第十四話 帰る道には、雪解けの匂いがした
リューネ村へ戻る馬車は、行きとはまるで違う匂いをしていた。
行きの馬車は護送用だった。冷たい鉄、湿った藁、兵士の沈黙、追放状の乾いた紙。窓の外には雪が降り、リオは王都から遠ざかるたびに、自分の人生からも切り離されていくような気がしていた。
だが今、同じ北東の道を走る馬車には、干し肉と薬草と大鍋の残り香が詰まっている。
王都からリューネ村へ送られる荷は、馬車三台分になった。大鍋。毛布。保存食。薬草の種。修理用の鉄材。正式な謝罪文。王印の入った契約復元書。そして、白竜リュミナとの古き契約を記した写本。
「鍋が三つある」
リュミナは荷台の確認を終えると、満足げに言った。
「一つでは?」
リオが尋ねる。
「大鍋が一つ、中鍋が二つ。合計三つだ」
「王都の人たちも学んだようですね」
「よい傾向だ」
リュミナは深く頷いた。
彼女は馬車の座席に座ることを嫌い、荷台の鍋の近くに陣取っている。白い髪を外套の中へ押し込めているが、今さら隠しきれるものではない。王城の証言後、白竜が実在するという噂は王都中に広まっていた。人々は恐れ、祈り、好奇心に駆られ、そしてなぜか「白竜は肉入りスープを好む」という情報まで正確に広まっていた。
「誰が流したのでしょう」
リオが呟くと、ミナが目を逸らした。
「……少しだけ、厨房の人に話しました」
「少しだけ?」
「リュミナ様が大鍋を喜んでいたと」
「それで十分広まりますね」
「すみません」
「いいんです。たぶん害はありません」
荷台の奥からリュミナが言う。
「害はない。肉の供物が増えるなら益だ」
セリカが馬上から振り返る。
「供物制度を作るな」
「昔はあったはずだ」
「復元しなくていい」
馬車の周囲には護衛がついていた。
ハルトと数名の王都兵、それにセリカが信頼する辺境の猟師たち。道中、第二王子派の残党による襲撃がないとは言い切れない。エルヴィンは拘束されたが、彼に加担した者すべてが捕まったわけではない。
それでも、空気は重すぎなかった。
ミナは薬草帳に新しい記録を書いている。王都で入手した薬草の種の扱い、忘却の影に触れた者への応急処置、赤鈴草を用いた記憶固定の調合法。声を取り戻した彼女は、書く速度まで速くなったように見えた。
グラントは同行していない。
彼は王都に残り、審理を待っている。裁きは軽くないだろう。だが彼は逃げなかった。出発前、彼はミナに深く頭を下げ、「忘れません」と言った。ミナは「私も忘れません」と答えた。それ以上はなかった。
その短い会話の中に、いくつもの香りがあった。
罪。
怒り。
痛み。
そして、記録されることでようやく腐敗を止めた何か。
リオは窓の外を見た。
雪原が続いている。
だが、王都へ向かった時よりも、雪の表情が少し違う。陽が高くなり、日当たりのよい斜面では雪が薄く溶け始めていた。土の匂いがほんの少しだけ顔を出している。
雪解けの匂い。
王都を出る時、国王はリオたちに言った。
「これは始まりにすぎぬ」
その通りだった。
罪の回廊の公開は、すでに王都に波紋を広げている。名家の罪が明らかになれば、抵抗も起きる。忘却に頼ってきた者たちは、自分たちの罪を暴かれまいとする。アリアンヌ王女の処遇を巡っても意見は割れている。犠牲者か、加害者か。その両方だと認めるには、社会はまだ慣れていない。
エルヴィン王子も裁かれる。
姉を救いたかった少年のままではいられない。王国を恐怖で統一しようとした王子として、白竜を兵器にしようとした者として、彼は自分の名で罪を背負うことになる。
そしてリオ自身も、王都と完全に無関係には戻れない。
国王からは、正式に「記憶調香師」という新たな役職を打診された。罪の香り、失われた記憶、忘却の影響を受けた人々の治療。それを担う者が必要だからだ。
だがリオは即答しなかった。
王都には彼の力が必要だ。
けれど、必要とされる場所へただ吸い込まれることが、正しいとは限らない。
「悩んでいる匂いがします」
ミナが言った。
リオは苦笑する。
「匂いますか」
「最近、少しわかるようになりました」
「僕の仕事が奪われそうですね」
「まだ全然です。でも、リオさんが王都のことを考えている時は、菫と鉄の匂いが濃くなります」
「なるほど」
ミナは薬草帳を閉じた。
「王都に戻るんですか」
リオはすぐには答えなかった。
馬車の揺れ。
雪を踏む馬の音。
荷台でリュミナが鍋の蓋を開け閉めする音。
セリカが猟師と道の状態を話す声。
そのすべてが、リューネへ向かう旅の香りを作っている。
「戻ると思います」
リオは言った。
ミナの表情が少し曇る。
リオは続けた。
「でも、住む場所としてではありません。王都へ行き、仕事をして、またリューネへ帰る。そういう形にできないかと」
ミナの顔が明るくなる。
「それなら、村にも調香室を作れますね」
「調香室ですか」
「はい。薬草小屋の隣に。忘却の影に触れた人や、声や記憶に傷を負った人を診る場所。王都からも来られるように」
リオは少し驚いた。
それは、彼がぼんやり考えていたことに近かった。
王都の罪を記録するだけでは足りない。忘れかけた人々が戻れる場所が必要だ。王城の地下ではなく、辺境の村に。雪と薪とスープの匂いの中で。
「いいですね」
「本当ですか」
「はい。名前は……香りの診療所?」
ミナは首を傾げた。
「少し堅いです」
「では、戻り香の家」
ミナの目が輝いた。
「それ、いいです」
荷台からリュミナが言った。
「そこに台所もつけろ」
「診療所ですよ」
「戻るには食べる必要がある」
リオとミナは顔を見合わせた。
不思議と、反論しきれなかった。
「台所も必要ですね」
ミナが笑った。
「大鍋対応で」
「重要だ」
リュミナは満足そうに頷いた。
夕方、旧街道の石橋へ差しかかった。
行きに名を奪われかけた場所だ。
一行は橋の前で足を止めた。欄干には無数の名前が刻まれている。リナ。エリス。リリア。新たに戻ってきた名たちも、薄く光っているように見えた。
グラントはここにいない。
だが、彼の妻と娘の名は石に残っている。
リュミナは荷台から降り、白い花冠を胸に抱えて橋へ歩いた。彼女はリナの名の前に膝をつき、小さな声で言った。
「戻ったぞ、リナ」
風が吹いた。
無臭ではない。
白い花と雪解けの匂いがした。
リナの姿は現れなかった。もう、現れなくてもいいのかもしれない。名前を呼ばれ、花冠を覚えられた彼女は、忘却の影ではなく、記憶として残ったのだから。
セリカが橋の欄干に触れた。
「ここを通る巡礼も、いつか戻るかもしれないな」
「戻しますか」
リオが尋ねると、セリカは少し考えた。
「すぐには無理だ。村人は王都をまだ信用しない。だが、王都の者が自分の足で歩いて、名前を刻み、香を焚いて、村へ謝りに来るなら……考えてもいい」
「厳しいですね」
「当然だ」
セリカはリオを見た。
「許すかどうかは、傷つけられた側が決める。謝る側が急かすものではない」
「はい」
ミナも静かに頷いた。
彼女にとっても、それはグラントとの関係そのものだった。
夜、廃宿場で野営した。
以前、リナの影と出会った場所だ。だが今夜の廃宿場は、少し違っていた。壊れた香炉にリオが火を入れ、王都から持ってきた新しい香を焚いた。白檀、雪割草、赤鈴草、そしてリューネ村のスープの香りをほんの少し。
「巡礼香を復元するなら、食べ物の匂いを混ぜるのはどうなんだ」
セリカが言った。
「戻るための香りですから」
リオは答えた。
「それに、リュミナ様が主張しまして」
「正しい」
リュミナは干し肉を噛みながら言った。
「祈りだけでは腹が減る」
ミナが笑った。
焚かれた香りは、廃宿場の石壁に染み込んでいく。
かつて巡礼者が笑い、眠り、白竜へ祈った場所。忘却の影に覆われていた場所に、少しずつ記憶が戻る。すぐには修復できない。だが、火が入った香炉は、廃墟ではなく休む場所になっていた。
リオは香炉の前に座り、王都の中庭で採った大鍋の湯気の香りを少しだけ加えた。
王国が忘却から戻った夜の香り。
それは旧街道にふさわしいと思った。
セリカが隣に腰を下ろした。
「村へ戻ったら忙しくなる」
「はい」
「役人が来る。謝罪団も来る。王都から見物人も来るかもしれん。白竜目当ての馬鹿もいるだろう」
「大変ですね」
「他人事みたいに言うな。お前も村の一員扱いだ」
リオは瞬きをした。
「僕が?」
「違うのか」
セリカは当然のように言った。
「追放者として来て、魔狼を眠らせ、竜を起こし、王都へ行って戻ってきた。これで村の外の者と言い張る方が無理だ」
リオは言葉を失った。
村の一員。
その言葉は、香りよりも先に胸へ届いた。
「迷惑では?」
「迷惑はもう十分かけられた」
「すみません」
「だから働いて返せ」
「はい」
「調香室を作るなら、雪に強い屋根が必要だ。薬草畑も広げる。王都から来る連中を泊める小屋も要る。あとリュミナ用の食糧管理台帳」
「最後が一番難しそうです」
「そうだ」
リュミナが遠くから言う。
「私の食糧に台帳はいらない。食べれば減る。わかりやすい」
セリカはため息をついた。
「だから必要なんだ」
夜更け、リオは一人で香炉の前に残った。
火は小さくなり、仲間たちは眠っている。ミナは薬草帳を枕元に置き、リュミナは大鍋の近くで丸くなり、セリカは剣を抱いて浅い眠りについていた。ハルトたち兵士も交代で見張りをしている。
リオは鞄から二つの空瓶を取り出した。
一つは母の死の日の香りを入れていた瓶。
もう一つは、母に初めて褒められた失敗作の香りの瓶。
どちらも彼の過去だ。
片方は楽しい記憶。
片方は痛み。
これまで、リオは片方だけを大切にし、もう片方を封じていた。だが今、二つは別々ではないのだとわかる。
母が笑った日があるから、母を失った日が痛い。
母を失った日があるから、その笑顔の香りが残る。
彼は二つの瓶を並べ、廃宿場の香炉の前で静かに栓を開けた。
もう中身はほとんどない。
けれど、かすかな香りが残っている。
苦い薬草。
雨上がりの苔。
温めすぎた蜂蜜。
冷めた布。
母の手。
「ただいま」
リオは小さく呟いた。
誰に向けた言葉か、自分でもわからなかった。
母へ。
自分の過去へ。
失敗作を抱えた幼い自分へ。
あるいは、これから帰る村へ。
風が吹いた。
雪解けの匂いがした。
翌日の昼、リューネ村の森が見えた。
針葉樹の匂い。
凍った土。
薪。
山羊。
薬草。
そして、村の入口に近づくにつれて、人々のざわめきが届いてきた。
村人たちは総出で待っていた。
老婆、鍛冶屋、山羊飼い、猟師、子どもたち、王都兵として残っていた者たち。誰もが緊張し、期待し、不安そうにしている。そばかすの少年は一行を見つけると、真っ先に走り出した。
「ミナ!」
ミナが馬車から降りる。
少年は途中で勢いを落とし、どうしていいかわからない顔になった。
ミナは笑って言った。
「ただいま」
その声を聞いた瞬間、村人たちの空気が変わった。
声。
彼女の声。
王都へ向かう前よりも、少し強く、少し明るい声。
老婆が泣き出した。
少年は顔を真っ赤にして、「おかえり」と言った。
セリカが馬を降りると、村人たちが一斉に頭を下げた。
彼女はうんざりした顔をした。
「やめろ。私は死んで帰ったわけではない」
鍛冶屋が笑った。
「村長、王都をひっくり返してきたって本当か」
「半分だけだ」
リュミナが荷台から飛び降りる。
「鍋は三つだ」
村人たちが一瞬静まり、それから笑いが広がった。
リュミナは真剣な顔で続ける。
「王命だ。大事に使え」
老婆が涙を拭いながら言った。
「はいはい、白竜様。今夜は肉を多めにしましょうね」
リュミナの表情が輝いた。
「よい村だ」
リオは最後に馬車を降りた。
村の入口の標柱が目に入る。
“リューネ村。竜の眠る地。”
その下には、以前の傷が残っている。
“王都の者を信じるな。”
リオはその文字を見つめた。
消すべきだろうか。
いや、すぐに消してはいけないのかもしれない。
それもまた、村が傷つけられた記憶だから。
セリカが隣に来た。
「気になるか」
「はい」
「残しておく」
リオは頷いた。
セリカは腰の短剣を抜き、標柱の下に新しい文字を刻み始めた。
村人たちが静かに見守る。
雪の中、刃が木を削る音が響いた。
やがて、新しい言葉が現れた。
“それでも、名を聞け。”
リオはその文字を見つめた。
王都の者を信じるな。
それでも、名を聞け。
完全な赦しではない。
無防備な信頼でもない。
だが、相手を名のある者として見る余地を残す言葉。
リューネ村らしい、厳しくて温かい言葉だった。
「いいですね」
リオが言うと、セリカは短剣をしまった。
「お前の香りほど曖昧ではない」
「褒めていますか」
「少しは」
ミナが村人たちに囲まれながら、こちらへ手を振る。
リュミナはすでに大鍋の設置場所を指示している。
ハルトは村の子どもたちに王都の話をせがまれ、困った顔で笑っている。
リオは深く息を吸った。
リューネ村の匂い。
雪。
薪。
薬草。
人。
竜。
帰る場所の匂い。
王都での仕事は残っている。
忘却の獣は祈りへ戻り始めたが、完全ではない。罪の回廊も、王家の裁きも、記憶調香師の役目も、これから始まる。エルヴィンも、アリアンヌも、グラントも、それぞれの痛みを背負って歩くことになる。
だが今は、村へ帰ってきた。
それを覚えておきたかった。
リオは小瓶を取り出し、リューネ村の入口の空気をそっと閉じ込めた。
雪解けと薪と、新しく刻まれた木の匂い。
瓶に名前をつけるなら、きっとこうだ。
“ただいま。”
その夜、リューネ村では大鍋が三つ並んだ。
肉は多めだった。
リュミナは満足し、ミナは歌い、セリカは村人に王都の報告をし、リオは鍋の湯気を何度も小瓶に移した。
村人たちは笑い、泣き、怒り、質問し、また食べた。
忘れないために。
そして、生きていくために。
雪の向こうで、王都の問題はまだ山のように残っている。
けれどリューネ村の夜には、確かに香りが満ちていた。
香りは残る。
それは呪いではなく、帰り道だった。




