まだ裁きと混乱が続いている。西方からは忘却石の不穏な風が吹き始めている。アルヴァン家の墓所には、セリカもリュミナも知らない古い記憶が眠っているかもしれない。
けれど今、戻り香の家には明かりが灯っている。
誰かが忘れても、誰かが呼ぶ。
誰かが迷っても、香りが待つ。
誰かが痛みに耐えられなくなっても、忘れることを責めず、戻る道を残す。
リオは胸いっぱいに息を吸った。
香りは残る。
そして、残った香りから、人はまた物語を始められる。




