第十二話 王都の朝は、まだ嘘の匂いがした
霊廟から地上へ戻る道は、来た時よりも長く感じられた。
第一扉、罪の回廊、第二扉、母の台所に似た第三扉。どれも通ったはずの道だった。だが、帰り道では匂いが変わっていた。罪の瓶は相変わらず重く、回廊には血と墨と焦げた紙の匂いが満ちている。それでも、その奥にかすかな風が通っていた。
閉じ込められたものが、完全に腐る前に誰かの目に触れた。
ただそれだけで、場所は変わるのだとリオは思った。
アリアンヌ王女は、国王の傍らを歩いていた。
いや、正確には歩いているというより、支えられていた。霊廟で忘却の獣から引き剥がされた彼女の身体はひどく弱っている。黒い紋様は顔の半分から首元まで残り、時折そこから無臭の冷気が漏れる。そのたびにリオは王妃の菫と白薔薇の香りを薄く焚き、彼女の意識をこちら側へ繋ぎ止めた。
国王もまた、老いた身体を震わせながら歩いている。
長い眠りの後だ。足取りは危うく、声もかすれていた。だが、その目には濁りがなかった。謁見の間でリオが最後に見た、眠り草に覆われた空虚な目ではない。疲れ果て、悔いに沈み、それでも目覚めた者の目だった。
「陛下、少し休まれては」
グラントが言うと、国王は首を横に振った。
「休みすぎた」
その一言で、グラントは何も言えなくなった。
リオは国王から漂う香りを読んでいた。
王冠の重さ。古い羊皮紙。娘の髪を撫でた手。王妃の菫。霊廟の石。長い眠り。国を守るという名で、いくつものものを見落としてきた後悔。
そして、エルヴィン王子への愛もあった。
歪んでいない、父親の愛。
それがあるからこそ、これから起こることは残酷になる。
アリアンヌを封印に使い、忘却の獣を利用しようとした者たち。グラント。神官。近衛。王室の記録官。第二王子エルヴィン。
だがエルヴィンもまた、姉を救いたかったのかもしれない。救いたいという願いが、支配欲と恐怖に変わった。王家の悲劇は、誰か一人を悪と呼べば終わるほど単純ではなかった。
だからこそ、厄介だった。
地下水路へ戻ると、ハルトたちが待っていた。
廃礼拝堂で倒した名を捨てた騎士たちは、全員拘束されていた。六人のうち三人はわずかに自我を取り戻し、残る三人はまだ空ろな目をしている。ハルトは王都兵としての姿勢を保っていたが、霊廟から国王本人が現れた瞬間、さすがに膝をついた。
「陛下……」
その声は震えていた。
他の兵士たちも慌てて膝をつく。
国王は彼らを見た。
「名は」
ハルトは顔を上げた。
「ハルト・レイスです。南部徴兵隊所属、現在は……」
彼は一瞬迷い、セリカを見た。
セリカは何も言わなかった。
ハルトは続けた。
「現在は、証人です」
国王は深く頷いた。
「覚えておこう」
それだけの言葉に、ハルトの目が潤んだ。
王に名を覚えられる。
昔なら、それは栄誉だったのだろう。今はもっと切実な意味を持っていた。忘却に抗うため、名を呼ばれること。自分が存在したと認められること。
リオはその光景を胸に刻んだ。
名を覚える王。
王国が本来持つべき香りは、そこにあるのかもしれない。
廃礼拝堂の外へ出ると、朝だった。
地上の朝。
雪をかぶった丘の向こうに、王都の城壁が見える。尖塔は朝靄に沈み、遠くから鐘の音が聞こえた。いつもの王都の朝なら、そこにはパン屋の煙、市場へ急ぐ馬車、兵士の訓練場の汗、貴族街の香水、下町の汚水と酒の匂いが混じっているはずだった。
だが、今朝の王都は違った。
匂いが薄い。
完全に消えたわけではない。しかし人々の生活の香りが、どこかぼんやりしている。霊廟の封印が弱まっていた影響は、すでに地上へ漏れていたのだ。
ミナが不安そうに城壁を見つめる。
「王都の人たちは、大丈夫でしょうか」
「今すぐ全員が忘れるわけではありません」
リオは答えた。
「でも、長く放っておけば危険でした」
リュミナが鼻をひくつかせる。
「街が寝ぼけている」
「僕の昔の香りみたいですね」
「お前の失敗作より悪い」
「なかなか厳しい評価です」
セリカは王都を見たまま言った。
「問題は、城内だ。エルヴィンは国王と王女が戻ったと知れば、どう動く」
グラントの顔が強張る。
「殿下は、表向きには摂政代理として政務を執っています。王城内の近衛の一部、宮廷魔術師団の若手、財務官の数名は彼の側にいるはずです」
「国王本人が戻っても従わないのか」
「従う者もいます。しかし、陛下が本当に陛下か疑わせることはできる。忘却の影響、竜の幻術、王女による精神汚染。理由はいくらでも作れるでしょう」
ハルトが息を呑む。
「そんな馬鹿な」
グラントは苦く笑った。
「王都では、真実より先に文書と印章が走ります。広間で誰かが“偽物だ”と叫べば、それを利用する者は必ずいる」
国王は静かに言った。
「エルヴィンを責める前に、私が臣下の前へ出ねばならぬ」
アリアンヌが父を見る。
「父上」
「お前を封印にしてきた罪は、王家の罪だ。私の罪だ。民の前にすべてを晒すには時間がかかる。だが、まず城内の嘘を止めねばならない」
セリカが問う。
「正面から入るおつもりですか」
「王が王城へ戻るのに、裏口を使う必要があるか」
その言葉には王の威厳があった。
だが、リオはすぐに言った。
「あります」
全員が彼を見る。
リオは咳払いした。
「すみません。ですが、今の王城は第二王子派が押さえています。正門から入れば、陛下を守りながら混乱の中心へ突っ込むことになります」
セリカが頷く。
「調香師にしてはまともだ」
「普段はどう思われているのですか」
「危険な瓶を持って雪原を走る男」
「反論が難しいですね」
グラントが口を開いた。
「王妃の私室へ繋がる古い通路があります。今は封鎖されているはずですが、典礼官の鍵で開けられるかもしれません。そこから王城内部へ入り、まず王妃付きの古参侍女長に接触するのがよいでしょう」
「侍女長?」
リオは聞き返した。
「メリッサ・オルド。王妃エレオノーラに最後まで仕えた女性です。表向きは病を理由に引退したことになっていますが、おそらく城内に軟禁されています。彼女は王妃の手紙や香りのことを知っていた可能性が高い」
リオの胸が動いた。
王妃の側に、まだ残っている者がいる。
香りは残る。
人も、残っている。
「その通路へ行きましょう」
セリカが判断した。
「陛下と王女を正門に晒すのは危険だ。城内に味方を作ってから動く」
国王はリオたちを見渡し、短く頷いた。
「従おう」
王が、追放された調香師と辺境の村長と白竜の少女の判断に従う。
それは異様な光景だった。
だが、今の王国にはその異様さこそ必要なのかもしれなかった。
一行は王都の外壁に沿って移動した。
廃礼拝堂から北側の貯水塔跡へ向かい、そこから古い排水門を抜ける。グラントが血印と典礼官の鍵で封鎖を解くと、石壁の一部が動き、細い通路が現れた。
その先には、王妃の私室へ続く隠し階段があった。
リオは階段に足を踏み入れた瞬間、懐かしい香りを嗅いだ。
薄紫の刺繍糸。
菫。
薬草茶。
古い本。
王妃エレオノーラの部屋の香り。
だが、その上に埃と封印香が積もっている。長く誰も通っていないのだろう。
階段を上りながら、リオは思い出していた。
王妃が初めて彼を呼んだ日のこと。まだ見習いにすぎなかった彼が、緊張で香瓶を落としかけたこと。王妃は笑って、「割れても香りは残るから大丈夫」と言った。
あの言葉も、今思えばただの慰めではなかったのだ。
彼女はずっと、残るものを信じていた。
階段の先には、古い壁掛けの裏へ出る仕掛け扉があった。
グラントが鍵を差し込み、慎重に回す。
かちり。
壁掛けがわずかに開いた。
外から声が聞こえる。
女性の声。
「……だから申し上げております。王妃様の私室は、王女殿下の許可なく開けられません」
別の男の声が返す。
「王女殿下は現在静養中だ。第二王子殿下の命令がある。部屋を改める」
リオは息を止めた。
王妃の私室に、誰かがいる。
グラントが小声で言った。
「メリッサ侍女長です」
セリカが剣に手をかける。
「相手は?」
「声からして、宮廷記録官のヴァルツ。エルヴィン殿下に近い男です」
リュミナが不満そうに囁いた。
「噛むか」
「まだです」
「いつもまだだ」
「噛まない展開もあります」
「退屈だ」
壁掛けの隙間から、リオは室内を見た。
王妃の私室。
懐かしい部屋だった。大きな窓、薬草棚、書机、薄紫のカーテン。だが家具の多くには白い布がかけられ、花瓶は空だった。空気は止まっている。
その部屋の中央に、白髪の老女が立っていた。
背筋は伸び、黒い侍女服を隙なく着こなしている。年齢を感じさせる皺はあるが、目は鋭い。彼女がメリッサ侍女長だろう。
向かいには痩せた中年男と、二人の衛兵。
男は書類を手にしている。
「エレオノーラ王妃の遺品には、国家機密が含まれている疑いがある。速やかに引き渡せ」
メリッサは微動だにしない。
「王妃様の遺品は、王妃様の御心に従い保管しております」
「死者の心など、法的効力を持たない」
「生きている者の浅知恵よりは、よほど重うございます」
ヴァルツの顔が赤くなる。
「侍女風情が」
「侍女風情でございますので、主の部屋を荒らす野犬を追い払う程度のことしかできません」
リオは思わず感心した。
セリカが小声で言う。
「いい性格だ」
「あなたと気が合いそうですね」
「どういう意味だ」
室内では、ヴァルツが衛兵に合図した。
「拘束しろ」
衛兵がメリッサへ近づく。
その瞬間、国王が壁掛けを押し開けた。
室内の全員が凍りついた。
長い眠りから目覚めた国王が、埃まみれの隠し扉から現れたのだ。普通なら滑稽な登場かもしれない。だが、国王の目に宿るものが、その場の空気を一変させた。
「誰を拘束するというのだ、ヴァルツ」
ヴァルツは口を開けたまま固まった。
「へ、陛下……?」
メリッサ侍女長は一瞬だけ目を見開いた。
だがすぐに膝をつき、深く頭を下げる。
「お帰りなさいませ、陛下」
その声は震えていた。
けれど、長く待っていた者の声だった。
国王の背後からアリアンヌが現れると、メリッサはさらに息を呑んだ。
「王女殿下……」
アリアンヌは老侍女を見た。
その顔に、初めて少女のような戸惑いが浮かぶ。
「メリッサ……まだ、ここに」
「もちろんでございます」
メリッサは顔を上げた。
「王妃様より、この部屋と、あなた様の帰り道を守るよう命じられておりましたので」
アリアンヌの瞳が揺れた。
「帰り道……」
メリッサは静かに頷く。
「はい。どれほど遠くへ迷われても、戻られた時に菫の香りが残っているように、と」
王女は唇を震わせた。
リオはその瞬間、部屋の奥から菫の香りがふわりと立ち上るのを感じた。
メリッサはずっと焚いていたのだ。
王妃の香りを。
王女が戻るために。
ヴァルツが我に返った。
「こ、これは……幻術だ! 陛下は病床におられる! 王女殿下も静養中のはず!」
セリカが隠し扉から出て、剣を抜いた。
「その幻術に斬られてみるか」
ヴァルツは後ずさる。
リュミナもぴょんと室内へ降り立った。
「私も噛める」
ヴァルツの顔がさらに青くなる。
「な、何だこの子どもは」
「子どもではない」
「では何だ」
「空腹の竜だ」
メリッサ侍女長の目がほんの少しだけ動いた。
普通なら驚くところだが、彼女は一礼した。
「白竜リュミナ様でございますね。王妃様より伺っております」
リュミナは満足そうに頷いた。
「礼儀がある人間だ」
セリカが小声で言った。
「肉を要求するなよ」
「今は我慢する」
ヴァルツは衛兵へ叫んだ。
「何をしている、捕らえろ!」
だが衛兵たちは動かなかった。
彼らは国王を見ていた。
眠っているはずの王。
その隣に立つ王女。
そして王妃の私室で膝をつく侍女長。
どれが真実なのか、彼らの頭は迷っている。だが、少なくとも剣を向けてよい場面ではないと感じているのだ。
リオは前に出た。
「ヴァルツ記録官」
男がリオを見る。
「お前は……追放された調香師」
「はい。追放されました」
「なぜここにいる!」
「香りを辿って戻りました」
「意味のわからぬことを」
「では、わかりやすく」
リオは小瓶を取り出した。
それは罪の回廊から持ってきた一本だった。
“王妃私室記録改竄。宮廷記録官ヴァルツ。”
グラントが回廊を通る際、リオに無言で示した瓶である。時間がなく開けてはいなかったが、持ち出していた。
ヴァルツの顔から血の気が引いた。
「それを、どこで」
「罪の回廊です」
国王が男を見る。
「ヴァルツ」
その声だけで、記録官は膝をついた。
「ち、違います、陛下。私は命令に従っただけで」
「誰の命令だ」
ヴァルツは口を閉ざした。
セリカが剣先を床へ軽く打つ。
「第二王子か」
ヴァルツは汗を流す。
沈黙は、ほとんど答えだった。
その時、王妃の私室の扉の外が騒がしくなった。
足音。
鎧の音。
誰かが叫ぶ。
「中から声がしたぞ!」
「記録官殿!」
「扉を開けろ!」
メリッサがすっと立ち上がった。
「陛下、王女殿下。奥の控え室へ。私が」
国王は首を振る。
「いや。もう隠れぬ」
「しかし」
「長く隠しすぎた」
王は部屋の中央へ進んだ。
セリカがその横に立つ。
リュミナは王女のそばに。
ミナは薬草籠を抱えながら、メリッサの近くへ。
グラントは罪の瓶を胸に、壁際で深く息を吸った。
リオは王妃の菫の香りを焚いた。
部屋いっぱいに、優しい紫の香りが広がる。
それは王妃の部屋の記憶を呼び覚ます香りだった。
ここで王妃が誰を迎え、何を考え、何を守ろうとしたのか。壁も、机も、カーテンも、棚の薬草も、すべてが静かに語り始める。
扉が開かれた。
近衛兵がなだれ込む。
その中央に、金髪の青年が立っていた。
整った顔。
冷たい瞳。
第二王子エルヴィン。
リオが追放の日に謁見の間で見た笑みと同じものを、彼は唇に浮かべていた。
だがその笑みは、国王とアリアンヌを見た瞬間、わずかに崩れた。
「父上」
次に、王女へ。
「姉上」
アリアンヌは弟を見た。
その瞳には、深い疲労と悲しみがあった。
「エルヴィン」
王子はすぐに表情を整えた。
「これは驚きました。病床の父上と静養中の姉上が、追放者と辺境の反逆者を連れて王妃の私室に現れるとは」
セリカが低く言う。
「よく口が回る」
エルヴィンは彼女を見た。
「セリカ・アルヴァン。三年前の竜討伐を妨害し、辺境で王都の命令を拒み続けた女」
「おかげで白竜は生きている」
「それが問題なのだ」
リュミナが一歩前へ出る。
「私に用か、小さい王子」
エルヴィンの目が鋭くなる。
「白竜……本当に、人の姿に」
「腹も減る」
「黙れ、怪物」
部屋の空気が冷えた。
リュミナの銀の瞳が細くなる。
リオが彼女の袖をそっと掴んだ。
「まだです」
リュミナは小声で言う。
「今度こそ噛んでもいい場面ではないか」
「気持ちはわかります」
「なら」
「でもまだです」
セリカが微妙な顔で二人を見た。
エルヴィンはリオへ視線を移した。
「リオ・クラウゼン。やはり君を辺境へ送ったのは失敗だった。凍えて死ぬか、村人に殺されると思っていたのだが」
「残念ながら、温かいスープをいただきました」
「くだらない」
「僕には大事でした」
エルヴィンの笑みが消える。
「父上、姉上。その者たちから離れてください。白竜と調香師による精神干渉の可能性があります。近衛、二人を保護しろ」
近衛兵たちが動きかける。
だが国王が一言発した。
「動くな」
その声は弱かった。
しかし王の声だった。
兵士たちは止まった。
エルヴィンの眉が動く。
「父上。あなたはまだ霊廟の影響下にあります」
「影響下にあるのは、お前だ。エルヴィン」
「私は王国を守るために」
「姉を救うために、何をした」
エルヴィンの顔から感情が消えた。
アリアンヌがかすかに震える。
「エルヴィン……」
王子は姉を見た。
その目に、一瞬だけ少年の影が戻った。
「姉上。私はあなたを解放したかった」
「知っている」
「誰も助けなかった。父上も、母上も、神官も、全員があなたを封印にした。私は見ていた。扉の外で、あなたの泣き声を聞いていた」
アリアンヌの目から涙がこぼれる。
「エルヴィン」
「だから私は力を得ようとした。忘却の獣を支配できれば、あなたを縛った王国を作り替えられる。誰もあなたを犠牲にできない国に」
国王が苦しげに言う。
「そのために白竜を兵器にしようとしたのか」
「王国を守る力が必要だった!」
エルヴィンの声が初めて荒れた。
「優しさで国は守れない。母上の優しさは姉上を救えなかった。父上の責任感は王国を眠らせた。姉上の祈りは獣に喰われた。なら恐怖で従わせるしかない。忘却で反乱の芽を摘み、白竜で外敵を焼き、王権を絶対にする。それでようやく、誰も王家の子を犠牲にできなくなる!」
リオはその匂いを嗅いだ。
野心。
怒り。
恐怖。
そして、幼い日の無力感。
エルヴィンは単なる簒奪者ではなかった。
けれど、だからといって許されるものではない。
ミナが小さく言った。
「誰かを犠牲にしない国を作るために、他の誰かを犠牲にするんですか」
エルヴィンは彼女を見た。
「辺境の娘が口を挟むな」
ミナは一瞬怯えた。
だが、自分の喉に手を当てると、はっきり言った。
「私は辺境の薬草師、ミナ・リュースです。あなたの命令で声を奪われました。だから口を挟みます」
エルヴィンの目が細くなる。
グラントが前へ出た。
「殿下。もう終わりです」
エルヴィンは彼を見た。
「グラント。裏切ったのか」
グラントは深く頭を下げた。
「はい」
「私が誰のために動いていたか、お前は知っているはずだ」
「知っています。あなたが王女殿下を救いたかったことも。私自身が忘れたい痛みにつけ込まれたことも」
「なら、なぜ」
「忘却に救いはありませんでした」
グラントはミナの罪の瓶を掲げた。
「私は、忘れて怪物になった。殿下、あなたも同じ道を進んでいます」
エルヴィンの顔が歪んだ。
「黙れ」
彼の指輪が黒く光る。
リオは息を吸った。
眠り草、黒鉄、血の契約。
まだ持っている。
第二王子自身も、忘却の獣に触れている。
だが霊廟で獣は口を閉じた。完全な力はもうないはずだ。それでも、王子の指輪には残滓がある。
「近衛!」
エルヴィンが叫んだ。
「国王陛下と王女殿下は幻術に囚われている! 調香師リオ、白竜、セリカ・アルヴァン、グラントを反逆罪で拘束せよ!」
兵士たちは動けない。
王命と王子命。
目の前にいる国王。
王子の言葉。
王妃の部屋に満ちる菫の香り。
彼らの記憶が揺れている。
エルヴィンは歯を食いしばった。
「ならば、思い出す必要などない」
彼は指輪の黒石を砕いた。
無臭の風が部屋に吹き荒れる。
近衛兵たちの目が空になる。
リオは叫んだ。
「全員、名前を!」
ミナが歌い始める。
セリカが王の前に立つ。
リュミナが白い光を纏う。
グラントがエルヴィンへ駆け出す。
しかし、王子は彼を見て冷たく言った。
「忘れろ、グラント」
黒い風がグラントを直撃した。
彼の腕から、ミナの罪の瓶が落ちる。
「エリス……リリア……」
彼は必死に呟く。
「ミナ……私の罪……」
だが、目から光が薄れていく。
リオは走った。
瓶が床に落ちる前に受け止める。
ミナが叫ぶ。
「グラントさん!」
その声が、部屋に響いた。
グラントの瞳がわずかに戻る。
「……ミナさん」
彼は倒れながらも、微笑んだ。
「今、名前を呼んでくれましたね」
ミナは泣きそうな顔で頷いた。
「呼びました!」
「なら……まだ、大丈夫です」
グラントは気を失った。
エルヴィンが舌打ちする。
「邪魔な声だ」
ミナの顔がこわばる。
だが次の瞬間、リュミナが王子の前に立った。
「声を邪魔と言うな」
白竜の少女の声は低かった。
「声を奪う者は、だいたい食事も邪魔する。つまり悪い」
「意味がわからない」
「わからなくてよい」
リュミナの背後に、巨大な白竜の影が広がる。
エルヴィンは黒い風を放つ。
だが、リュミナは怯まない。霊廟で契約の一部を取り戻した彼女は、以前よりも強くなっていた。白い霜が黒風を縁取り、形を与える。セリカがその形を斬る。
「リオ!」
セリカが叫ぶ。
「王子の指輪だ!」
「はい!」
リオは鞄を開く。
残った香りはわずか。
だが、王妃の菫がある。王女の白薔薇がある。エルヴィンが最も忘れ、最も歪めた記憶へ届く香り。
姉を救いたかった少年の記憶。
リオはアリアンヌを見る。
「殿下。エルヴィン殿下を呼べますか」
王女は震えていた。
「私が?」
「はい。姉として」
「でも、私は」
「戻る道を残すために」
アリアンヌは弟を見た。
エルヴィンは黒い風の中で、怒りと恐怖を纏って立っている。
彼女は一歩、前へ出た。
国王が止めようとしたが、アリアンヌは首を振った。
「エル」
その呼び名に、王子の動きが止まった。
エルヴィンではない。
殿下でもない。
幼い頃、姉だけが呼んだ名。
「エル」
アリアンヌはもう一度呼んだ。
王子の顔が歪む。
「やめろ」
「扉の外で泣いていたの、聞こえていた」
「やめろ!」
「助けようとしてくれたのも、知っている」
「黙れ!」
「でも、エル。私は兵器が欲しかったんじゃない。怖かっただけ。誰かに、怖かったねって言ってほしかっただけ」
黒い風が揺らぐ。
リオはその瞬間を逃さなかった。
王妃の菫。
王女の白薔薇。
幼い姉弟が遊んだ王宮中庭の芝の匂い。これは王妃の部屋に残っていた記憶から拾ったものだ。小さな木剣。転んだ王子の膝。姉が差し出した布。
そこへ、涙の塩を一滴。
香りを放つ。
エルヴィンの目が見開かれた。
黒い風が止まる。
彼は幼い少年の顔になった。
「姉上……」
アリアンヌは泣きながら微笑んだ。
「もう、私のために誰かを焼かないで」
エルヴィンの指輪にひびが入る。
だが、完全には砕けない。
彼の顔に再び怒りが戻る。
「遅い」
その声は低かった。
「もう遅いんだ、姉上。私は、たくさんやった。戻れない。戻ったら、私は何になる?」
リオは答えた。
「罪人です」
部屋の空気が凍った。
エルヴィンがリオを見る。
リオは逃げなかった。
「でも、名前のある罪人です。何をしたのか、誰に謝るのか、何を返せないのか、それを覚えることができます」
「偉そうに」
「はい」
「母も、お前も、同じだ。香りだの記憶だの、綺麗事を並べる」
「綺麗ではありません」
リオは床に倒れたグラントと、震えるミナ、黒紋の残るアリアンヌ、疲れ果てた国王を見た。
「とても汚くて、痛くて、面倒です。忘れた方が楽です」
「なら」
「でも、楽な方へ行った結果が今です」
エルヴィンの顔が歪む。
セリカが剣を構えたまま言った。
「王子。剣を置け。指輪を捨てろ。裁きは避けられんが、まだ名を失うな」
「辺境の反逆者が、私を裁くのか」
「裁くのは法だ。私は斬るかどうかを決めるだけだ」
「物騒だな」
「今さらだ」
国王が前に出た。
「エルヴィン」
王子は父を見た。
そこには憎しみと、まだ消えない愛が混じっていた。
「父上。あなたはいつも遅い」
国王はその言葉を受け止めた。
「そうだ」
「姉上が泣いた時も、母上が死んだ時も、私が手を汚した時も」
「そうだ」
「謝って済むと思うのか」
「思わぬ」
「なら、なぜ戻ってきた」
国王は言った。
「遅くても、戻らねばならぬからだ」
エルヴィンは笑った。
泣きそうな笑いだった。
「王らしい言葉ですね」
「父として言っている」
その一言に、エルヴィンの指輪がついに砕けた。
黒い石が床へ落ちる。
無臭の風が消えた。
近衛兵たちが膝をつき、夢から覚めたように周囲を見回す。
エルヴィンは立ったままだった。
だが、その目から力が抜けていた。
セリカが近づき、剣を突きつける。
「武器を捨てろ」
王子は短剣を床に落とした。
金属音が王妃の私室に響く。
アリアンヌは弟へ歩み寄ろうとした。
だが、エルヴィンは首を横に振った。
「来ないでください、姉上」
「エル」
「今来られると、私はまた救われたいと思ってしまう」
アリアンヌは立ち止まった。
エルヴィンは国王へ向き直る。
「父上。私は裁かれますか」
「そうしなければならぬ」
「王として?」
「王として。そして父として、お前が裁きを受ける場に立つまで、名を呼び続ける」
エルヴィンは目を閉じた。
「それは、罰ですね」
国王は答えなかった。
王子は近衛に拘束された。
だが、その場に勝利の歓声はなかった。
メリッサ侍女長が静かに菫の香炉へ香を足す。
ミナはグラントのそばに膝をつき、彼の脈を確認している。
「生きています」
リオは安堵した。
リュミナは砕けた指輪の黒石を踏み潰そうとして、セリカに止められていた。
「証拠だ」
「嫌な匂いがする」
「だから証拠だ」
「噛むより踏む方がよいと思う」
「どちらも駄目だ」
王妃の私室の窓から、朝の光が差し込んだ。
王都の朝。
まだ嘘の匂いがする。
まだ罪の瓶は回廊に並び、街には忘却の影響が残り、王城では混乱が始まるだろう。第二王子の派閥は抵抗するかもしれない。国王と王女の帰還を信じない者もいる。白竜の存在が明らかになれば、恐れる者も利用しようとする者も現れる。
すべてはこれからだ。
だが、王妃の私室には香りが戻っていた。
菫。
白薔薇。
薬草茶。
血。
涙。
そして、誰かが誰かを呼ぶ声。
リオは窓辺に立ち、王都を見下ろした。
追放された日、彼はこの街を鉄と嘘の匂いだと思った。
今もそれは消えていない。
けれど、その奥に別の匂いがある。
朝のパン。
濡れた石畳。
洗濯物。
子どもの髪。
下町のスープ。
兵士の故郷。
忘れられかけても、まだ残っている生活の匂い。
「リオ」
セリカが呼んだ。
「はい」
「終わった顔をするな。これから尋問、証拠整理、派閥の拘束、王女の治療、白竜の説明、村への報告がある」
「聞くだけで倒れそうです」
「倒れるな。お前には調香の証言をしてもらう」
リュミナが言った。
「それと鍋」
ミナが続ける。
「リューネ村へ帰る時の薬も準備しないと」
グラントが床からかすれた声を出した。
「私の裁判の準備も……」
セリカが彼を見る。
「お前は寝ていろ」
「はい……」
リオは少し笑った。
疲れている。
怖い。
これからの方が大変かもしれない。
それでも、帰る場所がある。
名前を呼んでくれる人がいる。
そして香りは、まだ残っている。
王都の朝は、まだ嘘の匂いがした。
けれどその嘘の下で、真実の香りがゆっくりと目を覚まし始めていた。




