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追放された宮廷調香師は、辺境の村で竜の眠りを解く――香りだけで呪いも戦争も終わらせます  作者: たむ


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第十三話 証言台に香りを置く

王城の大広間が、証言の場に変わった。


かつては舞踏会や祝宴が開かれた場所だった。高い天井には王国建国の天井画が描かれ、白竜と初代王が朝焼けの山脈を背に並んでいる。だが、その白竜の部分には後世になって塗り潰された跡があり、初代王の隣にいたはずのアルヴァンの騎士も、長い間、ただの従者として描き直されていた。


今、その絵の下に、王国の罪が集められていた。


罪の回廊から運び出された瓶。封竜具。魔狼の首輪。グラントの銀の指輪の残骸。ミナの発声封印の瓶。王妃エレオノーラの手紙。リューネ村で砕かれた黒い楔の欠片。第二王子エルヴィンが所持していた忘却石。


それらは赤い布をかけた長卓に並べられ、まるで処刑を待つ貴族たちのように沈黙していた。


大広間には人が集まっている。


王族、貴族、神官、騎士、官吏、宮廷魔術師、侍女、下級兵士、そして特別に呼ばれた王都の市民代表。リューネ村からは早馬で呼ばれた村の長老と、そばかすの少年も来ていた。少年は緊張で顔をこわばらせながらも、ミナを見つけると小さく手を振った。


ミナは少しだけ笑って、手を振り返した。


彼女の喉はまだ完全ではない。だが、今日、彼女は自分の声で証言する。


それだけで、リオは胸が詰まる思いだった。


広間の奥、玉座の前には国王が座っている。


まだ病み上がりの顔色だが、その背筋はまっすぐだった。隣にはアリアンヌ王女。黒い紋様を隠すための薄布はつけていない。顔の半分に残る忘却の痕を、彼女はそのまま晒していた。


その反対側には、拘束されたエルヴィン王子が立っていた。


王族用の礼服ではなく、簡素な黒い衣。手には銀の枷。だが彼は俯いていない。怒りも、憔悴も、後悔も、そのすべてを押し殺した顔で、証言台を見ている。


グラントもまた、罪人として別の場所に立っていた。


彼は逃げなかった。王城に戻るなり自ら拘束を申し出て、ミナの瓶を証拠として提出した。王室典礼官としての地位はすでに剥奪され、今はただのグラント・ローヴェルだった。


リュミナは人の姿でリオの隣に立っている。


白い髪を隠そうともしない。銀色の瞳で広間を眺め、時折、不満そうに鼻を鳴らす。


「人が多い」


彼女は小声で言った。


「大事な場ですから」


「食べ物の匂いが少ない」


「証言の場ですから」


「なぜ大事な場に食べ物がない」


「文化の違いです」


「人間の文化は改善が必要だ」


セリカが反対側から低く言う。


「黙っていろ。お前が白竜だと知って気絶しかけている貴族が三人いる」


「弱いな」


「否定はしない」


セリカは王都騎士の礼装ではなく、リューネ村長としての外套を着ていた。だが、腰には剣がある。右腕の呪いはまだ完全には消えていないが、リオの香油とリュミナの力で進行は止まっている。アルヴァンの血を持つ証人として、彼女も今日この場に立つ。


リオは証言台の前に置かれた香炉を見つめた。


王妃の菫を混ぜた薄い香が焚かれている。嘘を暴くものではない。そんな単純な香りでは、この場の複雑な真実には耐えられない。これは、記憶を定着させる香りだ。今日語られることを、集まった者たちが忘れにくくするためのもの。


忘却に抗う証言には、香りが必要だった。


「始める」


国王の声が広間に響いた。


ざわめきが消える。


「本日、この場で語られることは、王家の恥であり、王国の罪であり、また、我々が忘れてはならぬ記憶である。都合の悪い部分だけを隠すことは許さぬ。王族も、貴族も、官吏も、騎士も、民も、等しく聞け」


国王は一度、アリアンヌを見る。


それからエルヴィンへ。


最後にリオたちへ視線を向けた。


「最初の証人、リオ・クラウゼン」


広間の視線が一斉にリオへ集まった。


追放された宮廷調香師。


数日前まで、無能と呼ばれ、辺境へ送られた男。


その彼が、王国の中枢で証言台に立つ。


リオは息を吸った。


鉄。


香水。


緊張。


疑念。


恐怖。


嘲笑の残り香。


王都の貴族たちは、まだ彼を信用していない。香りを証拠とすること自体を、胡散臭い魔術か、辺境の迷信だと思っている者もいる。


それでいい、とリオは思った。


最初から信じられる必要はない。


香りは押しつけるものではない。届くものだ。


彼は証言台へ進んだ。


「リオ・クラウゼン。元宮廷調香師です」


一部の貴族たちが小さくざわめく。


“元”という言葉に反応したのだろう。


国王が静かに言った。


「追放処分は取り消す。だが、本人の望みにより宮廷への復職は保留とする」


さらにざわめきが広がった。


リオは思わず国王を見た。


望みにより。


まだ何も答えていなかったが、国王は先に逃げ道を作ってくれたのだ。王都に縛り戻されないように。


リオは深く頭を下げた。


「ありがとうございます」


それから、広間へ向き直る。


彼は話し始めた。


追放の日のこと。


第二王子エルヴィンの指輪から眠り草と黒鉄の匂いがしたこと。


リューネ村で魔狼を眠らせたこと。


魔狼の首輪に宮廷式の支配魔道具が使われていたこと。


白竜リュミナが眠らされ、楔によって怒りだけを残されようとしていたこと。


ミナの声を奪った呪い。


グラントの関与。


王妃のハンカチに残された導き。


旧街道、石橋、名を捨てた騎士、地下水路、王妃の手紙、罪の回廊、忘却の獣、アリアンヌ王女の苦しみ、そして霊廟での再契約。


語るごとに、広間の匂いが変わっていった。


最初は疑いが強かった。


やがて、困惑。


次に恐怖。


そして、否定したいという強い匂い。


当然だろう。


王国の歴史が、王家の栄光が、今まで教えられてきた白竜の災厄が、すべて違っていたかもしれないと言われているのだ。


ある貴族が立ち上がった。


「香りだの記憶だの、証拠になるものか! その男は調香術で我々を惑わせているだけではないか!」


同調する声がいくつか上がる。


リオは反論しようとしたが、国王が手を上げた。


「では、物証を見るがよい」


合図を受け、ハルトが魔狼の首輪を掲げた。


宮廷魔術師団の老魔術師が進み出て、それを検分する。彼は厳しい顔で刻印を読み、やがて青ざめた。


「……宮廷式です。しかも王族権限の印がある」


広間が揺れた。


次に封竜具。


黒い鎖。


楔の欠片。


忘却石。


宮廷魔術師たち、神官たち、文書官たちが順に確認していく。否定したかった者たちの匂いが、一つずつ崩れていく。


リオは最後に、ミナの瓶を示した。


「これは、薬草師ミナ・リュースの声を奪った呪いを封じた罪の瓶です」


ミナが証言台へ進んだ。


広間の視線が、辺境の少女へ向く。


彼女の手は震えていた。


リオは小声で言った。


「大丈夫です」


ミナは頷いた。


そして、自分の声で名乗った。


「ミナ・リュース。リューネ村の薬草師です」


声は大きくはなかった。


だが、大広間の奥まで届いた。


「私は去年の初雪の日、王都の使者が竜祠で眠り草の瓶を取り替えているのを見ました。その人は、王室典礼官グラント・ローヴェルでした。私は叫ぼうとして、声を奪われました」


グラントが目を閉じる。


ミナは続ける。


「私は一年以上、話せませんでした。助けを呼べませんでした。怒ることも、礼を言うことも、歌うこともできませんでした。リオさんとリュミナ様が、声を戻してくれました」


彼女は瓶を見た。


「この瓶には、私の声を奪われた時の記憶が入っています。私は、それを忘れません。グラントさんにも、忘れさせません」


広間は静まり返っていた。


誰も、辺境の娘と軽んじることができなかった。


ミナの声には、奪われたものを取り戻した者だけが持つ強さがあった。


次にグラントが証言台へ立った。


彼は深く頭を下げた。


「グラント・ローヴェル。元王室典礼官です。私は、ここに並ぶ罪の多くに関与しました」


その一言で、広間がまたざわめく。


グラントは逃げなかった。


王妃の周囲を監視していたこと。


リューネ村の竜祠へ封竜具を置いたこと。


眠り草の瓶を増やし、白竜の眠りを深めたこと。


ミナの声を奪ったこと。


魔狼の支配魔道具を運用したこと。


第二王子エルヴィンの命を受けたこと。


そして、自身が忘却の獣に妻と娘の記憶を差し出し、その空白を利用されていたこと。


彼の証言は、淡々としていた。


時折、声が震えた。


だが、言い訳はしなかった。


最後に彼は言った。


「私は忘れて楽になろうとしました。その結果、他者の声を奪い、村を危険に晒し、王国の嘘に加担しました。私の罪は裁かれるべきです。ただ、どうか、私がしたことを記録してください。忘却へ戻さないでください」


国王は深く頷いた。


「記録する」


次にセリカが立った。


「セリカ・アルヴァン。リューネ村村長。元王都騎士」


彼女は三年前の討伐隊の真実を語った。


白竜は暴走していなかったこと。


討伐命令は虚偽だったこと。


隊長が楔に触れ、呪いが逆流して隊が壊滅したこと。


セリカは白竜を殺さず、村に残ったこと。


そのために王都から裏切り者として扱われたこと。


「私は、王都騎士としての命令に背いた」


セリカは広間へ言った。


「だが、騎士としての誓いには背いていない。眠る竜を殺すことが誓いなら、そんなものは誓いではない」


騎士団の席で何人かが顔を伏せた。


怒りではない。


恥の匂いだった。


最後に、リュミナが証言台へ立った。


その瞬間、広間の全員が息を呑んだ。


少女の姿をしていても、彼女の周囲には白竜の気配がある。銀の瞳、白い髪、そして人ではない長い記憶の重み。


「私はリュミナ」


声は静かだった。


だが、天井画の白竜が震えたように見えた。


「リューネの谷の守り手。初代王と契約した竜」


多くの者が膝をつきかけた。


リュミナはそれを不思議そうに見て、続けた。


「私は人間を守ると約束した。人間は谷を守ると約束した。だが王家は約束を忘れ、私の記憶を削り、怒りだけを残そうとした」


彼女はアリアンヌと国王を見た。


「だが、すべての人間が忘れたわけではなかった。リナという少女が花冠をくれた。王妃が香りを残した。セリカが私を殺さなかった。リオが私の名を呼んだ。ミナが歌った。グラントは罪を持った。王女は戻った。王は目覚めた」


リュミナは広間全体を見渡した。


「だから私は、もう一度だけ人間を信じる」


その言葉に、広間の空気が震えた。


だが次の瞬間、リュミナは付け加えた。


「ただし、リューネ村の鍋は大きくしろ」


沈黙。


セリカが顔を覆った。


リオは咳で笑いを隠した。


国王は一瞬ぽかんとし、それから静かに頷いた。


「王命として、リューネ村へ大鍋を送る」


リュミナは満足そうに頷いた。


「よい王だ」


張り詰めていた広間に、小さな笑いが漏れた。


それは場違いな笑いだった。


だが、必要な笑いだった。


恐怖と罪だけでは、人は耐えられない。痛みを記録する場にも、湯気や食事や少しの滑稽さがなければ、記憶はまた獣になる。


最後に、アリアンヌ王女が立った。


広間は再び静まった。


彼女の顔の黒紋を、誰もが見ている。


王女はゆっくりと証言台へ進んだ。


「アリアンヌ・リュゼ・ヴァルクス。王女です」


声は弱かった。


だが、逃げてはいなかった。


「私は幼い頃から霊廟の封印に関わっていました。王家の命により、忘却の獣の声を聞かされ、封印を保つ器として使われました。私は長く、自分が犠牲者だと思っていました。実際、そうでもありました」


広間の誰もが息を詰める。


「けれど私は、そこから逃げるために、他者の記憶を奪おうとしました。苦しみを消せば救えると信じ、王都全体を忘却へ沈めようとした。多くの者を傷つけました」


国王が目を伏せる。


エルヴィンが唇を噛む。


アリアンヌは続けた。


「私は裁かれるべきです。ただし、私だけではありません。私を封印へ使った王家、神官、記録官、沈黙した者たち、そして忘却に罪を預けてきた王国そのものが、裁きを受けなければなりません」


貴族たちの間に緊張が走る。


王女は静かに言った。


「忘れることは、優しさに見える時があります。でも、戻る道を奪う忘却は救いではありません。私はそれを、リオ・クラウゼンと、その仲間たちに教えられました」


彼女はリオを見る。


リオは黙って頭を下げた。


アリアンヌは最後に、震える声で言った。


「母上の菫の香りを、私は忘れていました。でも、残っていました。だから私は、戻れました。これからは、奪ったものを記録し、返せるものは返し、返せないものは名を呼びます」


彼女は深く頭を下げた。


王女が、大広間で民に頭を下げる。


その光景に、誰も言葉を発しなかった。


次に国王が立った。


「王として、そして父として、私の罪を認める」


広間の空気が固まる。


「私は王家の仕組みを知りながら、変えることができなかった。娘を救えず、息子を止められず、妻の警告を十分に聞けず、国を眠らせた。すべてを忘却へ預けることでしか封印を維持できぬと思い込んだ」


国王は自らの王冠を外した。


広間に衝撃が走る。


「本日より、忘却の獣に関わる王家の機密は全て開示する。罪の回廊は封鎖せず、記録院と民会の監督下に置く。リューネ村への流刑地扱いを撤回し、白竜リュミナとの古き契約を復元する。アルヴァン家の名誉を回復する」


セリカの肩が小さく震えた。


「また、第二王子エルヴィン、王女アリアンヌ、元典礼官グラント、その他関係者は、王族特権によらず、公開の審理にかける」


広間にざわめきが広がる。


王女を裁く。


王子を裁く。


国王自身の責任も記録する。


それは王国史上、前代未聞のことだった。


国王は続けた。


「私は退位しない。今退くことは、責任から逃げることだ。だが、王権の監視機構を設ける。王が忘れたい罪を、王だけで消せぬようにする」


沈黙。


それから、誰かが膝をついた。


メリッサ侍女長だった。


彼女は深く頭を下げた。


次にハルト。


ミナの村の長老。


一人、また一人と膝をつく。


だが全員ではない。


貴族の中には顔を青ざめさせ、怒りを滲ませる者もいた。忘却によって隠してきた罪があるのだろう。彼らにとって、この改革は脅威だった。


リオはその匂いを感じ取った。


終わっていない。


むしろ、ここから反発が始まる。


忘れたい者たちは、忘れさせてくれる力を失っても、別の方法で記憶を葬ろうとするだろう。


証言のあと、広間は混乱した。


神官たちは霊廟の扱いを巡って言い争い、貴族たちは記録公開の範囲を巡って即座に派閥を作り始めた。騎士団は白竜への対応で揉め、宮廷魔術師団は封竜具の責任を誰が負うかで顔を青くしている。


リオは証言台を降り、壁際へ下がった。


急に疲れが襲ってきた。


身体の奥から力が抜ける。ここ数日、ほとんど休んでいない。強い香りを使いすぎ、記憶に触れすぎ、霊廟で母の死の香りまで開いた。立っているのがやっとだった。


「倒れる前の顔だな」


セリカが隣に来た。


「まだ倒れていません」


「倒れてからでは遅い」


「説得力がありますね」


「私は倒れる前に殴って寝かせることもできる」


「遠慮します」


ミナが心配そうに近づいてきた。


「リオさん、薬湯を作ります。喉と鼻に効くものを」


「ありがとうございます」


リュミナが言った。


「肉も必要だ」


「鼻に?」


「全身に」


セリカがため息をつく。


「お前は黙っていろ」


「私は正しい」


そのやり取りに、リオは笑ってしまった。


笑うと、胸の奥が少し痛んだ。


けれど悪い痛みではなかった。


その時、エルヴィン王子が近衛に連れられて通りかかった。


彼はリオの前で足を止めた。


近衛たちが警戒する。


リオも静かに彼を見る。


「リオ・クラウゼン」


エルヴィンの声は低かった。


「はい」


「私は君を無能と呼んだ」


「覚えています」


「忘れろとは言わない」


王子は少し笑った。


苦い笑みだった。


「言えないな、今さら」


リオは答えなかった。


エルヴィンは続ける。


「君の香りは、姉上を戻した。父上も、白竜も、王都も。だが、私には腹立たしい」


「でしょうね」


「私は、君に感謝すべきなのか、憎むべきなのか、まだ決められない」


「決めなくていいと思います」


エルヴィンが眉を動かす。


リオは静かに言った。


「どちらも残せばいいです。感謝も、憎しみも、後悔も。消さずに持っていれば、いつか別の形になるかもしれません」


「綺麗事だ」


「はい」


「君はそれを自覚して言うから、腹が立つ」


「よく言われます」


エルヴィンはリュミナをちらりと見た。


白竜の少女は腕を組んで王子を睨んでいる。


「噛まないのか」


王子が言った。


リュミナは鼻を鳴らす。


「今は腹が減っている。まずいものは噛まない」


「私はまずそうか」


「嘘と後悔と王族の匂いがする。消化に悪い」


エルヴィンは一瞬ぽかんとし、それから本当に小さく笑った。


近衛に促され、彼は歩き出す。


去り際に、振り返らずに言った。


「リオ。姉上を、頼む」


リオは答えるまで少し時間がかかった。


「できる範囲で」


「そこは力強く頷け」


「王族の頼みは重いので」


エルヴィンはもう振り返らなかった。


だが、その背中から、ほんのわずかに幼い王子の芝生の匂いがした。


証言が終わった日の夕方。


リオは王妃の私室を訪れた。


部屋にはメリッサ侍女長がいた。彼女は窓辺に菫を飾り、古い薬草茶を淹れていた。


「お疲れでございましょう」


「少し」


「少し、という顔ではございません」


リオは苦笑した。


「みなさんに同じことを言われます」


「皆様が正しいのでございます」


メリッサは茶を差し出した。


湯気から菫と蜂蜜の香りが立ち上る。


王妃の部屋の匂い。


リオは椅子に座り、茶を受け取った。


窓の外では、王都の夕暮れが広がっている。城下ではもう噂が走り始めているだろう。国王が目覚めた。王女が戻った。第二王子が拘束された。白竜が実在した。忘却の獣。罪の回廊。追放された調香師。


噂は真実より速く、香りよりも乱暴に広がる。


これから多くの誤解が生まれるだろう。


それでも、記録は始まった。


「王妃様は」


リオは茶を見つめながら言った。


「僕を利用していたと手紙に書いていました」


メリッサは静かに頷く。


「はい」


「それを、あなたも知っていましたか」


「一部は」


「なぜ、僕だったのでしょう」


メリッサは少し考えた。


「王妃様は、あなた様の香りを初めて嗅いだ日に仰いました。“この子は、悲しみを急いで消そうとしない”と」


リオは目を伏せた。


「僕は、母の死から逃げていただけです」


「逃げていたからこそ、逃げる者の道を塞がなかったのではございませんか」


リオは答えられなかった。


メリッサは窓辺の菫を整える。


「王妃様は万能ではございませんでした。間違いもなさいました。王女殿下を救えず、陛下を止めきれず、あなた様に重すぎるものを託しました」


彼女の声が少しだけ震えた。


「それでも、最後まで帰り道を残そうとなさいました」


リオは茶を一口飲んだ。


温かい。


苦く、甘く、少し懐かしい。


「僕は、宮廷に戻るべきでしょうか」


自分でも意外な問いだった。


メリッサはすぐには答えなかった。


やがて、静かに言う。


「王都には、あなた様の力が必要でございます」


リオは顔を上げる。


「ですが」


メリッサは微笑んだ。


「あなた様ご自身が、王都に必要とされるためだけに生きる必要はございません。王妃様なら、そう仰るでしょう」


その言葉に、リオは胸の奥が緩むのを感じた。


王都には仕事がある。


罪の香りを記録し直す仕事。


忘却の影響を受けた人々を戻す仕事。


霊廟の黒い泉を祈りへ変える仕事。


だが、リューネ村にも帰る場所がある。


スープと雪と薬草と、やたら肉を要求する白竜のいる場所。


どちらか一つを選ばなければならないと思っていた。


しかし、もしかすると違うのかもしれない。


香りは一つの瓶に閉じ込めるだけではない。


風に乗せ、行き来させ、別々の場所を結ぶこともできる。


夜になって、王城の中庭で小さな食事会が開かれた。


祝宴ではない。


祝いと呼ぶには、まだ失われたものが多すぎる。


だが、証言を終えた者たちが温かいものを食べる場は必要だと、ミナが言った。リュミナは全面的に賛成した。セリカはため息をつきながらも手配し、メリッサは厨房を動かした。


大鍋が運ばれてきた。


リュミナのため、という名目で、本当に大きな鍋だった。


中には肉と根菜と豆、王都の香辛料、リューネ村から持ってきた薬草が入っている。湯気は中庭いっぱいに広がり、兵士も侍女も村人も王族も、同じ匂いを嗅いだ。


リュミナは椀を抱えて満足そうに言った。


「王都にも学習能力がある」


セリカが言う。


「お前のせいで王命より鍋の手配が早かったぞ」


「よいことだ」


ミナは笑いながらスープを配っている。声を出しすぎないようリオが注意すると、彼女は「今日は話したい日なんです」と言った。リオはそれ以上止めなかった。


グラントは離れた席で、監視付きのまま椀を受け取っていた。ミナが自ら彼にスープを渡した時、彼は深く頭を下げた。彼女は「熱いので気をつけてください」とだけ言った。


赦しではない。


だが、言葉は渡された。


アリアンヌは国王と並んで座っていた。最初は食事に手をつけられなかったが、リュミナが無言で肉を一切れ差し出すと、困惑しながら受け取った。


「これは?」


「生きるためのものだ」


リュミナは真剣に言った。


「泣いた後は食べる」


アリアンヌは肉を見つめ、やがて小さく口に運んだ。


そして、泣きそうな顔で笑った。


「温かい」


「そうだ」


リュミナは満足げに頷く。


「覚えておけ」


リオはその光景を見ていた。


王女が温かい食事を覚える。


それは王国の改革より小さな出来事かもしれない。


だが、忘却に抗うには、こういう記憶こそが必要なのだと思った。


セリカがリオの隣に座った。


「明日、リューネ村へ一度戻る」


「はい」


「王都はしばらく荒れる。だが陛下とメリッサ、ハルトたちがいる。グラントも証言する。お前は少し休め」


「セリカは?」


「村長だから帰る。王都の連中が村へ謝罪に来る前に、村を整えておかねばならん」


「謝罪を受ける準備ですか」


「いや、押しかけてくる役人を追い返す準備だ」


「なるほど」


セリカはスープを飲み、少し黙った。


「リオ」


「はい」


「お前も来るだろう」


問いではなかった。


確認だった。


リオは中庭の湯気を見た。


王都の夜空。


白薔薇。


菫。


罪の瓶。


忙しくなるであろう宮廷。


それから、リューネ村の雪。


村の入口の標柱。


“王都の者を信じるな”と刻まれた傷。


あの傷も、いつか別の言葉に彫り直せるだろうか。


リオは微笑んだ。


「帰ります」


セリカは短く頷いた。


「よし」


リュミナが遠くから叫ぶ。


「リオ! この香りを瓶に入れろ! 帰ってから再現する!」


「今ですか?」


「今だ。記憶は逃げる」


リオは立ち上がり、鞄を取りに行こうとした。


ミナが笑う。


セリカが呆れる。


アリアンヌが不思議そうに見ている。


国王が静かにスープを飲んでいる。


グラントが湯気の向こうで、エリスとリリアの名を小さく呟いている。


王都の夜には、まだ嘘の匂いも罪の匂いも残っている。


けれど、大鍋の湯気がそれらを少しだけ和らげていた。


香りは残る。


罪も、痛みも、愛も、食事も。


残るものをどう扱うかで、人は獣にも、祈りにもなる。


リオは小瓶を開け、中庭の湯気をそっと閉じ込めた。


それは王国が忘却から戻った夜の香りだった。

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