第十一話 白薔薇の庭で、王女は救いを間違える
霊廟は、地下にあるはずなのに空を持っていた。
いや、空に似たもの、と言うべきかもしれない。頭上には石の天井があるはずだった。けれど見上げれば、そこには夕暮れ前のような淡い白光が広がっている。雲もなく、太陽もない。ただ光だけがある。どこから差しているのかわからない光が、一面の白薔薇を照らしていた。
薔薇は美しかった。
あまりにも美しかった。
花弁は雪より白く、葉は深い緑をしている。棘には露が光り、その一滴一滴が小さな記憶を映していた。王都の街路、戦場、子どもの寝顔、葬列、舞踏会、燃える村、祈る手。無数の記憶が露の中で瞬き、次の瞬間には白い花の香りへ溶けていく。
だが、その香りはすぐに消える。
庭の中心に開いた黒い穴が、薔薇の香りを吸い込んでいた。
穴は形を持たない。獣と呼ぶには輪郭がなく、神と呼ぶにはあまりにも飢えている。ただ、そこに口があるとわかる。世界の匂いを、記憶を、名前を、痛みを、愛を、すべて飲み込もうとする口。
リオは息を吸った。
薔薇の甘さ。
王妃の菫。
母の雨。
リューネ村のスープ。
セリカの革。
ミナの薬草帳。
リュミナの白い花冠。
グラントの白薔薇と蜂蜜。
それらが、黒い穴へ向かって少しずつ引かれている。
「小瓶を閉じてください」
リオは言った。
「香りを吸われます」
ミナが慌てて薬草籠を押さえる。セリカは革手袋を握りしめ、リュミナは花冠を外套の中へ深く隠した。グラントはミナの罪の瓶と、妻と娘の香りを胸に抱え込む。ユリスは自分の故郷の小瓶を両手で包んだ。
アリアンヌ王女は、白薔薇の庭の中央に立っていた。
黒い髪は腰まで垂れ、白いドレスは薔薇の花弁のように広がっている。顔の半分を覆う薄布の下から、片方の目だけが見えていた。その目は暗く、そしてひどく疲れていた。
王女の背後には石棺がある。
その上に、国王が眠っていた。
老いた王の身体は白い布に包まれ、胸の上で両手を組んでいる。死んでいるように見えるが、微かな呼吸がある。その呼吸が黒い穴へ細い糸のように伸び、封印の一部になっているのがリオには匂いでわかった。
国王は眠っているのではない。
自分を鎖にしている。
だが、その鎖はもう擦り切れかけている。
「父上は、よく耐えたわ」
アリアンヌが静かに言った。
「何年も、何年も。王として、封印として。けれど、もう限界。王国の悲しみは増えすぎた。獣は飢えすぎた。誰かが終わらせなければならない」
「終わらせるとは、すべてを忘れさせることですか」
リオは問う。
王女は頷いた。
「そう。王都から始めるわ。貴族も、兵士も、商人も、貧民も。みんな、まず痛みを忘れる。次に争う理由を忘れる。最後に自分が何を憎んでいたのかを忘れる。そうすれば、誰も傷つけ合わない」
セリカが剣を抜いた。
「誰も愛せなくもなる」
「愛は苦しみを生む」
「愛がなくても人は苦しむ」
「なら、その苦しみも忘れればいい」
アリアンヌの声には、揺るぎない優しさがあった。
だからこそ恐ろしかった。
彼女は支配したいのではない。
自分の正義に酔っているのでもない。
本当に救いたいのだ。
世界から痛みをなくしたい。そのためなら、世界そのものを空白にしても構わないと信じている。
リュミナが一歩前へ出た。
「アリアンヌ。お前は寒い」
王女の目が白竜へ向く。
「白竜」
「お前の周りは、何も匂わない。薔薇を持っていても、花が震えている。お前は救っているのではない。自分と同じ寒さに、みんなを沈めようとしている」
アリアンヌの目がかすかに揺れた。
「あなたに何がわかるの」
「忘れたからわかる」
リュミナは花冠を胸に押し当てる。
「私は三十年眠った。リナを忘れ、谷を忘れ、約束を忘れた。痛みは薄れた。だが、私は私ではなかった。夢の中で怒りだけが残った。あれは救いではない」
「あなたは思い出せたから、そう言える」
「お前も思い出せ」
「嫌」
その一言は、子どものようだった。
白薔薇が一斉に震えた。
「思い出したくない。母の顔も、父の声も、弟の泣き声も、私を霊廟に連れてきた神官たちの手も。全部、痛い。全部、重い。私は王女だから耐えろと言われた。王家の血だから必要だと言われた。国を守るためだと言われた」
アリアンヌは自分の胸を押さえた。
「私が泣いても、誰も聞かなかった。父は王だった。母は王妃だった。エルヴィンは幼すぎた。みんな私を愛していたのでしょう。でも、誰も私の代わりにここへ残ってはくれなかった」
王女の足元から、黒い穴の気配が広がる。
薔薇の根が黒く染まり始めた。
「だから私が終わらせる。もう誰も、私のように記憶を捧げなくていい。誰も、誰かを失って泣かなくていい。罪を覚えて苦しまなくていい。愛したことも、愛されなかったことも、全部、なくしてあげる」
ミナが震える声で言った。
「私の声も、なくすんですか」
アリアンヌは彼女を見る。
「声を奪われた記憶が苦しいなら」
「苦しかったです」
ミナは自分の喉に触れた。
「でも、戻ってきた時、嬉しかった。私の声で、ありがとうって言えた。怒ることもできた。許さないって言えた。歌えた」
彼女は一歩前へ出た。
「苦しい記憶だけ消したら、その言葉も消えます。私は、それは嫌です」
アリアンヌは何かを言おうとして、黙った。
グラントが膝をついた。
「殿下」
アリアンヌの目が彼へ向く。
「グラント。あなたは苦しんでいるでしょう。妻と娘の名を思い出してしまったから」
「はい」
「なら、こちらへ来なさい。もう一度、忘れさせてあげる」
その声は甘かった。
グラントの身体が揺れる。
リオは警戒した。白薔薇の香りが強まっている。王女は彼の空白へ語りかけている。忘れた痛みを取り戻したばかりのグラントにとって、それは耐えがたい誘惑のはずだった。
グラントは胸の瓶を握った。
ミナの声を奪った罪の瓶。
妻と娘の名の香り。
彼はゆっくりと顔を上げた。
「殿下。私は、忘れて楽になりました」
「でしょう」
「しかし、楽になった私は、誰かの声を奪いました。白竜を縛り、村を壊そうとし、罪を命令で覆いました。痛みを忘れた私は、優しくなれなかった。ただ、空白に命令を流し込まれただけです」
王女の眉がかすかに動く。
「あなたは弱かったのよ」
「はい。私は弱い」
グラントは認めた。
「今も、忘れたい。妻と娘の名を呼ぶたび、胸が裂ける。ミナさんの瓶を持つたび、自分を殺したくなる。ですが、それでも……忘れた私よりは、今の私の方が人間です」
ミナが静かに彼を見ていた。
許しではない。
けれど、その言葉を確かに聞いていた。
アリアンヌは唇を噛んだ。
白薔薇の花弁が一枚、黒く染まって落ちる。
「みんな、痛みを美しいものみたいに言うのね」
「美しくはありません」
リオが言った。
王女の視線が彼へ戻る。
「痛みは痛いです。母を失った日の香りは、今も苦しい。できれば開けたくなかった。僕はずっと逃げていました。忘れたふりをして、失敗作の楽しい記憶だけを抱えていた」
彼は空になった小瓶を手に取る。
母の死の日の香りは、もう瓶にはない。
仲間たちと分け合われ、この霊廟の空気の中に混じっている。
「でも、思い出したら、母は僕を責めませんでした。忘れてもいいと言っていた。いつか戻っておいで、と」
アリアンヌの目が大きくなる。
「戻る?」
「はい」
「忘れたら、戻れないわ」
「一人なら、戻れないこともあります」
リオは仲間たちを振り返った。
「でも、誰かが名前を呼んでくれれば。香りを残してくれれば。待っていてくれれば、戻れることがあります」
王女は首を振る。
「そんなの、幸運だっただけ」
「そうです」
リオは認めた。
「だから、王国は本来、その幸運を仕組みにしていた。王が民の悲しみを聞き、竜が土地の記憶を守り、調香師が失われる香りを留める。王妃様はそう書いていました。忘れることを否定するのではなく、戻れる道を残すために」
アリアンヌの顔が歪んだ。
「母は、私を戻せなかった」
「それでも、あなたを見捨ててはいません」
「見捨てた!」
王女が叫んだ。
白薔薇が一斉に散る。
黒い穴が大きく開いた。
「母は死んだ! 父は眠った! エルヴィンは私を助けると言いながら獣を兵器にしようとした! グラントも、神官も、騎士も、みんな自分の罪を忘れることばかり考えた! 私はずっとここにいた! ずっと、ずっと、獣の声を聞いていた!」
その声に呼応するように、黒い穴から囁きが溢れた。
忘れたい。
忘れさせて。
もう痛くないように。
もう愛さなくていいように。
もう名前を呼ばなくていいように。
霊廟の白い光が暗くなる。
国王の身体を縛る糸が悲鳴を上げるように震えた。
リュミナが叫ぶ。
「封印が切れる!」
黒い穴から、腕のようなものが伸びた。
輪郭のない、無臭の腕。
それが白薔薇を撫でると、花は香りを失い、透明な灰になって崩れる。
セリカが前へ出る。
「来るぞ!」
獣の腕が一行へ伸びた。
セリカの剣がそれを斬る。
だが、刃は空を斬っただけだった。腕は剣をすり抜け、セリカの肩へ触れる。彼女の顔が歪んだ。
「っ……」
「セリカ!」
リオが叫ぶ。
セリカの瞳が一瞬、空になる。
「私は……」
彼女の右手から剣が滑り落ちかける。
リオはすぐに革手袋の香りを開けた。
「セリカ・アルヴァン!」
彼は叫ぶ。
「村長! 騎士! ガルドの娘!」
ミナも叫ぶ。
「セリカさん!」
リュミナが続く。
「セリカ! 私を殺さなかった者!」
セリカの目に光が戻る。
彼女は歯を食いしばり、落ちかけた剣を握り直した。
「……そうだ。私は、しつこい女だ」
彼女は後ろへ下がりながら息を吐く。
「触れられるだけでこれか。厄介だな」
獣の腕はさらに増えた。
一本はユリスへ。
彼は短槍を構えたが、腕に触れられた瞬間、呆然とした。
「俺は……誰のために」
グラントが叫ぶ。
「ユリス! 王都兵! 証人! 妹に銀貨を送っていると言っていた!」
ユリスの目が戻る。
「そうだ……妹に、薬代を」
ミナが赤鈴草の薬香を投げた。
香りが霊廟に広がり、獣の腕の動きが少しだけ鈍る。
リュミナが本来の力を解放し始めた。
白い光が彼女の身体を包み、小さな少女の影の背後に巨大な竜の輪郭が浮かぶ。翼。角。星の鱗。彼女の咆哮が霊廟の空気を震わせた。
「名を持たぬものよ!」
リュミナの声は、古代の鐘のようだった。
「私はリュミナ! リューネの守り手! お前を祈りに戻すために契約した竜!」
黒い穴が揺れた。
獣が彼女を覚えているのかもしれない。
だが、完全には止まらない。
むしろ、リュミナの記憶の香りを嗅ぎつけたように、巨大な腕が彼女へ伸びた。
「リュミナ!」
リオが青と琥珀の瓶を同時に割る。
眠りと森の記憶。
白竜が守っていた谷の香り。
獣の腕が一瞬逸れる。
その隙にリュミナは霜の息を吐いた。無臭の腕は凍らない。だが、腕が通った空間に白い結晶が生まれ、その輪郭だけが見えるようになる。
「セリカ、今!」
セリカが走る。
今度は輪郭がある。
彼女の剣が、霜で縁取られた腕を断った。
黒い穴が悲鳴のような無音を発する。
音がないのに、全員の耳が痛んだ。
アリアンヌが両手で頭を押さえる。
「やめて……獣を傷つけないで」
「殿下、離れてください!」
リオが叫ぶ。
「あなたも飲まれます!」
「私は、もう一緒なの」
王女は笑った。
泣いているような笑みだった。
「私と獣の境目なんて、もうない。私が痛い時、獣が食べる。獣が飢える時、私が祈る。だから私が終わらせるしかない」
「違います!」
「何が違うの!」
アリアンヌの叫びで、白薔薇の庭が歪んだ。
リオの足元に雨の匂いが立ち上る。
彼は反射的に後ずさった。
霊廟が、台所に変わる。
母の寝台。
冷たい手。
泣いている幼い自分。
獣は、リオの痛みを掴んだのだ。
――忘れたいでしょう。
アリアンヌの声が、母の声に重なる。
――忘れれば、もう泣かなくていい。
リオの視界が揺れる。
瓶はもう空だ。
母の死の日の香りを、彼は差し出した。扉を開くために。だが、差し出した痛みを獣が掴み直し、彼の中へ押し戻してくる。
何度も。
何度も。
母の手が冷たくなる瞬間を。
「リオ!」
セリカの声。
遠い。
「リオさん!」
ミナの声。
薄い。
「リオ!」
リュミナ。
「リオ・クラウゼン!」
グラント。
名前が聞こえる。
だが、雨音が強い。
幼いリオが泣いている。
治せなかった。
救えなかった。
香りなんて何の役にも立たない。
花の汁を混ぜるだけの無能。
母一人救えなかった。
王妃も救えなかった。
国王も、王女も、白竜も、誰も――
頬に痛みが走った。
現実に戻る。
セリカがリオの前に立っていた。
彼の頬を平手で叩いたのだ。
「起きろ」
彼女の声は低く、強かった。
「お前は母親を救えなかったかもしれない。王妃も救えなかったかもしれない。だが、ミナの声を戻した。リュミナを起こした。私の腕を動かした。村を救った。足りないものばかり数えるな」
ミナがリオの手を握る。
「リオさんの香りで、私は話せます」
リュミナが彼の外套を掴む。
「お前がいなければ、私はまだ寒い夢の中だった」
グラントが震える声で言う。
「私も、妻と娘の名を思い出せなかった」
ユリスも叫ぶ。
「俺も、ここまで来られなかった!」
リオは息を吸った。
雨の匂いの中に、仲間たちの香りが混じる。
革。
薬草。
白い花。
白薔薇と蜂蜜。
兵士の鉄。
スープの湯気。
母の手の冷たさは消えない。
だが、その周りに温かいものがある。
リオは立ち上がった。
「アリアンヌ殿下」
王女は彼を見た。
「僕は、忘れません」
「なぜ」
「忘れてもいいと言われたからです」
アリアンヌの目が揺れる。
リオは続けた。
「忘れてもいい。逃げてもいい。泣いてもいい。でも、戻れる場所を残したい。あなたにも」
王女は首を振る。
「私には、ない」
「あります」
リオは王妃の手紙を取り出した。
「王妃様の香り。国王陛下の眠り。リュミナ様の契約。セリカの血。エルヴィン殿下の歪んだ願いさえ、あなたを救いたいという思いから始まったのかもしれない」
「救えなかった」
「まだ終わっていません」
リオは鞄の小瓶をすべて取り出した。
残りは少ない。
ここまでの旅で、ほとんど使ってしまった。
だが、それでいい。
香りは瓶に閉じ込めるためだけのものではない。分け合うためのものだ。
「みんな、香りを貸してください」
セリカが革手袋を差し出す。
ミナが薬草帳を開く。
リュミナが白い花冠から、もう一枚だけ花弁を外す。
グラントが白薔薇と蜂蜜の瓶、そしてミナの罪の瓶を差し出す。
ユリスが故郷の香りを。
リオは王妃の菫、母の空瓶に残る最後の雨、リューネ村のスープの香りを並べる。
アリアンヌは呆然と見ていた。
「何をするの」
「香りを作ります」
「何の香り」
リオは黒い穴を見た。
名を持たぬ神。
忘却の獣。
祈りから獣へ落ちたもの。
「戻るための香りです」
彼は調合を始めた。
霊廟の白薔薇の花弁を一枚。
王妃の菫。
白竜の花冠。
アルヴァンの革手袋から削った微かな革粉。
ミナの薬草帳に挟まっていた赤鈴草。
グラントの白薔薇と蜂蜜。
罪の瓶から、ミナが許した分だけではなく、許していない重さを一滴。
ユリスの故郷の麦。
リューネ村のスープ。
母の雨。
最後に、リオ自身の血を一滴。
香りは混ざり合わなかった。
強すぎる。
痛みが多すぎる。
一つにまとめようとすれば、瓶が割れる。
リオは歯を食いしばる。
「違う……まとめるんじゃない」
王国も、人も、記憶も、一つの香りに統一するものではない。
混じり合いながら、別々に残るもの。
彼は調合法を変えた。
一つの瓶へ閉じ込めるのではなく、霊廟の空気そのものへ順番に解放する。
まず、母の雨。
痛みの入口。
次に王妃の菫。
誰かを思う祈り。
セリカの革。
守る誓い。
ミナの薬草。
奪われた声が戻る道。
リュミナの花冠。
忘れた者を呼ぶ名。
グラントの白薔薇と罪。
忘れたい罪を抱える重さ。
ユリスの麦。
小さな生活。
リューネ村のスープ。
帰る場所。
白薔薇。
アリアンヌ自身の孤独。
香りが、層になって広がる。
それは美しい香水ではなかった。
むしろ不格好で、矛盾だらけで、甘さと苦さと血と涙と食事の匂いが同時に存在していた。
だが、それは生きている匂いだった。
黒い穴が、大きく震えた。
忘却の獣は、その香りを喰おうとした。
しかし喰えない。
一つにまとまっていないからだ。
痛みだけを抜けば、祈りが残る。
祈りを抜けば、罪が残る。
罪を抜けば、声が残る。
声を抜けば、名前が残る。
名前を抜けば、帰る場所の湯気が残る。
どれか一つを飲み込んでも、別の香りが誰かを呼び戻す。
リュミナが目を見開いた。
「これは……契約の香りだ」
グラントが震える声で言った。
「建国の儀式……失われた、王と竜と民の香」
アリアンヌは両手で胸を押さえた。
「やめて」
香りが彼女に届く。
白薔薇の奥に閉じ込められていたものが、少しずつ動き出す。
幼い王女。
霊廟へ降りる階段。
母の手を離した日。
本当は泣きたかったのに、王女だから泣くなと言われた夜。
弟エルヴィンが扉の外で泣いていた声。
父が眠る前、彼女の額に口づけた温度。
母エレオノーラが何度も送っていた菫の香り。
届いていた。
彼女は気づいていなかっただけで、届いていた。
「いや……」
アリアンヌの薄布が落ちた。
隠されていた顔の半分には、黒い紋様が広がっていた。忘却の獣と繋がった証。だが、その紋様の隙間から涙が流れている。
「思い出したくない……」
リオは近づいた。
セリカが止めようとしたが、彼は首を振った。
「殿下」
「来ないで」
「あなたは一人で耐えすぎました」
「言わないで」
「もう一人で持たなくていい」
「嘘!」
黒い穴から巨大な腕が伸びた。
リオへ向かう。
セリカが割り込もうとする。
だが、リュミナが叫んだ。
「待て!」
白竜が翼の幻影を広げる。
「これは、契約の瞬間だ」
獣の腕がリオに触れた。
記憶が吸われる。
母の顔。
王妃の声。
リューネ村。
一瞬、すべてが遠ざかる。
だが、そのたびに誰かが名前を呼んだ。
「リオ!」
「リオさん!」
「リオ!」
「リオ・クラウゼン!」
「リオ殿!」
名前が鎖になる。
香りが道になる。
リオはアリアンヌの前に立った。
「一緒に戻りましょう」
アリアンヌは泣いていた。
「戻る場所なんて、もうない」
「作ります」
「誰が」
「僕たちが」
「王国は壊れている」
「直します」
「罪は消えない」
「消さずに、記録します」
「私は、たくさん奪った」
「なら、返す方法を探しましょう」
「返せないものは?」
リオは一瞬、母を思った。
返せないもの。
死者。
失われた時間。
奪われた声の沈黙。
燃えた村。
忘れた年月。
「返せないものは、名前を呼びます」
彼は言った。
「忘れないように」
アリアンヌの顔が崩れた。
彼女は子どものように泣き出した。
その瞬間、黒い穴が激しく暴れた。
アリアンヌから切り離されまいとするように、無臭の腕が彼女の背中へ絡みつく。
「リュミナ様!」
リオが叫ぶ。
「契約を!」
リュミナは頷いた。
白い光が霊廟を満たす。
「私はリュミナ! リューネの守り手! 名を持たぬものよ、思い出せ! お前は獣ではなく、忘れた痛みを祈りへ変えるための器だった!」
セリカが剣を掲げる。
「セリカ・アルヴァン! 契約の騎士の血において、証人となる!」
ミナが歌う。
声を取り戻した少女の歌。
グラントが罪の瓶を掲げる。
「グラント・ローヴェル! 罪を忘れぬ者として、証言する!」
ユリスも叫ぶ。
「ユリス! 王都兵として、民の名を証言する!」
リオは最後に、香りを霊廟の中心へ放った。
「リオ・クラウゼン。調香師として、失われる香りを留めます」
黒い穴が、縮んだ。
獣の口が閉じていく。
だが、完全には消えない。
穴の奥から、初めて匂いがした。
それは土の匂いだった。
雨に濡れた、まだ何も植えられていない土。
名を持たぬ神が、獣になる前に持っていた匂いかもしれない。
アリアンヌの背中から黒い腕が剥がれる。
王女は崩れ落ちた。
リオが支える。
彼女は驚くほど軽かった。
「母上……」
アリアンヌはかすれた声で呟いた。
「菫の香り……届いていたのに……私、ずっと……」
「はい」
リオは言った。
「届いていました」
石棺の上で、国王が息を吸った。
長い長い眠りから戻るように。
霊廟の白光が揺れ、白薔薇の庭に新しい香りが広がる。
王の呼吸。
疲れ果てた父親の匂い。
国を背負った者の重さと、娘を救えなかった悔恨。
国王の目が、ゆっくりと開いた。
「……アリアンヌ」
王女は泣きながら振り返った。
「父上」
その一言で、霊廟の薔薇が一斉に香った。
忘却の獣だった黒い穴は、完全には消えていない。
庭の奥、小さな黒い泉のように残っている。
だが、もう口ではなかった。
香りを喰うのではなく、受け止める穴。
深すぎる悲しみを、一時的に預かる場所。
それをどう扱うかは、これから王国が決めなければならない。
リオはその黒い泉を見つめた。
勝った、とは思えなかった。
救えた、とも簡単には言えない。
王国の罪は残っている。エルヴィンもまだいる。王都は混乱するだろう。アリアンヌが犯したこと、王家が隠したこと、グラントの罪、白竜の封印、リューネ村への迫害。すべてがこれから明るみに出る。
忘れないと決めた以上、苦しい時間が始まる。
だが、それでも。
霊廟には香りが戻っていた。
ミナが小さく笑った。
セリカが疲れたように剣を下ろした。
リュミナが白薔薇を一輪摘み、匂いを嗅いで顔をしかめた。
「肉の方がいい」
リオは思わず笑った。
その笑いに、アリアンヌが涙の中で不思議そうに彼を見た。
「なぜ、笑えるの」
リオは答えた。
「帰ったら、鍋を大きくする約束があるので」
王女は意味がわからないという顔をした。
リュミナは真剣に頷いた。
「王女も来るなら、肉を持ってこい」
セリカがため息をついた。
「霊廟で王女に何を要求している」
「重要だ」
ミナが笑った。
グラントも、泣き疲れた顔で少しだけ口元を緩めた。
国王は石棺の上から、その光景を見ていた。
そして、深く頭を下げた。
王としてではなく、父として。
「すまなかった」
その謝罪は、誰に向けられたものだったのか。
アリアンヌへ。
リュミナへ。
リューネ村へ。
王国へ。
あるいは、忘れられたすべての名へ。
誰もすぐには答えなかった。
謝罪一つで終わることではない。
けれど、謝罪がなければ始まらないこともある。
リオは霊廟の香りを胸いっぱいに吸った。
白薔薇。
菫。
雨。
土。
涙。
スープ。
血。
名前。
そして、まだ形にならない未来の匂い。
香りは残る。
残るから、苦しい。
残るから、戻れる。
白薔薇の庭で、忘却の獣は祈りへ戻り始めていた。
だが王都の上では、まだ誰もこの地下で起きたことを知らない。
第二王子エルヴィンは、姉と獣を兵器にする計画が失われたことに、まもなく気づくだろう。
王国の記憶をめぐる戦いは、終わったのではない。
ようやく、誰も忘れられない形で始まったのだ。




